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つながりの強いひと
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エカチェリーナ2世
ロマノフ朝第8代ロシア女帝(在位:1762年6月28日(グレゴリオ暦7月9日)-1796年11月6日(グレゴリオ暦11月17日))。夫はピョートル3世、子にパーヴェル1世... |
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エカチェリーナ1世
ロマノフ朝第2代のロシア皇帝(在位1725年-1727年)。ピョートル1世の妃。 |
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ニコライ2世
ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝(在位1894年11月1日-1917年3月15日)。皇后はヘッセン大公国の大公女アレクサンドラ・フョードロヴナ(通称アリック... |
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カール12世
プファルツ王朝のスウェーデン国王(在位:1697年-1718年)。カール11世とデンマーク王女ウルリカ・エレオノーラの息子。姉にホルシュタイン=ゴットルプ家の... |
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フョードル3世
ヴァシーリー・ゴリツィン公が実権を掌握した。宗教問題では、モスクワ総主教ニコンの名誉回復を行ったものの、古儀式派への弾圧は継続された。軍隊改革を断... |
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モスクワ大公(在位1533年-1547年)、モスクワ・ロシアの初代ツァーリ(在位1547年-1574年、1576年-1584年)。イヴァン雷帝(/)という異称でも知られる。当... |
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アレクセイ
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ピョートル2世
ピョートル2世(,1715年10月12日(ユリウス暦)/10月23日(グレゴリオ暦)-1730年1月19日/1月30日、在位:1727年-1730年)はロマノフ朝第7代の君主、第3代ロ... |
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ロマノフ朝第10代ロシア皇帝(在位:1801年3月23日-1825年12月1日)、初代ポーランド立憲王国国王(在位:1815年6月9日-1825年12月1日)、初代フィンランド大... |
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ピョートル3世(、1728年2月21日-1762年7月17日)はロマノフ朝第7代ロシア皇帝(在位:1762年1月5日-1762年7月9日)、ホルシュタイン=ゴットルプ公(在位:1... |
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ユーリー・ドルゴルーキー
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工藤庸子
日本のフランス文学者。放送大学客員教授、東京大学名誉教授。博士(学術)(東京大学、2003年)(学位論文「ヨーロッパ文明批判序説」)。埼玉県浦和市(現... |
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アンリ・トロワイヤ
フランスの小説家、伝記作家、随筆家。本名レヴォン・アスラン・トロシアン(LevonAslanTorossian)、ロシア名レフ・アスラノヴィチ・タラソフ(LevAslanovic... |
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アウグスト2世
ポーランド・リトアニア共和国の国王(在位:1697年-1706年、1709年-1733年)、及びザクセン選帝侯(在位:1694年-1733年)。ザクセン選帝侯としてはフリード... |
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ノヴゴロド公国の公を経てウラジーミル大公国の大公(在位は1252年-1263年)となる。中世ロシアの英雄として讃えられている人物。父はヤロスラフ2世(ウラジ... |
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ヴワディスワフ4世
ヴワディスワフ4世(WładysławIVWaza,1595年6月9日-1648年5月20日)は)ヴァーサ家出身のポーランド王(在位:1632年-1648年)。ジグムント3世の長男、母は王... |
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土肥恒之
西洋史学者(近代ロシア社会史)。一橋大学大学院社会学研究科教授。 |
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プロフィール
- ピョートル1世とは
- 出生から即位、実権掌握
- アゾフ遠征と海軍創設
- 大使節団
- 大北方戦争
- 国内政策
- 新都建設
- 後継者問題
- 人物
- 評価
- 参考文献
ピョートル1世(ロシア語:;ラテン文字表記の例:',1672年5月30日-1725年1月28日)は、モスクワ・ロシアのツァーリ(在位:1682年-1725年)、初代のロシア皇帝(インペラートル/在位:1721年-1725年)。大北方戦争での勝利により、ピョートル大帝(ピョートル・ヴェリーキイ/)と称される。ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチの六男、母はナタリヤ・ナルイシキナ。ロシアを ヨーロッパ列強の一員とし、スウェーデンからバルト海海域世界の覇権を奪取してバルト海交易ルートを確保。また黒海海域をロシアの影響下におくことを目標とした。これらを達成するために治世の半ばを大北方戦争に費や ...
出生から即位、実権掌握
| ピョートルは1672年5月30日にツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチと二番目の后妃ナタリヤ・ナルイシキナの子として生まれた。 |
| ピョートル出生時に存命している兄弟としては、フョードルとイヴァンの異母兄2人と異母姉5人がおり、姉の一人に14歳年上のソフィアがいた。 |
| 1676年に父アレクセイが死去すると異母兄のフョードル3世が即位したが、在位6年目の1682年4月27日に死去した。 |
| 精神障害のある異母兄イヴァン土肥(1992),p.38はその外戚であるミロスラフスキー家と姉ソフィアに擁されていたが、ピョートルは総主教と銃兵隊の支持を受けて即位し、母方ナルイシキン家の政権が成立する。 |
| しかし、即位後まもなくミロスラフスキー家に扇動された銃兵隊の反乱が起き、彼らはクレムリンに乱入して、ナルイシキン家の有力者を殺害した土肥(1992),pp.39-40。 |
| ミロスラフスキー派はこれに乗じてイヴァン5世をツァーリとし、ピョートルはその共同統治者に格下げされた。 |
| イヴァンの同母姉ソフィアが、テレム宮から出て幼い2人の弟の摂政として実権を握った。 |
| ピョートルは母とともにモスクワ郊外のプレオプラジェンスコエに移り、儀式のさいのみクレムリンを訪れた。 |
| ピョートルの教育係は後に側近となるニキータ・ゾートフが務めた土肥(1992),p.45。 |
| 少年時代のピョートルは近くの外国人村に頻繁に出入りし、多くの外国人と親交を結んだ土肥(1992),pp.45-47。 |
| また、遊戯連隊を編成して戦争ごっこに勤しんでいる鳥山(1978),p.16。 |
| スイス出身のレフォルト、下士官出身のメーンシコフを側近に取り立てたのはこの時期とされる。 |
| 1689年、16歳になったピョートルは母ナタリヤの勧めによりエヴドキヤ・ロプーヒナを后妃に迎えたが結婚によって成人を証明する政治的な意味もあった。 |
| (土肥(1992),p.47)、彼女を愛することはなく、後に不幸な結果を招くことになる。 |
| ソフィアの摂政政府はヴァシーリー・ゴリツィン公が実権を握っており、銃兵隊の反乱を切りぬけ、進歩的な政策を行い内政・外交ともにおおむね良好に統治していた鳥山(1978),p.20土肥(1992),pp.40-42。 |
| だが、1686年と1689年に行われたクリミア遠征の失敗により不満が高まり土肥(1992),pp.43-44、ピョートルが成長するとナルイシキン家などの支持派は彼の親政を望み、ソフィアの摂政政府と対立した。 |
| ピョートルは一時は至聖三者聖セルギイ大修道院への避難を余儀なくされたが、1689年9月、ソフィアは官僚、軍人、教会の支持を失ってピョートルに政府を明け渡した。 |
| ゴリツィン公は流罪となり、ソフィアは修道院に幽閉された土肥(1992),pp.44-45。 |
| ピョートルは当初、国政を母ナタリヤらナルイシキン一族に委ねて、相変わらず外国人村を訪ねたり、軍事演習に熱中し、また仲間と馬鹿騒ぎをしながら過ごしている土肥(1992),pp.47-48。 |
| ナルイシキン一族の政権はアレクセイやソフィアの政策に逆行する保守的な統治を行っていたが土肥(1992),p.49、1694年に母が死去するとピョートルは親政を開始した。 |
| また名ばかりの共同統治者イヴァン5世の死去(1696年)で単独統治に入る。 |
アゾフ遠征と海軍創設
| この時期のロシアの主な港は年間数ヵ月は氷に閉ざされる白海のアルハンゲリスクだけであり土肥(1992),p.5、黒海周辺はオスマン帝国の勢力下にあり、またバルト海への出口はスウェーデンに奪われていた。 |
| 1695年に黒海への出口を求めてアゾフ遠征が行われ、ピョートルも一砲兵下士官として従軍したが、アゾフ要塞包囲はオスマン海軍の活動によって妨げられ失敗に終わった土肥(1992),pp.49-50。 |
| この為、ピョートルは海軍創設に着手し、ドン川畔のヴォロネジに造船所を建設して僅か5ヶ月でガレー船と閉塞船27隻そして平底川船約1300隻からなる艦隊を造らせた土肥(1992),p.50。 |
| これがロシア最初の海軍である鳥山(1978),p.24。 |
| 1696年に再度行われたアゾフ遠征はピョートル自らがガレー船に乗船して戦った。 |
| ロシア軍による水陸共同作戦によりアゾフは陥落し、ピョートルは海への出口を手に入れた。 |
大使節団
| File:PeterinHolland.jpg|150px|thumb|right|オランダで船大工とともに働くピョートル。 |
| 1697年3月から翌1698年8月まで、ピョートル1世は約250名の使節団を結成しヨーロッパに派遣、自らも偽名を使い使節団の一員となった。 |
| この使節は軍事・科学の専門技術といったヨーロッパ文明の吸収を目的としていたが、対オスマン軍事同盟のへの参加を各国に打診する外交使節をも兼ねていた木崎(1971),p.84。 |
| また使節の一員に身をやつしたのは、煩瑣な儀礼に縛られず自由に行動するためと、公的にはモスクワを離れていないと内外に示すためだったトロワイヤ(1981),pp.78-82。 |
| 主にオランダのアムステルダム(4ヶ月半)とイギリスのロンドン(3ヶ月)に長期滞在し、プロイセンのケーニヒスベルク、ドレスデン、ウィーンにも立ち寄った。 |
| アムステルダムでは造船技術の習得に専心し、東インド会社所有の造船所で自ら船大工として働いた土肥(1992),p.54。 |
| 病院・博物館・植物園を視察、歯科医療や人体解剖を見学した。 |
| なかでも歯科医療には強い興味を示し、初歩的な抜歯術の手ほどきを受けて抜歯器具を買い込み、帰国後は廷臣たちの虫歯を麻酔なしで抜くのを趣味にしたトロワイヤ(1981),p.92-93。 |
| ロンドンでも王立海軍造船所に通い、天文台・王立協会・大学・武器庫などを訪れた。 |
| また貴族院の本会議やイギリス海軍の艦隊演習も見学した。 |
| ピョートルは沢山の物産品や武器を買い集め、1000人の軍事や技術の専門家を雇い入れて、その知識をロシア人に教え込ませた木崎(1971),p.85。 |
| しかし外交上の目的だった軍事同盟の呼びかけは、当時の西欧の関心がオスマン帝国よりも、近々予想されるスペイン継承戦争に集中していたため失敗した土肥(1992),pp.55-56。 |
大北方戦争
| 1699年、ピョートルはポーランド、デンマークと反スウェーデン同盟(北方同盟)を結び、バルト海への出口を求めた。 |
| 1700年にスウェーデンと交戦状態に入るが、ナルヴァの戦いでカール12世の率いる少数精鋭の敵軍に惨敗した。 |
| しかし軍備増強に努め、ポーランドとの戦争に忙殺されるスウェーデン軍の隙をつき、1706年頃にはリヴォニア地方にまで進軍した。 |
| 1708年カール12世がロシア領に侵攻し、ウクライナ・コサックの首長マゼーパと連合したが、ピョートルは冬将軍と焦土作戦でスウェーデン軍を弱体化させ、これをポルタヴァの戦いで大敗させた。 |
| カール12世はトルコに逃げたため故国に戻れず、ピョートルはこの機に乗じて親露派のアウグスト2世をポーランド王位に復帰させ、カレリアとリヴォニアを征服した。 |
| 一方イスタンブルにいるカール12世はアフメト3世を説き伏せ、1711年トルコをロシアとの交戦に踏み切らせた。 |
| ピョートル率いるロシア軍はプルト川河畔でオスマン軍に包囲され敗北、カール12世の帰還、アゾフなど1696年にトルコから奪った領土の返還を承認させられた(プルト条約)。 |
| しかし翌1712年からロシアは攻勢に転じ、ハンゲの海戦で歴史的勝利をおさめ、ロシア海軍の成長を見せつけると同時にバルト海の覇権を獲得した阿部(1966),p.158。 |
| しかしこの事態はイギリスをはじめとする同盟諸国を警戒させ、ピョートルは圧力に屈してポーランドから撤退した阿部(1966),p.162。 |
| 1718年にはスウェーデンと休戦交渉に入ったが、カール12世の急死で親英派の妹ウルリカが王位を継ぐと、交渉は打ち切られた阿部(1966),pp.165-166。 |
| バルト海沿岸地域を我が物としたピョートルは、さらにスウェーデンを圧迫し、フィンランド、そしてスウェーデン本土に直接攻撃を仕掛けた。 |
| ロシア軍は、スウェーデン本土への攻撃は阻止されたものの、これが結局、スウェーデンへの決定的な圧力となり、1721年にイギリスの調停でニスタット条約が結ばれ、スウェーデンとロシアがバルト海の覇権を争った大北方戦争は、ロシアの勝利に終わった。 |
| ロシアはフィンランドを除き占領したバルト海沿岸地域のほとんどを獲得、トルコともパッサロヴィッツ条約を結んで決着をつけた。 |
| この時点でロシアはポーランドにも影響力を及ぼし始めていた。 |
| ポーランド国内の混乱に乗じて調停者としてポーランド議会とアウグスト2世に対する優位を示した。 |
| またポーランドが獲得するはずだったリヴォニアを奪い、バルト地方にも影響力を拡大した。 |
| これらの事は、ロシアがポーランド=リトアニア共和国に対する保護国化への端緒となったルコフスキ&ザヴァツキ(2007),pp.127-129。 |
| ウクライナ・コサックのヘーチマン国家においてもピョートルは、スウェーデンと連合した首長マゼーパの反乱を鎮圧した。 |
| 以後、コサックの自治権が大きく削減され、ロシアの支配が強化される事となった。 |
| 一方で首長名代であるダヌィーロ・アポーストルを重用して、ヘーチマン国家のロシアへの求心力を高める事にも成功した。 |
| また1722年にはサファヴィー朝ペルシア帝国を攻め、中央アジアに影響力を及ぼそうとした。 |
| 1725年には20余りのヨーロッパの主要国に外交官を常駐させるに至った。 |
国内政策
| File:Raskolnik.jpg|thumb|right|200px|ひげ刈りの風刺画。 |
| 親政初期から海軍を創設し、1696年に艦隊を使ってアゾフを陥落させ、大使節団でも海事を中心に学んだ。 |
| 1700年ナルヴァでの敗北は彼にロシア陸海軍の装備・訓練の不足を痛感させ、本格的な軍事改革に着手させた。 |
| まず海軍省と砲兵学校を創設し、小銃・大砲・軍艦の増産を急ピッチで進めた。 |
| 1705年には終身型の徴兵制度も導入、新設軍隊の兵士は西欧式の訓練を施された土肥(1992),pp.96-101阿部(1966),pp.127-130。 |
| 1698年に帰国すると、西欧化改革の始まりを示すべく大貴族の髭を切らせ、髭に課税して切るよう一般民衆にも強制した鳥山(1978),p.34ロシア伝統文化において髭は男性性の象徴だった。 |
| 廷臣と役人にも西欧式正装を義務づけたほか、1700年には暦法を改正して天地開闢紀元からキリスト紀元(西暦)に切り替え、新年も9月1日から1月1日に改めさせた大野&山上(1974),p.173西暦1700年は天地開闢紀元では7208年にあたった。 |
| さらに1702年には宮廷改革に着手し、女性皇族が従っていた厳しい行動制限を撤廃して宮廷行事への出席を命じたこれにより、皇女たちを政略結婚に利用する道が開かれた。 |
| 重い税負担や抜本的な組織改革は、一般民衆の反発をもって迎えられ、ドン・コサックや農民一揆などの反乱が相次いだ木崎(1971),pp.103-108。 |
| 1714年に慣習であった領地の分割相続制を禁じて長子相続制に移行させたため、長男以外の貴族子弟は生活のために軍か政府で勤務するのを事実上強要された土肥(1992),pp.156-166。 |
| 1700年以降、モスクワ総主教座は空位とされ、教会が持つ免税特権も奪われた。 |
新都建設
| 1703年イングリア地方を占領すると、ネヴァ川の河口にあるデルタ地帯に港湾都市の建設を開始した。 |
| ピョートルはこの都市に、「聖ペトロの街」を意味するサンクトペテルブルクというドイツ語名を付けた。 |
| しかしこの一帯は湿地で、地盤が弱く洪水も頻発したため、年間数万人の労働力と大量の石を徴集して大規模な基礎工事に当たらせた土肥(1992),pp.20-210鳥山(1978),p.44。 |
後継者問題
| ピョートルは后妃エヴドキヤ・ロプーヒナとの間に3人の息子をもうけたが、成長したのは長男アレクセイだけだった。 |
| 1703年にはメーンシコフの家の召使マルファ(後のエカチェリーナ1世)をも愛人とし、1707年にはこのマルファと秘密結婚、1712年に正式に結婚して皇妃とした。 |
| 改宗しエカチェリーナと名乗ったマルファとの間には12人の子供が出来たが、成人したのはアンナ・ペトロヴナとエリザヴェータ(後の女帝)の娘2人だけである。 |
| 娘アンナ・ペトロヴナと姪のエカチェリーナ・イヴァノヴナ、アンナ・イヴァノヴナ(後の女帝)の3人は、いずれもバルト海沿岸のドイツ人領邦君主に嫁し、ピョートルによるバルト海支配の重要な布石となった。 |
| 1724年11月頃、ピョートルはネヴァ川河口の砂州に乗り上げた船の救出作業に参加して真冬の海に入って以降、体調を崩して重い膀胱炎を患いトロワイヤ(1981),pp.298-299木崎(1971),pp.151-152、翌1725年1月28日に死去した。 |
人物
| ピョートルは、みずからを優れた外科医、腕のよい歯科医であると自認しており、病にかかった側近は皇帝が手術道具を持って自分の前に現れることを怖れたという。 |
評価
| 現在ロシアで流通している500ルーブル(1995年から1997年のデノミ実行前は50万ルーブル)紙幣にはサンクトペテルブルク港に停泊する帆船と共にピョートル1世の立像が描かれており、1995年の紙幣デザイン変更に伴うピョートル1世の肖像採用は帝政時代にロシア帝国銀行が発行していた500ルーブル紙幣以来、約80年振りの復活であった。 |
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1672年
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ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチと二番... |
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父アレクセイが死去すると異母兄のフョードル... |
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