| 大学卒業後の1975年、彼は週給25ドルでボルチモア・コルツのテッド・マーチブローダヘッドコーチのもとでアシスタントを行った。 |
| 1976年にデトロイト・ライオンズに移りアシスタントスペシャルチームコーチ、タイトエンド、ワイドレシーバーコーチなどを行った。 |
| 1978年にデンバー・ブロンコスでアシスタントスペシャルチームコーチ、ディフェンシブアシスタントを務めた。 |
| 1979年、彼はニューヨーク・ジャイアンツに移りここで12シーズンを過ごした。 |
| 当時のヘッドコーチはレイ・パーキンスでベリチックはディフェンシブアシスタント、スペシャルチームコーチを務めた。 |
| 1980年からラインバッカーコーチ、1985年からディフェンシブ・コーディネーターを務めた。 |
| この間、1983年からはビル・パーセルズがジャイアンツのヘッドコーチに就任している。 |
| ジャイアンツは1986年、1990年シーズンにスーパーボウルを制した。 |
| 第25回スーパーボウルでの20-19の勝利には彼の立てたディフェンスゲームプランが功を奏しており、このときのゲームプランはプロフットボール殿堂に収められている。 |
| 1991年から1995年まで彼はクリーブランド・ブラウンズのヘッドコーチを務めた。 |
| この間の成績は36勝44敗であり、1994年にプレーオフで勝利をあげた。 |
| 1995年、チームは5勝11敗に終わった。 |
| この年の11月、ブラウンズオーナーのアート・モデルはチームをボルチモアに移転することをシーズン中に発表、翌年2月にベリチックはヘッドコーチを辞任した。 |
| 1996年、彼はニューイングランド・ペイトリオッツのヘッドコーチとなっていたビル・パーセルズのもとでアシスタントヘッドコーチ及びディフェンシブバックコーチとなりチームは11勝5敗で地区優勝し、その後AFCを制して第31回スーパーボウル出場を果たしたがグリーンベイ・パッカーズに敗れた。 |
| スーパーボウル終了後、彼はパーセルズヘッドコーチやチームの多くのアシスタントコーチとともにニューヨーク・ジェッツに移籍した。 |
| 彼はアシスタントヘッドコーチ、ディフェンシブ・コーディネーターを1997年から1999年まで務めた。 |
| 1999年シーズン終了後、パーセルズヘッドコーチが辞任した際、後任のヘッドコーチに就任することとなったが突如辞任を発表しニューイングランド・ペイトリオッツからヘッドコーチのオファーを受けた。 |
| 契約下にまだあった段階でのこの報道にジェッツ、パーセルズは反発し補償を求めた。 |
| 当時のNFLコミッショナー、ポール・タグリアブーの仲介で2000年のドラフト1巡指名権と引き換えにベリチックのニューイングランド・ペイトリオッツヘッドコーチ就任が決まった。 |
| ピート・キャロルの後任となった彼はロバート・クラフトオーナーより大幅な権限(ゼネラルマネージャー兼任)を与えられた。 |
| 彼は2010年シーズン現在、ヘッドコーチ兼ゼネラルマネージャーを務めている3人のうちの1人である(他の2人はフィラデルフィア・イーグルスのアンディ・リード、ワシントン・レッドスキンズのマイク・シャナハン)。 |
| 2000年は5勝11敗の負け越しに終わったがこれはベリチックのペイトリオッツでのヘッドコーチとして唯一の負け越しシーズンである。 |
| 2001年、チームはレギュラーシーズンを11勝5敗で終え、オークランド・レイダーズ、ピッツバーグ・スティーラーズを破り第36回スーパーボウルに進出した。 |
| 彼のディフェンスはシーズン中平均31得点をあげていたセントルイス・ラムズの攻撃を17点に抑えアダム・ビナティエリの決勝FGで優勝を果たした。 |
| 2002年、チームは9勝7敗に終わりジェッツと同率だったものの地区優勝を逃しプレーオフに出場できなかった。 |
| 2003年、チームはディフェンスのキャプテンを務めていたロイヤー・ミロイを解雇、そのミロイが加入したバッファロー・ビルズとの開幕戦で0-31と敗れた。 |
| この数日後チームは、残りの15試合中14勝をあげたチームはバッファロー・ビルズを31-0で破りリベンジを果たした。 |
| ディビジョナル・プレーオフでテネシー・タイタンズを破りAFCチャンピオンシップゲームではシーズンMVPに輝いたペイトン・マニング(スティーブ・マクネアと同時受賞)のインディアナポリス・コルツから4インターセプトを奪い第38回スーパーボウルに進出した。 |
| カロライナ・パンサーズとの試合はまたもやアダム・ビナティエリの決勝FGで32-29で優勝を果たした。 |
| この年彼はNFLコーチ・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。 |
| 2004年、チームは開幕から6連勝を果たし前年から通すと21連勝(レギュラーシーズンは18連勝)を達成した。 |
| これはマイアミ・ドルフィンズが1972年のパーフェクトシーズンを含み達成した18連勝(レギュラーシーズンは16連勝)を破るNFL記録となった。 |
| AFCチャンピオンシップゲームでピッツバーグ・スティーラーズを破り、第39回スーパーボウルでフィラデルフィア・イーグルスを破り、チームはNFL史上2チーム目となる4年間で3度のスーパーボウル優勝を達成した。 |
| 彼はこの偉業を達成した初のヘッドコーチとなった。 |
| 2005年、チームはオフェンスコーディネーターが不在、ディフェンスコーディネーターに新しくエリック・マンジーニを迎え入れた。 |
| 10勝6敗でワイルドカードでプレーオフに進出したがディビジョナルプレーオフでデンバー・ブロンコスに敗れシーズンを終えた。 |
| 2006年、チームは12勝4敗で終え、プレーオフでニューヨーク・ジェッツ、サンディエゴ・チャージャーズを破った。 |
| インディアナポリス・コルツとのAFCチャンピオンシップゲームでは第2Q半ばに21-3とリードしたがそこから逆転負けを喫した。 |
| 2007年、4月にランディ・モスをドラフト4巡目指名権と引き換えにオークランド・レイダーズから獲得したが、翌2008年にアル・デービスレイダーズオーナーからタンパリング(事前交渉)があったのではないかと指摘に対して彼は否定した。 |
| このシーズン、チームは1972年のマイアミ・ドルフィンズ以来となるレギュラーシーズンを16戦全勝(1978年にレギュラーシーズンが16試合制になってからは初のこと)でNFLの長い歴史上でも1934年、1942年のシカゴ・ベアーズ、1972年のマイアミ・ドルフィンズに続く史上4回目であった。 |
| しかし第42回スーパーボウルでチームはニューヨーク・ジャイアンツに敗れてパーフェクトシーズンはならなかった。 |
| この年、9月9日、ペイトリオッツがニューヨーク・ジェッツのディフェンスシグナルを盗撮していたことが明らかになり、9月13日ベリチックは50万ドルの罰金をNFLのロジャー・グッデルコミッショナーより言い渡された。 |
| NFLのヘッドコーチとしては史上最高額の罰金であった。 |
| またチームも25万ドルの罰金と2008年のドラフト1巡目指名権が剥奪された。 |
| こうした出来事があったもののこの年彼はAP通信が選ぶコーチ・オブ・ザ・イヤーに2003年以来2度目の選出を受けた。 |
| 2008年、カンザスシティ・チーフスとの開幕戦の第1QでエースQBのトム・ブレイディが負傷しシーズン絶望となり、控えQBのマット・キャセルで残りシーズンを戦った。 |
| 第2週にも勝利し2006年から続くレギュラーシーズンのNFL連勝記録を21に更新した。 |
| ブレイディ以外にもロドニー・ハリソン、アダリアス・トーマス、ローレンス・マロニーなど怪我人が続出し故障者リストに多くの選手が入ったものの11勝5敗の成績を残した。 |
| 11勝したものの地区優勝を逃したチームは1985年のデンバー・ブロンコス以来11勝しながらプレーオフを逃した2チーム目となった。 |
| 2009年1月、オフェンスコーディネーターを務めていたジョシュ・マクダニエルズがデンバー・ブロンコスヘッドコーチに就任した。 |
| 2月には前年ブレイディの代わりに活躍したマット・キャセルをフランチャイズプレイヤーに指名したが後にマイク・ブレイベルと共にカンザスシティ・チーフスへドラフト2巡目指名権とともにトレードした。 |
| インディアナポリス・コルツ戦では第4Q終盤、自陣でパントではなく第4ダウンギャンブルを選択した結果失敗し。 |
| 第12週で開幕から10連勝しているニューオーリンズ・セインツと対戦したがロングパスを多数通されて大敗した。 |
| 12月に吹雪の中行われたチーム練習に遅刻したランディ・モス、エイドリアス・トーマス、ゲイリー・ガイトン、デリック・パージェスの4選手に規律の問題として練習参加を認めずそのまま帰宅を命じている。 |
| 翌2010年1月10日、ワイルドカードプレーオフでボルチモア・レイブンズに14-33と大敗を喫した。 |
| このシーズンを最後にディフェンスコーディネーターのディーン・ビーズはチームを去ることになった。 |
| 2010年、契約最終年を迎えたがチームから延長契約の提示がされず不満を持ったランディ・モス、第39回スーパーボウルMVPのディオン・ブランチをシアトル・シーホークスから呼び戻した。 |