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プロフィール
- ハンニバルとは
- 少年期
- アルプス越え
- トレビアの戦い
- トラシメヌス湖畔の戦い
- カンナエの戦い
- ローマ側の反撃、スキピオ登場
- ザマの戦い
- カルタゴ再建
- シリアへ亡命
- 最期
- ローマ人の評価
- エピソード
- 参考文献
- 登場作品
ハンニバル・バルカ(HannibalBarca,紀元前247年-紀元前183年/紀元前182年)は、カルタゴの将軍。 ハミルカル・バルカの長子。 ハンニバルは「 バアルの恵み」や「慈悲深き バアル」、「 バアルは我が主」を意味すると考えられ、バルカとは「雷光」という意味である。第二次ポエニ戦争を開始した人物とされており、カルタゴが滅びた後もローマ史上最大の敵として後世まで語り伝えられていた。2000年以上経た現在でも彼の戦術は研究対象として各国の軍隊組織から参考にされるなど戦術家としての評価は ...
少年期
| 第一次ポエニ戦争でシチリアを共和政ローマに奪われると、ハンニバルの父、ハミルカルは当時未開であったイベリア半島の植民地化政策に乗り出す。 |
| そして植民都市カルタゴ・ノウァを建設し、イベリア人諸部族をまとめて兵士を集め、軍隊を養成した。 |
| ティトゥス・リウィウスによると、ハンニバルが父に同行を願い出た際、父はハンニバルをバアルの神殿に連れて行き、息子に一生ローマを敵とする事を誓わせたという。 |
| ハミルカルの死後、ハンニバルは、ハミルカルの娘婿であり義理の兄にあたるハシュドゥルバルのもとで少年期を過ごす。 |
アルプス越え
| 紀元前221年にハシュドゥルバルが暗殺されると、ハンニバルは軍隊に司令官として指名され、カルタゴから承認を受ける。 |
| そしてイベリア半島戦線の指揮を取り、エブロ川南方の制圧に着手した。 |
| 当時カルタゴはローマとエブロ川を境界として相互不可侵条約を結んでいたが、ハンニバルの力を恐れたローマはエブロ川南方にある都市サグントゥム(現サグント)と同盟関係を結び、彼の侵出を阻止しようとする。 |
| しかし、ハンニバルはサグントゥムを包囲攻撃し、八ヶ月後に陥落させた8ヶ月もかかっているという事から、ハンニバルは野戦は得意だったが攻城戦は不得意だった、という評価がある。 |
| 逆に、ハンニバルはわざと戦いを長引かせ、ローマ側から宣戦布告させることを狙った、という説もある。 |
| こうすることで不可侵条約を無効にし、エブロ川の北へ進出することを狙っていた、というものである。 |
| ローマはハンニバルの行動を条約違反としてカルタゴ政府に懲罰を要求したが、ハンニバルの絶大な人気の前に、カルタゴ政府は彼に対して何の手も打てなかった。 |
| 紀元前218年、ハンニバルはカルタゴ・ノウァを出発。 |
| はじめハンニバルの軍勢は歩兵90,000人(リビア兵60,000、スペイン兵30,000)、騎兵12,000(ヌミディア兵主体)、戦象37頭、カルタゴの伝統通り将官以外は全て傭兵だったという「ローマ人の物語」より、ポリビウスとリウィウスの著作による。 |
| 彼ら二人が参考にしたのはハンニバルのギリシャ語教師シレヌスの記録と、ローマの元老議員ファビウス・ピクトルの記録だが、これらは現存していない。 |
| ハンニバルはエブロ川を渡ったところで、歩兵10,000人、騎兵1,000人をピレネー山脈からエブロ川までの守りに残し、また遠征に不安を抱いたスペイン兵は帰還させた。 |
| ハンニバルの軍勢は歩兵50,000、騎兵9,000、戦象37頭となった。 |
| これを率い、ハンニバルはピレネー山脈を越えガリアに入った。 |
| ローマはハンニバルのピレネー越えに気付いたが、ガリアの深い森林のために、すぐに彼の軍勢の所在が分からなくなった。 |
| ハンニバルはローヌ川を渡るにあたり、騎兵を上流から先発させて対岸のガリア人を掃討し、妨害を排除したが、渡河は危険であり、多くの犠牲が出た。 |
| ここでハンニバルの軍勢は歩兵・騎兵あわせて46,000まで減った。 |
| 戦象も30頭は健在だったようである。 |
| この渡河の際、ローヌの下流を巡回していたハンニバルの騎兵500が、ハンニバル軍を探索するローマ騎兵300と戦闘になった。 |
| 索敵していたローマの執政官、プブリウス・コルネリウス・スキピオが現地に駆けつけたが、彼の到着の3日も前にハンニバルは渡河を終え、アルプス山脈に向かっていた。 |
| このハンニバルのアルプス山脈越えのルートは詳しくは分かってはおらず、現在でも歴史家の間で意見が異なっている。 |
| ともあれ、ハンニバルは山中のガリア人を驚かせるために、戦象を先頭にして行軍をはじめた。 |
| 途中で遭遇したガリア人には「敵はローマ人だ」と伝え、基本的には金品を贈って懐柔した。 |
| 雪が降るほどの寒さや疲労、狭い山道と崖など、行軍は困難をきわめたが、彼らはアルプスを越えた。 |
| イタリアに到着した時点で、ハンニバルの軍勢は歩兵20000、騎兵6000にまで減ったが「ローマ人の物語」より、ハンニバル自身の記録による。 |
| ついにハンニバルはイタリア半島へ進軍し、ローマの元老院を驚愕させる。 |
| 第二次ポエニ戦争(別名、ハンニバル戦争、紀元前218年-紀元前201年)の始まりであった。 |
トレビアの戦い
| ローマはハンニバルの攻撃は予測していたが、まさかアルプス山脈を越えて侵攻してくるとは思ってはおらず、イベリア半島での戦闘準備を行っていた。 |
| 執政官のプブリウス・コルネリウス・スキピオは直ちにハンニバルの動きを阻止すべくローマ軍を出動させるが、ティキヌスの戦いでハンニバルに撃破され、スキピオ自身も負傷する。 |
| ローマ軍の敗北を見るや、周辺のガリア人部族はハンニバルに協力し始めた。 |
| ハンニバル軍は続くトレビアの戦いでも、もう一人の執政官ティベリウス・センプロニウス・ロングスも破る。 |
トラシメヌス湖畔の戦い
| こうして北イタリアに勢力基盤を築き上げると、ハンニバルはさらに勢力を拡大すべく紀元前217年の春に南下を開始し、エトルリアに侵入する。 |
| これに対し、ローマでは新たな執政官グナエウス・セルウィリウスとガイウス・フラミニウスが再びハンニバルの進路を阻もうと進軍するが、トラシメヌス湖畔の戦いで敗北、2人の執政官は戦死した。 |
| この勢いに乗じてローマの同盟都市に離反を促すため、ハンニバルは南イタリア(マグナ・グラエキア)へ向かった。 |
| ハンニバルは「戦勝を材料として同盟都市を離反させ、その上でローマを滅ぼす」という戦略を立てていた。 |
| 戦勝の中でローマ本軍とその捕虜には厳しく接する一方、同盟都市の捕虜は丁重に遇してローマからの離反を促すメッセージを託して即時釈放するなど、工作を重ねていたのである。 |
| ここに至ってローマは非常事態宣言を発令し、クィントゥス・ファビウス・マクシムスを独裁官に任命する。 |
| ファビウスはハンニバルと対峙しつつ直接の戦闘は避けるという方針で臨んだ。 |
| ハンニバルはアプーリア(現在のプーリア)を荒し回りカンパニアへ進軍したが、ファビウスはハンニバル軍に接近するものの、ハンニバルが戦いの火蓋を切ろうとすると退くということを繰り返す。 |
カンナエの戦い
| 紀元前216年、ローマの執政官にガイウス・テレンティウス・ウァッロとルキウス・アエミリウス・パウッルスが当選した。 |
| このうち、ファビウスの戦法に不満を持つウァッロはハンニバルに対して果敢に立ち向かってゆく。 |
| ウァッロはローマ軍を増強し、同盟都市からも兵を募って、ハンニバルのいるアプーリアへ南進した。 |
| しかしハンニバルはウァッロの性急さを利用して決戦に持ち込み、史上有名なカンナエの戦いでローマ軍を完膚なきまでに叩き潰す。 |
| この戦いでは50,000から70,000人のローマ兵士が戦死あるいは捕虜になったという。 |
| 執政官パウッルスと次期執政官に内定していた者2名が戦死、さらに2人のクァエストル、48人のトリブヌス・ミリトゥムが戦死し、ローマは一度の戦闘で指導者層の25%を失うという、過去に例のない完敗を喫した。 |
| これ以降、ローマはハンニバルに対して消極的な戦法に徹することになる。 |
| 勝利したカルタゴ側では余勢を駆って一気にローマを攻略すべきだという意見があり、特に騎兵隊長のマハルバルが強く進言したが、ハンニバルは攻城兵器や兵站の不足という戦略上の理由から、首都ローマへの進軍を選択せずにローマ同盟都市の離反を図ることを決定する。 |
| この時、マハルバルはハンニバルに対し「あなたは勝利を得ることができるが、それを活用することは知らない」と言ったという。 |
| ハンニバルは紀元前216年にカプアを、紀元前212年にタレントゥムを離反させ、シチリア島のギリシア人都市を反乱させるなど成果を挙げたが、それらを除いては目立った成果を上げられず、以後イタリア半島では一進一退の膠着状態が続く。 |
| 上記の戦勝を背景にした工作にもローマと同盟都市の結束は崩れず、このことがハンニバルの戦略的誤算として祟っていく。 |
| シラクサのヒエロニモスと同盟したハンニバルはカルタゴ本国に補給を要求したが、カルタゴ政府はこの戦争に対して初めは日和見の立場を取っており、制海権をローマに握られているせいもあって、ハンニバルは本国とうまく連携することができなかった。 |
ローマ側の反撃、スキピオ登場
| ファビウスの消極戦法は次第に効果を発揮し、ハンニバルの行動はカンパニア領内に封じ込められるようになってきた。 |
| これに対してハンニバルは紀元前215年にアンティゴノス朝のピリッポス5世とも同盟を結び、ローマを内外から圧迫してゆく。 |
| だがローマはハンニバルをイタリア半島に封じ込めながら、国外の敵対勢力を各個に撃破・無力化して行く。 |
| 紀元前211年にプブリウス・スキピオがハンニバルの本拠地であるイベリア半島を攻略し、またギリシアのアエトリア同盟と結託することで東方マケドニアのピリッポス5世の押さえとしている。 |
| ハンニバルは紀元前210年、アプリアに進撃するが、同年にタレントゥムを失ってしまう。 |
| また紀元前208年にはロクリを攻略するローマ軍を蹴散らし、執政官マルクス・クラウディウス・マルケッルスを戦死させるものの、タレントゥムの損失は大きく、補給のおぼつかない彼の行動地域は制限を受けてしまう。 |
| さらにローマがルカニア地方、サムニウム地方を取り戻すと、南イタリアでのハンニバルの戦略的な主導権は奪われてしまう。 |
| 紀元前207年、ハンニバルは再度北上してアプリア地方を制圧、ここでイベリア半島から西進する弟・ハスドルバルの支援を待ったが、ハスドルバルはその途上にメタウルスの戦いで戦死してしまう。 |
| さらにハンニバルと行動を共にしていた弟・マゴのリグリア攻略失敗、またピリッポス5世との連携の失敗などによって、南イタリアでの主導権回復の術を失う。 |
| ハンニバルがアプリア地方に封じ込まれる中、ローマではヒスパニアで功績を挙げたスキピオが攻勢に転じようとしていた。 |
| シチリア島を占拠した後、彼はそこを拠点にして志願兵を募り養成していたが、カンナエの戦いの失敗から攻勢への転換に踏み切れない元老院は、当初スキピオに渡航許可を与えなかった。 |
| 曲折を経てようやく元老院の許可(実際は黙認であり、スキピオへの援助・援軍は約束されなかった)が出たスキピオは、軍勢とともにアフリカに渡航する。 |
| いきなりハンニバルを無視して本土に現れた敵にカルタゴ政府は驚き、ヌミディア王国のシュファクス率いる騎兵を援軍として戦うが敗北した。 |
| この敗戦に狼狽したカルタゴ政府は、態度を一変してローマとの休戦交渉とハンニバルの召還を画策、休戦交渉は成立するか見えたが、ハンニバル召還の露見によって休戦交渉は反故となった。 |
| ともあれ紀元前203年、ハンニバルは十数年ぶりに故国カルタゴに戻る事となった。 |
ザマの戦い
| スキピオは先の会戦でヌミディア王シュファクスを追撃して王位から引きずり下ろし、ローマ側についていたマシニッサをヌミディア王に即位させていた。 |
| これによって、今まで重要な騎兵兵力をヌミディアに依存していたカルタゴ軍は、ローマに対する騎兵の優位を失った。 |
| このような状況の中、ハンニバルはスキピオに直接交渉を打診し、紀元前202年10月19日、ハンニバルは対峙する両軍の前でスキピオと会見した。 |
| ハンニバルはスキピオに対して、ローマとカルタゴは相互不可侵とし、地中海を境に北をローマ領とし、南をカルタゴ領とするという休戦条件を提案する。 |
| しかしスキピオはこのたびの戦争はハンニバルのザグントゥム侵略が発端だと指摘、ローマ人はカルタゴ人を信用できないと拒否する。 |
| ザマの戦いはそれまでのハンニバルの戦いと異なり、歩兵ではカルタゴ有利なものの騎兵ではローマ軍に劣るという状況であった。 |
| 敵に戦象がいる事を知ったスキピオは、軽装歩兵で編成されている歩兵中隊を広い間隔で配置し、直進しかできない戦象を回避させ、無力化する事に成功した。 |
| 大集団の密集した重装歩兵を基幹とするカルタゴ軍は機動力に勝るローマ軍の騎兵に後方から攻撃され、また前面からはローマ歩兵に包囲されて大敗した。 |
カルタゴ再建
| 第二次ポエニ戦争後、カルタゴはローマの同盟国になることを強要され、膨大な賠償金を課せられ、国の前途も危ぶまれた。 |
| ハンニバルは行政の長であるスッフェトに選ばれ、改革の陣頭指揮を取る。 |
シリアへ亡命
| 続いてハンニバルは国力の回復を目指すが、不可能と思われた賠償金の返済をやり遂げた事が、逆にマルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウスを始めとするローマの反カルタゴ派の危機感を募らせる事にも繋がってしまった。 |
| 反ハンニバル派は「ハンニバルがシリア(セレウコス朝)と内通している」とローマに訴え、ローマは事実関係を究明するために調査団の派遣を決定した。 |
| セレウコス朝ではアンティオコス3世の軍事顧問として意見を具申したともされ、シリアがローマとの戦争に突入した際、ハンニバルはシリア軍の参謀の一人としてローマと対峙するが、若い指揮官や王に疎まれて意見は採用されず、エウリュメドン川の戦いで敗北する。 |
最期
| シリア戦争の後、ハンニバルはローマの追っ手から逃れる為にクレタ島、さらに黒海沿岸のビテュニア王国へと亡命した。 |
| 暫くはローマ側もハンニバルがビテュニアへ留まっていたのを知っていたが、元老院の使者としてビテュニアを訪れたティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスはビテュニア王(プルシアス1世)に対し、ハンニバルの身柄の引渡しを迫った。 |
| 奴隷に首を絞めさせたとも、毒薬を仰いだとも伝わっているティトゥス・リウィウス「ローマ建国史」39.51。 |
| なお、没年は紀元前183年か紀元前182年とされるが、ハンニバルのかつての好敵手スキピオ・アフリカヌスもローマ元老院の弾劾を受けて政界を退き、ローマを離れた地で紀元前183年に没している。 |
ローマ人の評価
| 多くの記録には決まり文句のように「彼は残虐きわまりなかった」と書かれており、ティトゥス・リウィウス、さらにキケロでさえもそのような表現を使っている。 |
エピソード
| ザマの戦いから数年後、エフェソスに亡命していたハンニバルは、使節として同地を訪れたスキピオと再会し、しばし言葉を交わしたというエピソードがティトゥス・リウィウスによって伝えられている。 |
| スキピオが史上もっとも偉大な指揮官は誰かと問いかけると、ハンニバルは「第一にアレクサンドロス大王、第二にピュッロス(エペイロス王)、そして第三に自分だ」と答えた。 |
| スキピオが重ねて「ザマの戦いであなたが私を破っていたら」と問うと、「アレクサンドロスを越えてわたしが史上第一の指揮官になっていた」と率直に答えたというプルタルコス「英雄伝」ティトゥス・フラミニウス21。 |
| とは言え、ハンニバルの用いた包囲殲滅戦術は現代の陸軍士官学校でも必ず教材として使われるほど完成度の高いものであり、ハンニバルが戦術を研究する際にピュロスやアレクサンドロス大王を参考にしていたとしても、現代においては戦術家としての評価はハンニバルの方が師匠筋の彼らより高いと言える。 |
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