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プロフィール
- フアン・ロマン・リケルメとは
- キャリアの始まり
- FCバルセロナ
- ビジャレアル
- ボカ復帰
- アルゼンチン代表
- 特色
- 人物
- 評価
- 所属クラブ
- タイトル
フアン・ロマン・リケルメ(JuanRománRiquelme,1978年6月24日-)は、アルゼンチン出身、同国代表のサッカー選手。ポジションはMF。ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)に所属。卓越したゲームメイクのセンスを持ち、現在のサッカー界では絶滅寸前と言われるクラシックなゲームメーカーである事から恐竜と称されることがある。
キャリアの始まり
| アルヘンティノス・ジュニアーズの下部組織でキャリアをスタートさせる。 |
| 当時のポジションは中盤の底のボランチ。 |
| アルヘンティノスの練習場近くに住んでいた元アルゼンチン代表監督のカルロス・ビラルドに見出される。 |
| ボカ・ジュニアーズがアルヘンティノスの下部組織を吸収したことによって、幼少から憧れていたボカに移籍が決まりかけるが破談してしまう。 |
| 傷心の彼の元へリーベルプレートから破格のオファーが訪れ、移籍寸前まで行くが土壇場で拒否。 |
| その後、1996年6月に移籍金80万ドルで念願のボカへと移籍が決まり、ポジションを現在のトップ下に替える。 |
| いったんサテライトチームでプレーするが、すぐにカルロス・ビラルド監督のいるトップチームに引き上げられ、同年11月10日のウニオン・デ・サンタフェ戦でデビューした。 |
| 1998年、カルロス・ビアンチの監督就任によって、ボカの10番を背負いレギュラーに定着。 |
| トヨタカップを頂点に数々のタイトルを獲得し、マラドーナ後の10番としてボカの歴史でも有数の人気を得た。 |
| そんな中、弟であるクリスティアンが身代金誘拐されるという事件が起こる。 |
| 無事に解放されたものの母国への絶望感、金銭面をめぐって数年に渡ったマウリシオ・マクリ会長との確執などから欧州への移籍を要求。 |
| アルゼンチンリーグでのプレーを拒否するという行動に出た。 |
FCバルセロナ
| 2002年7月に移籍したFCバルセロナでは不遇の時を過ごすこととなる。 |
| 移籍発表の公式記者会見にてルイス・ファン・ハール監督から「君は私の望んだ選手ではない」と前代未聞の宣告をされ、いざシーズンがスタートしても戦術至上主義のファン・ハールのサッカーとはまるで水が合わず、ベンチを暖める日々が続く。 |
| ファン・ハール解任後に就任したラドミール・アンティッチ監督からも信頼を勝ち取れず、クラブ低迷打開の救世主として違いを見せることはできないまま欧州初挑戦のシーズンを終える。 |
| 2003年夏、ロナウジーニョが移籍してくるとクラブは彼の付けていた背番号10を説明も無く取り上げ、EU外選手枠が埋まったことを理由に1軍練習から締め出すという行動に出る。 |
| このような扱いを受けても決して腐らずに黙々と練習し、その姿はシャビやパトリック・クライファートから賞賛される。 |
| 8月に同じスペインのビジャレアルCFへのレンタル移籍が決定した。 |
| 戦術面では決して相容れないリケルメとファン・ハールであったが、「プロフェッショナルだなと思ったのは、いったんクラブの外に出たらとても親切に接してくれたこと。 |
| 長男が生まれたときは、直々に出産祝いのプレゼントをくれたんだ」と振り返っているクリスティアン・インファンソン「あの不思議な感触を求めて」『SportsGraphicNumberplus』2005/12号、文藝春秋、58-63項。 |
ビジャレアル
| このビジャレアルで復活と躍進を遂げる。 |
| 2003-2004シーズン途中、監督がベニート・フローロからマヌエル・ペジェグリーニに代わると戦術も彼を最大限に活かすいわゆる「王様サッカー」に移行。 |
| チームの中心として輝きを取り戻し始め、クラブ史上初となるUEFAカップのベスト4進出に貢献。 |
| 本人の希望によりユニフォームのネームもRIQUELMEからボカ時代に慣れ親しんだROMANへと変更した。 |
| 2004-2005シーズンはディエゴ・フォルランとのコンビで旋風を巻き起こし、リーグ戦では2人で40得点を叩き出した。 |
| 2年連続出場となったUEFAカップはベスト8、リーグ戦はクラブ最高位の3位で終えてUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得するという大躍進のシーズンとなった。 |
| 2005-2006シーズンにはビジャレアルがリケルメの保有権の75%を700万ユーロ(約10億5000万円)で買取り、完全移籍を果たす。 |
| なお、ビジャレアルでの活躍によって移籍金は最高1000万ユーロ(約15億円)まで上昇する契約であった。 |
| チャンピオンズリーグではベスト4進出の原動力となったが、彼自身のPK失敗によってチームの敗退が決定的となるという悲劇も味わう。 |
| 2006-2007シーズンは、ペジェグリーニやビジャレアル首脳陣との確執などによってメンバーから外される事が多くなり、2007年2月9日に古巣ボカへの復帰(レンタル移籍)が発表された。 |
ボカ復帰
| かつての王様の帰還をボカファンは大歓迎し、彼もそれに結果で応えていく。 |
| 盟友マルティン・パレルモとのコンビネーションは健在で、パレルモのゴールの大多数をアシスト。 |
| コパ・リベルタドーレスでの活躍は圧巻で、グレミオとの決勝戦では5得点全てに絡む活躍を見せチームを4年ぶりの優勝に導いた。 |
| ボカとのレンタル期間が終了し、所属はビジャレアルへ。 |
| ボカはリケルメの完全復帰を目指しビジャレアルにオファーしたが、受け入れられなかった。 |
| 他にもアトレティコ・マドリードからオファーがあり、リケルメ本人もマドリードまで出向き移籍交渉をしたが実現はしなかった。 |
| ビジャレアル側の「リケルメ構想外」の姿勢は変わらず、練習だけに参加する3ヶ月を送る。 |
| この時期には背番号を剥奪される(背番号8はサンティ・カソルラに引き継がれた)屈辱も味わった。 |
| 2007年11月30日、正式にボカに3年契約で完全移籍した。 |
| FIFAクラブワールドカップ出場を望みながらも、出場選手登録の期限が11月23日であったため、大会への出場はかなわなかった。 |
| それでも日本への遠征には帯同し、“裏方”としてチームを支える役回りを果たした。 |
| 2008年に入るとリーグ戦を二の次にしてまでコパ・リベルタドーレス2連覇を目指したが、準決勝でブラジルのフルミネンセに敗北。 |
| 同時期からチームの不協和音も聞かれるようになり、いくつかの内紛も発生したが、9月にはレコパ・スダメリカーナを制し、7年ぶりに挑んだ前期リーグは三つ巴のプレーオフにまで縺れたが優勝した。 |
| 2009年は慢性的な怪我による欠場が多く、チームも低迷した。 |
| コパ・リベルタドーレスはベスト16で敗退。 |
| リーグ戦も後期は14位、前期では10月に年内絶望の怪我を負ってしまい、その影響か11位に終わるなど全く振るわず、2010年のコパ・リベルタドーレス出場権を逃すというまさかの事態に陥った。 |
| なお、この2009年は無給で働いていたことをホルヘ・アモール・アメアル会長が明かしている。 |
アルゼンチン代表
| 1995年8月、ユース代表監督に就任したホセ・ペケルマンに招集された。 |
| 1996年1月にウルグアイで行われたU-18南米選手権ではMVPに輝いた。 |
| 1997年夏にマレーシアで行われたFIFAワールドユース選手権では優勝の立役者となった。 |
| A代表には1997年にデビューし、フランスワールドカップ予選のコロンビア戦で途中出場した。 |
| 1998年にはトゥーロン国際大会に出場し、チームの優勝と自身のMVPを勝ち取った。 |
| ユース世代では活躍するものの、マルセロ・ビエルサA代表監督の戦術にリケルメは合わず、なかなかA代表のレギュラーに定着できずにいた。 |
| しかし2004年に就任したユース時代からの恩師ホセ・ペケルマン監督から絶大な信頼を受け、チームの主柱として活躍。 |
| 2006年ドイツW杯では敬愛するディエゴ・マラドーナのナンバーである10番を背負った。 |
| チームはベスト8で敗退したが、自身は5アシストを記録しW杯アシスト王に輝いた。 |
| W杯後に新監督として就任したアルフィオ・バシーレ監督にはキャプテンを任され、代表での存在感は更に高まった。 |
| しかし2006年9月12日、彼への過剰なバッシングに耐えられなくなった母親がW杯以降2度も病院に運ばれ、病状が悪化したことを理由に同国代表からの引退を表明。 |
| 「何よりも大事なのは家族」と彼らしい決断であった。 |
| 2007年に入ると、母親の病状が安定したとの情報もあり代表復帰が噂されるようになる。 |
| 2007年6月21日、コパ・アメリカのメンバーに選出され正式に代表復帰した。 |
| 同年10月より始まった2010年南アフリカW杯南米予選ではビジャレアルでの構想外扱いにより公式戦出場はゼロであったにも関わらず招集された。 |
| メディア格好の議論の対象となり、彼とバシーレ監督には懐疑的な目が向けられたが4試合で4得点と見事な決定力を発揮。 |
| 自身の代表でのポジションを揺るぎないものとし、監督の絶対的な信頼に応えた。 |
| 2008年夏には北京オリンピック・アルゼンチン代表にOAとして参加。 |
| キャプテンとしてドリームチームと称されたチームの優勝を支えた。 |
| 6試合に出場し、1ゴールを記録。 |
| 2009年3月12日、前年に代表監督に就任したマラドーナによる自身への批判を理由に代表引退を発表。 |
| 1996年から10年以上に渡ったマラドーナとの友情にも終止符が打たれた。 |
| 2011年8月18日、アレハンドロ・サベージャ監督就任後初の試合となる9月14・28日に行われる国内組中心で臨むブラジル戦のメンバーに選出された。 |
| 代表引退から約2年ぶりの復帰となる。 |
特色
| 一方で世界最高峰の司令塔と評されるリケルメの宝物に着眼したマヌエル・ペジェグリーニやホセ・ペケルマンは、ファン・ハールが毛嫌いした「持ちすぎ」を「絶対的なキープ力」と評し、「流れを壊す厄介者」を「唯一無二の独創性」とリケルメの資質を正し、現代の潮流から逸れたいわゆる「王様リケルメと9人の仲間たち」戦術を駆使して、攻撃の舵取りをリケルメに委ね、それを9人のフィールドプレイヤーで補完的にサポートする、ペケルマンが語るところの「アルゼンチンはリケルメの好きなように動く」チームを完成させた。 |
| {{要出典範囲|以上のチームは原点回帰の着想に現代流の工夫を重ねて成功を収めているが、とどのつまりリケルメの好不調の波がチームに大きく反映されがちで、批判を受ける際は必ずと言っていいほど確信犯的にリケルメ頼りのチームと揶揄された。 |
| 元アルゼンチン代表選手でレアル・マドリードでも監督を務めたホルヘ・バルダーノは自身の解説で「A地点からB地点まで行かねばならないとき、できるだけ早く到着するために、ほとんどの人は6車線の高速道路を使う。 |
| ところがリケルメは曲がりくねった峠道を選ぶ。 |
| だが2時間で行けるところを6時間かけて行く」とリケルメを評している{{Citejournal|和書|author=横井伸幸|year=2006|title=“恐竜”リケルメは現代を生き抜けるか|journal=SportsGraphicNumber653|volume=27。 |
人物
| 憧れの選手はディエゴ・マラドーナとジネディーヌ・ジダン。 |
| ジダンのサンティアゴ・ベルナベウ最後の試合ではユニフォームを交換した。 |
| パブロ・アイマールと非常に仲が良いことで知られている。 |
| インタビューで「好きな選手は?」との問いには必ず「アイマール」と答える。 |
| そのアイマールも「好きな選手は?」との問いには必ず「リケルメ」と答える。 |
| 引退後はアイマールの地元のクラブで一緒にプレーするという計画があるらしい(アイマール発案)。 |
| カルロス・テベスは弟のような存在。 |
| ゴール後にするトッポ・ジージョポーズが有名だが、これの起源として「娘が好きだから説」と「(ボカ在籍時に揉めていたマウリシオ・マクリ会長に対して)ファンの声が聞こえるか(=ファンは自分の味方だ)という挑発説」がある。 |
| ラテン音楽であるクンビアを愛聴している。 |
| リケルメが代表でゴールを決めると、その試合には負けないという不敗神話を持つ。 |
評価
| FIFA技術部門トップであったホルガー・オジェックが『世界のファンタジスタ6傑』に指名した事もある。 |
| (フランス代表ジダン、イタリア代表トッティ、ポルトガル代表デコ、『アルゼンチン代表リケルメ』、日本代表中村俊輔、ガーナ代表アッピアー)。 |
| 2006年ドイツW杯アシスト王。 |
所属クラブ
| 1996-2002 ボカ・ジュニアーズ。 |
| 2002-2003 FCバルセロナ 。 |
| 2003-2007.2 ビジャレアルCF 。 |
タイトル
| コパ・リベルタドーレス-優勝(2000年、2001年、2007年)。 |
| トヨタカップ-優勝(2000年)。 |
| 1997南米ユース選手権-優勝。 |
| 1997FIFAワールドユース選手権-優勝。 |
| コパ・リベルタドーレスMVP(2001年、2007年)。 |
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1978年
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フアン・ロマン・リケルメ(Juan Román Rique... |
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移籍金80万ドルで念願のボカへと移籍が決まり... |
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