| 1469年、法律家の父ベルナルド・ディ・ニッコロ・マキャヴェッリとその妻バルトロメーア・ディ・ステファノ・ネリの3人目の子として生まれたp.5。 |
| マキャヴェッリ家はフィレンツェ共和国の要職を幾人か輩出した名家であり池田(1995)205頁。 |
| 、一説にはトスカーナの旧侯爵家の子孫であるともされる。 |
| 父ベルナルドは弁護士で年収は百十フォリーノ。 |
| 貧しい階級のものではないが、絶対に裕福な家庭の者でもなかった。 |
| いわゆる中流ではあるが、マキャヴェッリ本人は「私は貧しく生まれた。 |
| だから、楽しむより先に、苦労することを覚えた」と後年記している。 |
| 塩野(2001)マキャヴェッリは他の兄弟達と共に父母の愛情に包まれ、上流階級の必須教養であったローマ・ギリシャ古典やラテン語等を学んで育った。 |
| その青少年期は、大ロレンツォによる独裁、大ロレンツォ死後に発生したメディチ家追放(1494年)、サヴォナローラの神政とその失脚・処刑(1498年)等、フィレンツェ共和国の激動期に重なる。 |
| 1498年、マキャヴェッリはピエロ・ソデリーニ政権下の第二書記局長に登用された。 |
| マキャヴェッリが属した第二書記局は内政・軍政を所轄し、自身が各国との交渉に関わることも多く、外国に派遣されることも度々であった。 |
| マキャヴェッリは見聞きした各国為政者や古典から学んだ歴史上の人物の中から、権謀術数に長けた教皇軍総司令官チェーザレ・ボルジアに理想の君主像を見出すようになった。 |
| マキャヴェッリは自らの経験と考察から、国の根源は傭兵に拠らない軍事力にあると確信し、国民軍の創設を計画した。 |
| 貴族や富裕層の中には国民軍創設に反対する者もいたが、その企画は実現する。 |
| 国民軍は期待された成果を挙げることなく、ピエロ・ソデリーニ政権は1512年、メディチ家のフィレンツェ復権を後押しするハプスブルク家スペインの前に屈服し、マキャヴェッリは第二書記局長の職を解かれた。 |
| 1513年2月、ジョヴァンニ・デ・メディチ新政権下起こった(ボスコリ事件)に加わった容疑でマキャヴェッリは指名手配され、2月19日自ら出頭して逮捕された(実際には加担してなかったとされる)。 |
| マキャヴェッリは地下牢で、縄で吊るされるという拷問(拷問の中ではさほど残酷な部類には入らない)を6回受けた。 |
| 3月11日にジョヴァンニ・デ・メディチが教皇に選出されたことにより、大赦により(3月11もしくは12日に)釈放された。 |
| 大赦で釈放されているが、保釈金的なものは発生しており、マキャヴェッリの年収の10年分にあたるお金を友人3人に借りて支払っている。 |
| 所有地からのあがりだけで悠々自適でいられる身分になかったマキャヴェッリは、財産はフレンツェ市内の家とサンタンドレアにある山荘だけであった。 |
| 当時フィレンツェ近郊の山荘では、小麦と衣服以外は自給自足できるのが一般的であり、それがあってか、マキャヴェッリは葡萄やオリーブの収穫時期ぐらいにしか行かなかった山荘に、家族7人(本人・妻・子供5人)で移り住む(大赦によりフィレンツェ市内からの1年の追放刑も赦されていたので、マキャヴェッリが追放されたという説は疑問である。 |
| また、マキャヴェッリ自身「失業して給料が入らなくなり、これでは、にわとりでも飼って口をしのぐしかない」と書いている。 |
| 山荘はフィレンツェ・シエナ間に広がるキャンティ地方にあり、ワインの産地である。 |
| 現在、マキャヴェッリの子孫の娘の再婚先であったセリストーリ伯家が、山荘とそれに付随した農園を相続していて、マキャヴェッリの横顔を商標にした「キャンティ・クラシコ」を販売している。 |
| しかし、マキャヴェッリの時代は、ワイン販売が事業として成り立つとは誰も考えてなかったようで、ワインでひと稼ぎとはいかなかったようである。 |
| 43歳にして隠遁生活に入らざるをえなかったマキャヴェッリは、昼間は農業に勤しんだり近くの庶民と交わり賭け事等をして時を過ごし、日が落ちると読書、執筆三昧の日々を送った。 |
| 当時の生活ぶりは、1513年12月10日に、ローマ法王庁にフィレンツェ政府より大使として赴任していた、親友のフランチェスコ・ヴェットーリへの一通の手紙から窺える。 |
| イタリア文学史上、最も有名で美しい手紙の一つとされているが、夜になると官服に着替えて『君主論』と題した小論文をまとめていることを述べている。 |
| 執筆活動は政治・歴史・軍事から劇作までに及び、彼の喜劇は大好評を博し著作家としての名声を得た。 |
| マキャヴェッリは、「私は我が魂よりも、我が祖国を愛する」と友人であるフランチェスコ・ヴェットーリ宛の書簡に記した池田(1995)221頁。 |
| ように愛国者を自認しており、いつでもフィレンツェのために役立ちたいと公言していた。 |
| 元来、陽気でお喋りで、飲む・打つ・買うが大好き、また良き夫、良き父親、仕事好きでめげないマキャヴェッリは、独裁的なメディチ家が君臨する新政権下への就職活動を模索するようになった。 |
| マキャヴェッリは共和制支持派と見られていたので、かつての同僚や彼に批判的な人の中には、メディチ政権への猟官運動を冷淡に見る者もいた。 |
| 新たにフィレンツェの支配者となったジョヴァンニ・デ・メディチ、またその後任者ジュリアーノ・デ・メディチの方でも、長く前政権下の政務に携わったマキャヴェッリを用いることはしなかった。 |
| 1516年に死去したジュリアーノ・デ・メディチの後任にロレンツォ・デ・メディチが就任すると、マキャヴェッリに謁見の機会が与えられた。 |
| 謁見の場でマキャヴェッリがロレンツォ・デ・メディチに献上したのが『君主論』である。 |
| ロレンツォ・デ・メディチに献上された本『君主論』には、君主たるものがいかにして権力を維持し政治を安定させるか、という政治手法が書き記されている。 |
| 彼の理論は「フォルトゥーナ」(,技量)という概念を用い、君主にはフォルトゥーナを引き寄せるだけのヴィルトゥが必要であると述べた。 |
| 『リウィウス論』では古代ローマ史を例にとり偉大な国家を形成するための数々の原則が打ち立てられている。 |
| 全てにおいて目的と手段の分離を説いていることが著作当時において新たな点であった。 |
| 共和主義者のマキャヴェッリであったが、スペインとフランスがイタリアを舞台にして戦う「イタリア戦争」に衝撃を受けた。 |
| 彼が体験した挫折感と、独立を願って止まない情熱の存在があったからこそ、『君主論』が生まれたといわれる。 |
| マキャヴェッリは君主論の中で、混乱するイタリアにあって国を治めるために、自国軍創設や深謀遠慮の重要性を故事を引き合いに出して説いている。 |
| 理想の君主チェーザレ・ボルジアを例示して、イタリア半島統一を実現しうる君主像を論じた。 |
| チェーザレ・ボルジア失脚当時には、マキャヴェッリも「かつての公爵とは千年の隔たりを感じる」と冷たい評価を下しながらも、『君主論』26章では、チェーザレについて次のような言葉を残す。 |
| 「今までに、ある人物の中に、神がイタリアの贖罪をあがなうよう命じられでもしたかのような、ひとすじの光が射したことがあった。 |
| だが、残念なことにこの人物は、その活動の絶頂期に運に見放されてしまったのである」。 |
| そしてそれに続く言葉は、「こうして息絶えだえのイタリアは、今自らの傷を癒してくれる人を望んでいる」であり、とどめにメディチ家に対して「今日、ご尊家がこの贖罪行動の先頭に立つ他に、イタリアの期待に応えられる人がどこにあろうか」と激励を送った。 |
| 1520年、マキャヴェッリ理論の傾倒者が多く首謀者に含まれた反メディチの陰謀オルティ・オリチェライ事件が発生したが、ロレンツォの後任者ジュリオ・デ・メディチ(後のクレメンス7世)は、マキャヴェッリの事件への関与を一切問うことをしなかったばかりか、著作家として才能を開花させていたマキャヴェッリに『フィレンツェ史』の執筆を依頼した。 |
| このようにメディチ家政権下で顧問的に用いられるようになったマキャヴェッリだったが、1527年に発生したローマ略奪でメディチ家がフィレンツェから追放されると、マキャヴェッリもまた政権から追放されるはめになった。 |
| 一貫した共和制支持派からは「''メディチ家に擦り寄った裏切り者''」、ある者からは「''目的のためには手段を選ばない狡猾者''」と非難され失意のうちに病を得て急死した。 |