| 180px|left|thumb|1897年の少将時代のヒンデンブルク。 |
| 1866年4月に士官学校を卒業し、近衛歩兵第三連隊の少尉(Leutnant)に任官した。 |
| 1866年6月にはじまった普墺戦争に従軍し、最初の実戦経験を得た。 |
| 同戦争のケーニヒグレーツの戦い(:de:SchlachtbeiKöniggrätz)で勇戦した功績により赤鷲勲章(:de:RoterAdlerorden)を授与された。 |
| 1870年から1871年の普仏戦争にも従軍し、セダンの戦いに参加した。 |
| その勇敢さを認められ、鉄十字章を受け、さらに1871年1月18日にヴェルサイユ宮殿「鏡の間」で行われたヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位式に、所属する近衛歩兵第三連隊の代表として参列することを許されたのであった。 |
| 以降は第一次世界大戦まで大きな戦争もなく、ヒンデンブルクは平時の軍隊勤務に40年間を過ごすこととなる。 |
| 1873年にはプロイセン戦争大学(陸軍大学)(de)に入学ヒンデンブルク、p.76。 |
| この大学での友人にカール・フォン・ビューロウ、ヘルマン・フォン・アイヒホルン、皇族アレクサンダー・フォン・プロイセンなどがいる。 |
| 皇族の御学友になったことで軍部や政界、宮廷などに顔が利くようになったヒンデンブルク、p.76。 |
| 1877年にプロイセン戦争大学を卒業し、1878年4月に大尉(Hauptmann)に昇進するとともに参謀本部に配属され、シュテティンの第二軍司令部付の参謀となったヒンデンブルク、p.77。 |
| シュテッティン勤務時代の1879年に歩兵大将クルト・フォン・シュペルリンク(:de:KurtvonSperling)の娘ゲルトルート(d:Gertrud)と結婚した。 |
| 彼女との間に一人の息子(オスカー)と二人の娘を儲けたヒンデンブルク、p.79。 |
| 1881年にはケーニヒスベルクの第一師団付参謀、1884年にはポーゼンの第58連隊の中隊長に転任するヒンデンブルク、p.80。 |
| 1885年夏に参謀本部勤務となり、少佐(Major)となる。 |
| 参謀本部から教鞭をとる任務を多く与えられた。 |
| 陸軍大学で戦術の授業を担当するヒンデンブルク、p.86。 |
| 1888年には死去したヴィルヘルム1世の棺の側で衛士を務める栄誉に浴した。 |
| 1889年には陸軍省の軍務局長に就任したヒンデンブルク、p.87。 |
| 1891年に中佐(Oberstleutnant)に昇進 |
| 1893年にはオルデンブルクの第91歩兵連隊の連隊長に任じられるヒンデンブルク、p.88。 |
| 1894年3月17日、大佐(Oberst)に昇進。 |
| 1897年5月22日、少将(Generalmajor)に昇進。 |
| さらに1900年7月9日に中将(Generalleutnant)に昇進するとともにカールスルーエの第28歩兵師団長となり、1904年にはマグデブルクに本部を置く第4軍団長に就任しているベネット(1970年)、p.13。 |
| 1905年6月22日には歩兵大将(GeneralderInfanterie)に昇進Pawly,p.46。 |
| 同年、アルフレート・フォン・シュリーフェンの後任の参謀総長の候補に挙げられたものの、結局「小モルトケ」ことヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケが後任に選ばれている。 |
| ヒンデンブルクは皇帝ヴィルヘルム2世からの御覚えはよくなかったといい、ヴィルヘルム2世は参謀総長の選定にあたって候補者であるヒンデンブルクを問題にも上げなかった。 |
| ただヒンデンブルクは大モルトケやシュリーフェンからの評価は高かったというゲルリッツ、p.154。 |
| なぜヴィルヘルム2世から嫌われていたかは不明だが、彼は1908年の演習で判断を誤ってヴィルヘルム2世の軍を敗北に導いてしまったことがあり、これが原因ではないかという説がある。 |
| ヒンデンブルクは1911年に64歳の時に退役した。 |
| ヒンデンブルク本人の自伝によれば戦争が起こる気配もないし、後進に道を譲らねばならないと考えて退役を決意したというヒンデンブルク、p.93。 |
| ただし1912年には皇帝ヴィルヘルム2世の下問に、戦時には軍司令官となる用意がある旨を答申している。 |
| 以降は第一次世界大戦開戦までハノーファーで隠居生活を始め、旅行や狩猟、絵画収集など趣味に興じた。 |
| また自分がかつて所属していた近衛第3歩兵連隊に属する息子オスカー・フォン・ヒンデンブルク中尉の軍歴を引き上げることに心を砕いていた。 |