| 現役引退後はレアル・マドリード・カスティージャで指揮を執るなどレアル・マドリードのカンテラで監督を歴任、カンテラの責任者としてイケル・カシージャスなど現在もトップチームでプレーする選手たちを指導していた。 |
| また、トップチームの監督が解任または辞任した際には一時的な措置として監督代行を務め、1994年に数ヶ月間、1996年には一試合指揮を執っている。 |
| 1999年11月、トップチームの新監督だったジョン・トシャックを解任した後、クラブのフロントはデル・ボスケを後任に据えた。 |
| 「監督代行」ではなく「正式な監督」となったデル・ボスケは、リーガ・エスパニョーラでは苦しんだものの、UEFAチャンピオンズリーグ決勝ではバレンシアCFに快勝し、チームを2シーズン振りの優勝に導いた。 |
| 翌2000-2001シーズン、フロレンティーノ・ペレスが新会長に就任し「銀河系」時代の幕開けとなったが、デル・ボスケは監督に留任。 |
| 新加入選手の多さからかUEFAスーパーカップ敗戦、コパ・デル・レイ早期敗退など出だしは躓いたものの、リーガ・エスパニョーラでは圧倒的な攻撃力を見せ付け、4年振りに王座を奪還した。 |
| ちなみにこのシーズン中の3月にクラブはデル・ボスケとの契約を2003年6月まで延長した。 |
| 2001-2002シーズンはスーペルコパで早々にタイトルを獲得すると、チャンピオンズリーグでは流れるような美しいサッカーを披露して勝ち進み、準決勝でFCバルセロナを破り決勝に進出、決勝でレバークーゼンに勝利し優勝。 |
| レアル・マドリードのクラブ創立100周年を華々しく飾った。 |
| 2002-2003シーズンにはUEFAスーパーカップに勝ったのを皮切りに、インターコンチネンタルカップでも優勝。 |
| 時にチームの結束を脅かしかねない強烈な個の力を束ね、リーガ・エスパニョーラでは追走するレアル・ソシエダを振り切り優勝を飾った。 |
| デル・ボスケが監督を務めていた4シーズンの間、レアル・マドリードは毎シーズンビッグタイトルを獲得し、リーガ優勝2回、チャンピオンズリーグ優勝2回(4シーズン連続ベスト4以上)、インターコンチネンタルカップ優勝1回など、クラブ史に残る黄金時代を謳歌した。 |
| ペレスが提唱した「ジダネス、パボネス政策(スター選手とカンテラ出身の選手の融合)」の成功はデル・ボスケの手腕によるところが大きく、国内外のスター選手とカンテラ出身の若手選手が混在したロッカールームを巧みにまとめ上げ、一つのチームとして機能させていた。 |
| また何があっても動じず冷静沈着であり、選手たちの人望も厚かった。 |
| しかしリーガ優勝を達成した翌日、クラブ首脳部は突如デル・ボスケとの契約を更新しないことを発表した。 |
| これはデル・ボスケがフェルナンド・イエロを始めとする選手たちと共にクロード・マケレレの年俸アップを要求していたこと、新しい「銀河系」デビッド・ベッカムについて不要だと意見したことが原因と見られている。 |
| ちなみに当事スポーツディレクターを務めていたホルヘ・バルダーノは「成功を収めている時でも時に変化することは必要である」と発言し、当事の会長ペレスは「デル・ボスケは疲労を見せていた。 |
| 正直に述べるが、我々は、彼は将来的に適切な監督ではないと考えている」「デル・ボスケの経歴は伝統的なもの。 |
| 我々はより戦術を重要視した人物を探している。 |
| 我々が築いているチームは違うキャラクターを持った監督によって、より強力になるだろう」と述べている |
| しかし、デル・ボスケ以後のレアル・マドリードは3年間で7人の監督が指揮を執ることとなり、次のタイトルは2007年にファビオ・カペッロによってもたらされたリーガ・エスパニョーラ優勝まで待たねばならなかった。 |
| そして皮肉にもカペッロとペレスは辞任。 |
| 2004年、欧州選手権でグループリーグ敗退に終わったスペイン代表の次期監督候補に挙げられていたがデル・ボスケ本人は興味を示さず、トルコリーグのベシクタシュの監督に就任するが、シーズン途中に解任された。 |
| また2006年にはメキシコ代表がドイツ・ワールドカップで敗退した直後に後任の座をオファーされ、本人も光栄なこととしながらもこれを断っている。 |
| デル・ボスケは2006年夏に行われたレアル・マドリードの会長選挙で、候補のファン・パラシオスの選挙公約で監督に指名されていたが、僅差でラモン・カルデロンに敗れたためレアル・マドリード復帰はならなかった。 |
| しかし未だにチームが危機に陥る度に監督復帰待望論が出ている。 |
| 2007年にはカルデロンが次期監督に推しているとされるベルント・シュスターについて、「素晴らしい監督であり、レアル・マドリードを指揮するのに申し分ない」と発言した |
| EURO2008終了後には、スペイン代表の監督に就任した。 |
| EURO2008で優勝したチームの骨格部分を維持しつつ、必要に応じてチームを進化させる見事な手腕を披露。 |
| 2010FIFAワールドカップでは絶妙な選手交代の手腕も見せ、スペインを悲願の世界王者に導いた。 |
| ワールドカップ・欧州チャンピオンズリーグの両方を監督として制したのはイタリア代表のマルチェロ・リッピ監督に次いで2人目である |
| W杯を制したデルボスケの哲学。 |
| ]NumberWeb、2010年7月30日。 |
| 2011年6月7日のベネズエラ戦での勝利が代表を率いての39勝目(1分4敗)となり、同国の歴代最多勝利監督となった |
| それまでの記録は37勝(12分4敗)のルイス・アラゴネス監督であり、36勝(20分6敗)のハビエル・クレメンテ監督らと比較しても勝率は群を抜いている。 |