| 1949年1月26日、ニールは海軍に招集され、ペンサコラ兵学校で飛行訓練を受けるよう指示された。 |
| そこでの18か月間にわたる訓練では、空母カボットやライトなどで航空母艦への離着艦の技術を叩き込まれた。 |
| 1950年8月12日、 ニールの元に一枚の手紙が届き、正式な海軍の飛行士として採用されたHansen,ch.7.。 |
| 最初の勤務地はサン・ディエゴ海軍基地(現ノース・アイランド海軍基地)の航空艦隊第七小艦隊で、二か月後には全機がジェット機で編成される第51攻撃小隊に配属された。 |
| 1951年1月5日、F9F-2Bパンサーで初めてジェット機の操縦を経験し、6か月後には空母への着艦も行なった。 |
| この週に、ニールは士官候補生(Midshipman)から少尉(Ensign)に昇進した。 |
| 月末には、彼ら第51小隊を乗せた空母エセックスは、朝鮮戦争における対地攻撃を行なうために、朝鮮半島へと向けて出航したHansench.8.。 |
| 朝鮮戦争での初の実戦経験は1951年8月29日のことで、任務は金策市を写真撮影する偵察機の護衛であった。 |
| だがその5日後に、彼の搭乗する機は地上からの砲撃を受けることになった。 |
| その日の軍事偵察飛行の主要目的地は、貨物場と、元山市西部のマジョンニ村(Majon-ni)の南にある狭い谷にかかる橋であった。 |
| ニールはF9Fを操り、低高度を時速およそ560kmで飛行しながら対地掃射をしていたが、その時地上からの対空砲が命中した。 |
| 機体は機首をつんのめらせ、電線に右の主翼を接触させた。 |
| これにより、主翼の先端約2メートルほどがもぎ取られた。 |
| 1956年11月20日。 |
| ニールは機体を立て直し、味方の領空に引き返すこともできたが、補助翼が失われたため安全に着陸することは不可能であった。 |
| 残された手段は、射出座席で脱出することだけである。 |
| ニールは海上で脱出し、海軍のヘリコプターによる救助を待つことを選んだ。 |
| 浦項市の沖合で射出座席のレバーを引いたが、パラシュートは強風にあおられ、陸地に舞い戻されてしまった。 |
| ニールは当初の思惑に反して、ヘリコプターではなくジープで救出される結果となった。 |
| またこの時彼を救い上げたのは、航空学校時代からの同級生であった。 |
| その後No.125122F9F-2の残骸に何が起こったのかは不明であるHansen,ch.9.。 |
| 朝鮮戦争では都合78回、計121時間にわたって飛行したが、その経歴のほとんどは1952年1月に集中している。 |
| 最初の20回の出撃でエア・メダル勲章を受章し、次の20回でゴールド・スターを受け、他にコリアン・サービス・メダルやエンゲージメント・スターなども受賞したHansen,page112.。 |
| 1952年8月23日に海軍を退役し、海軍予備役部隊で中尉に昇進した。 |
| 予備役部隊には1960年10月20日まで在籍したHansen,p.118.。 |
| 海軍を退役した後、ニールはパデュー大学に復学した。 |
| 戦争から戻ったあとの二年間の学業生活は、目覚ましいものであった。 |
| ファイ・デルタ・シータに再入会し、全学生が参加するレビュー(風刺喜劇)の脚本と助監督を担当したこともあった。 |
| 彼の最終GPAは6.0中4.8であったHansen,p.62.。 |
| 1955年、ニールは航空工学の学位を得て同大学を卒業した。 |
| 在学中、ニールは家庭経済学を専攻するジャネット・エリザベス・シェアロンと知り合った。 |
| 二、三の友人によると、この間どういういきさつがあったのかは知らないが、ニールがNACAのルイス飛行推進研究所で働いていたあたりから雰囲気が変わったように見えたという。 |
| 1956年1月28日、二人はイリノイ州ウィルメッテの教会で式を挙げた。 |
| その後ニールがエドワーズ空軍基地に転勤したときは、彼は独身寮に住み、ジャネットはロサンゼルスのウェストウッドに一人で住んでいたこともあった。 |
| それでも半年後にはアントロープ・ヴァレイに一軒家を購入して新居を構えたが、ジャネットは後に結婚で大学を中退したことを後悔したHansen,pages124–127.。 |
| 子供は三人授かったHansen,p.128.が、真ん中の子カレンは脳幹に悪性の腫瘍があると診断された。 |
| X線療法で病状の進行は抑えられたが、体力が衰え、立つことも話すこともできなくなり、1962年1月28日に肺炎のため死亡したHansench.14.。 |