| ;シアトルのバンド〜パール・ジャム誕生まで。 |
| ストーン・ゴッサードとジェフ・アメンは1980年代中頃にグリーン・リバーというバンドで活動していて、ツアーやレコーディングも行っていたが、わずかな成功を残してバンドは1987年に解散してしまった。 |
| そして同1987年の後半にはゴッサードとアメンはMalfunkshunというバンドのボーカリストだったアンドリュー・ウッドと共にバンド「マザー・ラブ・ボーン」として活動を始め、1989年初頭にはポリグラム・レコードと契約し、制作費などの資本的なバックアップを得られるようになりレコーディングとツアーを行っていた。 |
| マザー・ラブ・ボーンでのデビュー・アルバム『Apple』が1990年7月に発売され、次世代トップ・ミュージシャンとしての将来が確実とされていたジェフ・アメンとストーン・ゴッサードであったが、デビューから4ヶ月後にアンドリュー・ウッドがヘロインの過剰摂取により他界してしまった(その後の両名のミュージシャン生活設計の相談相手になっていたのはレッド・ホット・チリ・ペッパーズのメンバー達だった)。 |
| それから数ヶ月後にゴッサードは「シャドウ」というバンドのギターリストだったマイク・マクレディを招き入れ、アメンと3人でリハーサルを行ったり、シンガーとドラマーを募集するための音源として5曲のデモ・テープ制作を行う。 |
| その音源をレッド・ホット・チリ・ペッパーズ結成時のドラマー、ジャック・アイアンズが気に入り、彼らのバンドへ加入する事になった。 |
| 1990年頃のエディ・ヴェダーはカリフォルニア州サンディエゴのバンド「バッド・ラジオ」のリード・ボーカリストとして活動していて、ライブ・ハウスの従業員でもあった。 |
| そのヴェダーのバスケット・ボール仲間だったジャックは、ヴェダーから「ボーカリストになりたい」という夢を聞かされており、彼にアメンらのボーカリスト募集用のデモ・テープを聴かせたところ、ヴェダーは歌詞を書き加え3曲(「アライヴ」「ワンス」「フットステップス」)に対してボーカルをオーバー・ダブした。 |
| ジャックはそのテープをメンバー募集中のアメンらへ送付し、アメンとゴッサードはテープを聴いてから1週間ほどの内にヴェダーをボーカリストとしてバンドへ迎え入れる事にした。 |
| 新たなドラマーとしてデイヴ・クルーセンが加わり、バンド名は「ムーキー・ブレイロック」となったが、1990年の秋にはエピック・レコーズと契約を交わす事となり、バンド名はこの時点で「パール・ジャム」となった。 |
| ヴェダーの人生にとって初の大物バンド参加がパール・ジャムで、参加から契約まで数ヶ月しか経なかった為、デビュー直前まで彼のステージングは素人以下とバンド内外から酷評を受けていた。 |
| だが、実際にはそれなりのバンド経験があり、1986年にバッド・レイディオというバンドのオーディションを受けて正式にバンドのヴォーカリストとして迎えられていた。 |
| 1989年にパール・ジャムとして発表されている「BetterMan」はその時にはすでに作られていた曲である。 |
| ヴェダーはバンドに入ると自ら積極的に活動していき、サン・ディエゴに来るバンドに接触をはかり、ジョー・ストラマーやレッド・ホット・チリ・ペッパーズのメンバーと親しくなった。 |
| その後、パール・ジャム加入のためシアトルに移住。 |
| ある夜のライブでヴェダーが興奮し、マイクスタンドの根元の鉄板を客に向かって投げつける暴挙に出た瞬間、今日のグランジバンド的とされるステージパフォーマンスが誕生した。 |
| 幸運にもこの時に怪我人はいなかったが、鉄板が会場の壁に刺さって騒然となった。 |
| しかしこの日を境にヴェダーは、生まれ変わったが如く過激なステージパフォーマンスを展開し、グランジスタイルを完成させる事になった。 |
| 1991年3月にバンドはシアトルの''LondonBridgeStudio''でデビュー・アルバム用のレコーディング・セッションに入った。 |
| しかし、5月にはデイヴ・クルーセンが婚約者の出産を理由に出産日当日にバンドを脱退したため、新たなドラマーとして、EdieBrickell&NewBohemiansで活動していたマット・チャンバーレインを見つけた。 |
| しかし彼はサタデー・ナイト・ライブ・バンドに参加してしまったため、チャンバーレインからの紹介でテキサスの無名ファンクバンドで活動していたデイヴ・アブラジーズを迎え入れる事になった。 |
| そして同年8月27日にデビュー・アルバム『TEN』が発売された。 |
| アルバムのセールス初動はスロー・ペースだったが、1992年中頃にはブレークし始め、ビルボードのチャートでも2位を記録するなどしてゴールド・アルバムとして認定される事になった。 |
| アルバムからはメンバー募集時からの馴染み曲でもある「アライヴ」と、他に「イーヴン・フロウ」「ジェレミー」などがシングル・カットされヒットした。 |
| その後、アルバムは2年間近くビルボードにチャート・インし続けて、当時は最も売れたロック・レコードとして記録され、13xプラチナ・アルバムとしてRIAAから認定される結果となった。 |
| なお「ジェレミー」は、ある少年が教室で拳銃自殺してしまったという記事をエディが読んだのが切っ掛けで、それを彼のクラスメイトが虐められていたという記憶に結びつけて書き上げられた曲である。 |
| ;アルバムのビッグ・セールス。 |
| アルバム『TEN』の成功を経て、パール・ジャムはアリス・イン・チェインズ、ニルヴァーナ、サウンドガーデンらと共にシアトルのグランジ・ロック・シーンでは中心的存在になった。 |
| 1992年にはサタデー・ナイト・ライブやMTVアンプラグド等へ出演し、夏のLollapaloozaツアーでは、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、サウンドガーデン、ミニストリィなどと競演していた。 |
| そしてマット・ディロン主演の映画「シングルズ」のサウンドトラック・アルバム用に「StateofLoveandTrust」と「Breath」の2曲を提供し、自らも出演するなど、徐々に活動の幅を拡げていった。 |
| アルバム・セールスのブレークと共に様々なメディアに書き立てられ、その事が原因となってカート・コバーンとの間に確執が出来るなどの弊害もあったが、1993年にはプロデューサーにブレンダン・オブライエンを迎え、再びスタジオ入りしてニュー・アルバムのレコーディング・セッションを始める。 |
| 10月19日にはセカンド・アルバムとなる『Vs.』をリリースし、アルバムは全米チャートで初登場1位を獲得してその後5週間に渡ってその位置を保ち続ける成功を収めた。 |
| アルバムはアメリカ国内での発売後1週間に95万枚を売り上げるが、この記録は2000年にリンプ・ビズキットに破られるまでは、ビルボード誌における歴代最高の数字だった。 |
| 翌1994年12月22日にはサード・アルバムの『Vitalogy』をリリース。 |
| アメリカでのイニシャル・プレス枚数が350万枚で当時の史上最高を記録し、全米チャートでは堂々の初登場1位を獲得する。 |
| 発売後1週間の売り上げ枚数は87万7000枚に達し、前作『Vs.』に続いて当時歴代2位の売り上げ枚数を記録した。 |
| アナログ・レコード盤はCDに先駆けて限定5万枚がプレスされ、全米アルバム・チャートでは55位を記録するという快挙も達成している。 |
| 1996年にはこのアルバムに収録されている「SpintheBlackCircle」がグラミーで「ベスト・ハード・ロック・パフォーマンス賞」を受賞した。 |