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つながりの強いひと
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プロフィール
- ピート・サンプラスとは
- プロになるまでの道のり
- プロとしての選手歴
- 男子最多優勝記録への道
- 略歴
- 各種記録一覧
- プレースタイル
- 表彰
- 4大大会優勝
ピート・サンプラス(PeteSampras,1971年8月12日-)は、アメリカ・ワシントン出身の元男子プロテニス選手。世界最高のオールラウンド・プレーヤーとして1990年代のテニス界に君臨した名選手。身長185cm、体重77kg。右利き、バックハンドは片手打ち。4大大会では全仏オープンのみ未勝利に終わったが、通算14優勝をあげ当時歴代1位の記録を樹立した(現歴代2位)。また歴代最長となる通算286週のランキング1位保持記録を持つ。ATPツアーでシングルス通算64勝を挙げた。
プロになるまでの道のり
| ギリシャ移民の子としてワシントンに生まれたサンプラスは、オーストラリアの往年の名選手であるロッド・レーバーに憧れて7歳からテニスを始めた。 |
| 彼は14歳までバックハンド・ストロークを両手打ちしていたが、当時のコーチであったピート・フィッシャーの指導で片手打ちに変更した。 |
| フィッシャーはサンプラスに「世界トップのサーブ・アンド・ボレーヤーで、バックハンドを両手で打つ選手はいない」と提案し、往年の名選手ドン・バッジのグリップを観察するため、彼の自宅を訪れたという逸話が残っている。 |
プロとしての選手歴
| 1988年に17歳でプロ入り。 |
| プロデビュー戦は、同年2月のアメリカ・フィラデルフィア大会で、そこでは1回戦でサミー・ジアマルバ(アメリカ)に敗退する。 |
| 翌週のニューズウィーク・カップ1回戦でラメシュ・クリシュナン(インド)に勝ち、ツアー公式戦初勝利を収めた。 |
| 4大大会デビューは1988年全米オープンで、ここでは1回戦でハイメ・イサガ(ペルー)に敗退している。 |
| サンプラスが初めて脚光を浴びたのは、1989年全米オープンの2回戦で大会前年優勝者のマッツ・ビランデルを破った試合である。 |
| ビランデルは1988年にウィンブルドンを除く4大大会年間3冠を獲得して世界ランキング1位に登りつめたが、1989年に入ると著しいスランプに陥り、全米オープン開幕時には世界ランキング5位まで落ちていた。 |
| この大会では、サンプラスは第11シードのジェイ・バーガー(アメリカ)との4回戦まで勝ち進んだ。 |
| 1990年2月、2年前にプロデビュー戦を戦ったフィラデルフィア大会の決勝でアンドレス・ゴメス(エクアドル)を破り、ATPツアー初優勝を果たす。 |
| 1990年全米オープンでサンプラスは第12シードから勝ち上がり、決勝戦でライバルのアンドレ・アガシを6-4,6-3,6-2のストレートで破り、「19歳28日」で4大大会初優勝を飾った。 |
| こうしてサンプラスは、1890年の全米選手権に「19歳6ヶ月9日」で優勝したオリバー・キャンベル(1871年-1953年)の大会最年少優勝記録を「100年ぶり」に更新する偉業を成し遂げた。 |
| それから3年後、サンプラスは1993年4月にジム・クーリエを抜き、初めて世界ランキング1位になった。 |
| 同年のウィンブルドン決勝でクーリエを7-6,7-6,3-6,6-3で破って初優勝を果たした時から、王者サンプラスの時代が始まる。 |
| それから1993年全米オープンと1994年全豪オープンでも優勝して4大大会「3連勝」を果たしたが、1994年全仏オープンでは準々決勝でセルジ・ブルゲラに敗れ、4連勝を逃す。 |
| 苦手な赤土コートの全仏オープンは、その後もサンプラスにとって“鬼門”の大会であった。 |
| この大会では1996年のベスト4進出が自己最高成績で、その準決勝ではエフゲニー・カフェルニコフに6-7,0-6,2-6のストレートで完敗している。 |
| サンプラスは、自分を世界ランキング1位に引き上げてくれたコーチのティム・ガリクソンを非常に慕っていた。 |
| そのガリクソンが1995年全豪オープンの期間中に脳腫瘍で倒れたため、サンプラスは準々決勝のジム・クーリエ戦で「コーチのために頑張れ」という観客からの声援を受け、泣き出したこともあった。 |
| クーリエはサンプラスの体調が悪いと勘違いし、「明日に(試合を)してもいいんだよ」と声をかけたという。 |
| この大会では決勝でアンドレ・アガシに敗れて準優勝に終わったが、優勝したアガシもスピーチで「本当に辛い状況なのにいいテニスをしたよ、メイト(=僕の友達)」と賞賛を贈った。 |
| ガリクソンは1996年5月3日に死去したため、その後はポール・アナコーンに師事した。 |
男子最多優勝記録への道
| サンプラスは優勝回数を重ねるにつれて、過去の名選手の記録を意識しながら奮闘するタイプの選手になった。 |
| 彼の最終目標は4大大会通算「12勝」を挙げたロイ・エマーソン(オーストラリア)の記録を破ることであり、長い間忘れられていたエマーソンの名前が“サンプラスの目標”として語られるようになった。 |
| 彼には貧血症の持病があり、それに伴って30歳頃からは体力が急激に低下していった。 |
| 2000年全米オープン決勝戦でマラト・サフィンに4-6,3-6,3-6で完敗して“サンプラスの決勝不敗神話”が崩れた試合や、2001年ウィンブルドン4回戦でロジャー・フェデラーに6-7,7-5,4-6,7-6,5-7(試合時間:3時間41分)で敗れた試合が、サンプラス時代の終焉を印象づけることになる(1993年から2000年までの8年間で、サンプラスがウィンブルドン優勝を逃したのは、リカルド・クライチェクに準々決勝で敗退した1996年だけであった)。 |
| さらに2001年全米オープン決勝戦でもレイトン・ヒューイットに6–7,1–6,1–6で完敗し、この年は1992年以来の4大大会無冠に終わる。 |
| アメリカの後輩としてアンディ・ロディックも台頭していたが、対するサンプラスは2年以上にわたり男子ツアーのタイトルから遠ざかっていた。 |
| しかし2002年全米オープンで、長年のライバルであり続けたアンドレ・アガシを決勝で破り、31歳にして6年ぶり5度目の全米優勝を果たす。 |
| こうしてサンプラスは2000年ウィンブルドン以来の優勝を飾り、彼の4大大会優勝回数は「14勝」となった。 |
| 4大大会決勝戦進出はキャリア通算で男子歴代3位の「18度」となり、「14勝4敗」で終わった。 |
| その後は試合に全く出場せず、2003年全米オープン開催中に正式に引退を表明した。 |
| 大会開幕日の8月25日、コート上でサンプラスの引退式典が行われた。 |
| 2007年から、サンプラスは30歳以上の現役引退選手を対象にしたシニア・ツアーに参戦を開始した。 |
| 2009年のウィンブルドンで、ロジャー・フェデラーが通算15勝目を記録したことにより、14勝のサンプラスは男子歴代2位に後退した。 |
略歴
| 1988年 2月に17歳でプロデビューし、同年の全米オープンで4大大会初出場。 |
| 1989年 全米オープン2回戦で前年優勝者のマッツ・ビランデルを破る。 |
| この大会では4回戦まで進出した。 |
| 1990年 2月にアメリカ・フィラデルフィア大会でツアー初優勝。 |
| 9月9日、全米オープン決勝でアンドレ・アガシを破り、「19歳28日」で4大大会初優勝。 |
| これにより、全米オープンの男子最年少優勝記録を100年ぶりに更新する。 |
| 1993年 4月にジム・クーリエを抜き、初めて世界ランキング1位になる。 |
| 1993年-1994年 ウィンブルドン初優勝。 |
| その後全米オープン・翌年の全豪オープンを制覇し、4大大会3連勝を飾る。 |
| ここからサンプラス時代が始まった。 |
| 1993年-2000年 ウィンブルドン選手権で総計「7勝」を達成。 |
| 1993年-1995年まで3連覇を果たすが、1996年の準々決勝でリカルド・クライチェクに敗退。 |
| 1997年-2000年まで4連覇を果たし、ウィンブルドン優勝の男子歴代1位タイ記録に並んだ。 |
| 2000年 全米オープン決勝でマラト・サフィンにストレートで敗れ、“サンプラスの決勝不敗神話”が崩れることになる。 |
| 2001年 ウィンブルドン4回戦でロジャー・フェデラーに、全米オープン決勝でレイトン・ヒューイットにそれぞれ敗れ、1992年以来の4大大会無冠に終わる。 |
| 2002年 全米オープンで6年ぶり5度目の優勝。 |
| これが最後の4大大会優勝になり、同時に彼の現役最後の試合にもなった。 |
| 2003年 全米オープン中に引退を発表。 |
| 8月25日に引退式典が行われる。 |
| 2007年 シニア・ツアーに参戦開始。 |
| 7月14日に国際テニス殿堂入り。 |
各種記録一覧
| ウィンブルドン選手権優勝回数「7勝」:ウィリアム・レンショー(1861年-1904年)と並んで歴代1位タイ記録。 |
| 世界ランキング1位在位記録「286週」:およそ6年間1位であったことになる。 |
| この記録は連続記録ではない。 |
| 連続在位記録としてみたときは、1996年4月15日から1998年3月30日にかけての「102週」が最高となる。 |
プレースタイル
| サンプラスは「男子テニス史上屈指のオールラウンダー」と称されている。 |
| その理由は、すべての要素で高い能力を示していたことにある。 |
| 通常のオールラウンダーは、すべての要素が一定のレベルでこなせるものの、「何らかの絶対的にポイントが取れるショット」を持たないことが多い。 |
| そのために、プレー全体にストローク、ボレーを満遍なく組み入れてポイントを取ってゆく。 |
| エフゲニー・カフェルニコフやセドリック・ピオリーンなどがそうである。 |
| 一方、オールラウンダーではないタイプで活躍する選手の多くは、対照的に「何らかの絶対的にポイントが取れるショット」を持つ傾向にあり、それを中心にゲームを組み立てている。 |
| アンドレ・アガシがグラウンド・ストロークで、パトリック・ラフターがボレーで、ゴラン・イワニセビッチがビッグサーブで大半のポイントを組み立てていたことなどが例として挙げられる。 |
| プロ選手であるからには、それ以外のショットも一定のレベルでこなす必要があるが、彼らは武器となるショットが際立っていたため“オールラウンダー”とは称されなかったのである。 |
| これらの選手に対し、サンプラスは、すべての要素で高い能力を有していたため、実質上記の2タイプの選手を融合した「ほとんどすべてのショットで絶対的にポイントが取れる」選手であった。 |
| そのため、状況に応じてオールラウンドな力を発揮し、多彩なプレーでポイントを奪った。 |
| サービスは、ファースト・サービスはもとより、セカンドでもエースを狙えるほど強力で、非常に柔軟な肩から同じトスでスライスサーブ・フラットサーブ・スピンサーブを打ち分けることができた。 |
| そのため、対戦相手はサーブのコースや種類を読むことが極めて難しかった。 |
| ボレーは、相手コートに叩き付けたり、柔らかいタッチでネット際に落としたり、状況に応じて打ち分けることができ、こうした彼のサーブ力とボレー力は世界一と称された。 |
| 特にウィンブルドンではサーブ・アンド・ボレーを多用したために、サーブ・アンド・ボレーヤーとしてパトリック・ラフターと比較されたことがあるほどである。 |
| また、「ピストル・ショット」と呼ばれた彼のフラット系のストロークも強力で、ストロークの名手アンドレ・アガシにも打ち勝つほどの力があり、ストロークで相手を圧倒することもしばしば見られた。 |
| 特にフォアのクロスの切り返しは彼の得意のショットであった。 |
| 彼のテニスは基本的に攻撃型であったため、球足が速い芝生(グラス)・カーペット(室内)・ハードコートでは無類の力を発揮した。 |
| しかし球足の遅いクレーコート(赤土)では、鋭いショットよりも粘りのプレーが要求される。 |
| 守備型のテニスではないサンプラスはクレーコートが苦手で、4大大会でもクレーコートの全仏オープンだけは優勝できなかった。 |
| 真面目なサンプラスのプレースタイル・マナーは、華麗なライバルのアンドレ・アガシと比較されて“地味過ぎる”と非難されることもあった。 |
| コーチのガリクソンのショッキングなニュースを試合中に知らされたサンプラスは、コート上で泣き出した。 |
| これ以来、サンプラスに対するロボット的認知は変化し、今まで以上に人気がでた。 |
| テニスに必要な心技体をすべて兼ね添えていたサンプラスは、ロジャー・フェデラーをはじめとした多くの選手たちの理想と目標であり、彼らに大きな影響力を与えた。 |
| 親指で汗をぬぐう、ワンプレーごとにストリングを整えるなどの習癖はサンプラスのトレードマークだった。 |
表彰
| 2005年12月、アメリカのテニス雑誌「テニス・マガジン」(''TennisMagazine'')誌が創刊40周年記念企画として「40年間から選んだ40人の偉大なテニス選手たち」を発表した。 |
| その企画で、4大大会優勝の男子歴代1位記録を更新したピート・サンプラスが第1位に選ばれた。 |
| 2007年7月14日、サンプラスはアランチャ・サンチェス・ビカリオ(スペイン)、スベン・デビッドソン(スウェーデン)らとともに国際テニス殿堂入りを果たした。 |
4大大会優勝
| 全豪オープン:2勝(1994年、1997年)〔準優勝1度:1995年〕。 |
| ウィンブルドン:7勝(1993年-1995年、1997年-2000年) [3連覇と4連覇、男子歴代1位タイ]。 |
| 全米オープン:5勝(1990年、1993年、1995年&1996年、2002年) [大会歴代3位タイ]〔準優勝3度:1992年、2000年&2001年〕。 |
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ピート・サンプラス(Pete Sampras, )は、ア... |
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