■
1965年(昭和40年)に 高校を卒業後は母親の薦めで、明治大学工学部(後の理工学部)機械工学科に現役合格し入学。
■
しかし、大学での生活には適応できず、いわゆる五月病を患うようになり、大学2年の時には、家出同然に一人暮らしを始め、新宿界隈で当ての無い日々を送るようになる。
■
学生運動にも参加したが熱心ではなく、ジャズに傾倒する。
■
“LeftyCandy”や新宿ACB(アシベ)、風月堂などに入り浸った。
■
また、ジャズ喫茶のボーイもしたが、ジャズの見識は一部で有名であった。
■
新宿のジャズ喫茶『ビザール』では、若松孝二、小水一男らと知り合う。
■
『ヴィレッジ・ヴァンガード』で、早番のボーイとして働いていた時は、連続射殺事件で逃走中だった永山則夫が遅番のボーイとして働いていた。
■
『ジャズ・ビレッジ』の壁に書かれていた文章「強く生きよと母の声、死ねと教えし父の顔、何のあてなき人生なり」が心に残ったという後年これに続けて「死に場所探して生きるもよし」と加えた詞を作り、『死んだ犬』として発表した(作曲:泉谷しげる)。
■
この頃は青春の葛藤期でもあり、友人の下宿に居候しアルバイト三昧の青春時代を過ごし、ジャズ喫茶以外にも、菓子の計り売りや実演販売員、ビルの解体工、クラブのボーイなどを転々とする。
■
羽田空港の荷役業では、ジャズ喫茶の常連客だった中上健次と共に働いた。
■
のち通訳になろうと思い立ち、留学費用を稼ぐ目的でタクシーの運転手を務めるも半年で退社、ガソリンスタンドでアルバイトをした。
■
この間、若松との縁で『新宿マッド』『腹貸し女』など、幾つかの若松プロ初期作品に端役ながら出演小水は『ほしをつぐもの(1990)』で、若松は『エロティックな関係(1992)』で、再びたけしを撮ったしたり、学生演劇に参加したが、ヴォードヴィルのような軽演劇で、舞台役者ではなく構成に携わっていたという。
■
大学は140単位のうち106単位まで取得していたにもかかわらず、結局通学せずに除籍。
■
しかし、2004年9月7日、明治大学より「特別卒業認定証」100単位以上を取得しながら何らかの理由で通学できなくなった人物に与える制度。
■
及び知名度アップに貢献したとして「特別功労賞」を受けた[http://www.meiji.ac.jp/koho/information/pr/topics/topic040908.html 北野武氏へ明治大学特別卒業認定証ならびに特別功労賞を贈呈]、2004年9月。
■
これにより、最終学歴は明治大学工学部卒業となり、学校教育法第104条および学位規則第2条の規定に従って「学士(工学)」の学位が与えられた。