| パット・サマーオール『ヒーロー・インタヴューズ』朝日新聞社刊、21~23ページ弟のトミー・アーロンも後にメジャーリーガーとなったが、ハンクが殿堂入りした2年後(1984年)白血病により亡くなっている。 |
| 最初はニグロ・リーグのクラウンズと契約して遊撃手として力をつけたが、1952年にボストン・ブレーブス(現・アトランタ・ブレーブス)のスカウトの目にとまり契約を結ぶこととなる。 |
| この時、ハンクのバットの持ち方がクロスハンド(右打者なのに、左腕が上になるバットの持ち方)なのに、凄いパワーの持ち主だと周囲を驚かせている。 |
| ブレーブス入団後、チームはミルウォーキーにフランチャイズを移転した為ハンクの所属チームの1年目は「ミルウォーキー・ブレーブス」である。 |
| 1954年、ニューヨーク・ジャイアンツから移籍し、左翼手のレギュラーと目されていたボビー・トムソン(1951年のナショナルリーグ・プレーオフ最終戦でサヨナラ3ランを放った選手)が春季キャンプの練習試合で2塁へのスライディングの際に足首を骨折するアクシデントが発生。 |
| 翌日の試合で左翼手で先発出場したハンクは本塁打を放ち、これをきっかけにメジャー契約を勝ち取った。 |
| 当時は大エースウォーレン・スパーンや主砲エディ・マシューズを擁したチームだった。 |
| 1957年にはナショナルリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズではミッキー・マントルらが主軸の強豪でワールドチャンピオン、ニューヨーク・ヤンキースとの対決であったがハンクはそこで活躍し、ヤンキースを破ってワールドチャンピオンとなるがこれが唯一体験したワールドチャンピオンとなる。 |
| その後ブレーブスは1966年にアトランタに移転するがハンクの注目がさほどでなかったのは事実で、注目されはじめたのは1970年代に入ってウィリー・メイズの本塁打数を塗り替えた頃である。 |
| そして1973年、ルースの記録に追いつくまであと1本のところでシーズンを終えるのだがこのシーズンオフはハンクにとって長いものとなった。 |
| ルースの記録を信奉する者や、ルースの記録を黒人のアーロンが破ろうとしていることに反感を抱く白人至上主義者による執拗な嫌がらせや身の危険となる脅迫が相次いだのである。 |
| ハンクは当初、この事実を隠していたが、ある時ふとした事がきっかけでこれに触れたところ、今度は全米中からハンクを支持する激励の手紙が届いた。 |
| 「貴方への嫌がらせの手紙を処分するいい物を送りましょう」と、マッチを送ってきた白人もいた。 |
| 当時ハンクは「ベーブ・ルースを忘れてほしいとは思っていない。 |
| ただ、私を覚えてもらいたいのです」と訴えている栗山英樹監修『言葉の魔球 野球名言集』出版芸術社 178ページ。 |
| これらをはねのけ翌1974年の開幕戦、シンシナティ・レッズ戦で本塁打を放ちルースの記録に並ぶと同年4月8日、本拠地フルトン・カウンティ・スタジアム(当時ブレーブス本拠地)でロサンゼルス・ドジャースのアル・ダウニング投手から715本目の本塁打を放ち、ルースの記録を破った(ホームランボールはレフトフェンスとスタンドの間にあったブレーブスのブルペンに飛び、リリーフ投手トム・ハウスが直接グラブでキャッチした)。 |
| この年の秋には日米野球で来日し読売ジャイアンツの王貞治と本塁打競争を行い、10対9でアーロンが勝っている。 |
| また王に手土産としてスパイクとグラブをプレゼントしたが、スパイクは王の足には大きすぎたりグラブも右利き用(王は左利き)だったがそれでも王は喜んで受け取ったというエピソードがある。 |
| 王がハンクの通算本塁打記録を塗り替えた時、米メディアの多くは日本の球場の狭さや投手レベルを引き合いに出し王の偉業を「無価値なもの」とし、またMLBでも非公認扱いとされている。 |
| しかしハンク自身は王の記録達成に心から敬意を表し、紳士的に祝福した。 |
| そしてフラミンゴのはく製を記念にと王に贈っている。 |
| 以降、王とは前述の通り長い親交があり1990年にはアサヒビール飲料(現・アサヒ飲料)の缶コーヒー「JO」のCMでも共演している。 |
| 翌1975年からミルウォーキー・ブルワーズに移籍して、2年間をそこで過ごしてバットを置いた。 |
| 本塁打数755本はメジャーリーグ歴代2位(右打者では1位)。 |
| また通算安打数も3771本で、引退した当時はタイ・カッブに次ぐ記録であった。 |
| 1982年に野球殿堂入り。 |
| アトランタ・ブレーブス、ミルウォーキー・ブルワーズの背番号44はそれぞれ永久欠番に指定されている。 |
| 引退後はブレーブスの球団副会長などを務め、ほかにも王と共に世界少年野球大会を提唱し、野球の普及、発展に努める。 |
| 2006年、ワールド・ベースボール・クラシックの決勝において始球式を務めた。 |
| その際、日本代表監督を務めていた王と肩を寄せ軽い談笑をしているシーンが放送された。 |
| ちなみに王は「尊敬する野球選手は?」という問いには必ずハンクの名を入れる。 |
| 2007年8月7日、バリー・ボンズが通算756本の本塁打を放ちハンクの通算本塁打記録を抜いたが、薬物疑惑もあるボンズの式典に出席しないと表明していた。 |
| ボンズの記録達成時にはVTRでコメントを球場に流している。 |
| 2009年8月7日、共同通信によると、2003年に匿名で行われたドーピング検査の陽性反応を示した選手のリストを公表すべきだとAP通信のインタビューに答えている。 |
| 曰く、「私は長年野球をしていたからシーズン70本以上の本塁打を放つのは無理ということが分かる」とのことで、薬物疑惑のある選手の記録にはアスタリスクを付けるべきだとしている。 |