| 祖父ニコラ・エロルド(NicolasHerold)は教会オルガニストであった。 |
| 6歳で通学を始めて優等生になる。 |
| この間にフランソワ=ジョゼフ・フェティスに音楽理論を師事。 |
| 7歳でピアノの演奏を始め、いくつかのピアノ曲を作曲した。 |
| 父フランソワは、息子に音楽の道に歩ませるつもりはなかったため、1802年に父親が死去してから、ようやくエロルドはその道に進むことができるようになる。 |
| 1806年にパリ音楽院に入学し、ルイ・アダン(アドルフ・アダンの父親)にピアノを、カテルに和声法を、クロイツェルにヴァイオリンを、メユールに作曲を師事。 |
| 在学中にピアノとヴァイオリン演奏の超絶技巧を身につけた。 |
| 1810年にピアノ科の試験で自作を演奏して首席となる。 |
| 1812年にローマ大賞で覇者となり、翌1813年には大賞受賞者の提出作品として、最初の交響曲を作曲した。 |
| 1815年に健康上の理由により、ローマからナポリに移る。 |
| ナポリ滞在中に、3つの弦楽四重奏曲と2作めの交響曲を作曲した。 |
| 偽名ランドリアーニ(Landriani)のもとに最初のオペラ『アンリ5世の青春』(''LaGioventudiEnricoquinto'')を作曲し、ナポリで上演され、好意的な支持を得た。 |
| ナポリ王ジョアシャン・ミュラの王女たちに教師として仕え、5千リラの報酬を得ている。 |
| ウィーンでは2ヵ月間メッテルニヒ宰相にも仕えた。 |
| それからミュンヘンとスイスを経由してパリに戻る。 |
| 1816年に、フランソワ=アドリアン・ボイエルデューとオペラ『フランク王カール』(''CharlesdeFrance'')を共作し、聴衆にその名を印象付けた。 |
| 同年に、旧師で友人のメユールに献呈したオペラ《''LesRosières''》を作曲、これも成功を収める。 |
| 1817年にオペラ『小さな鐘』(''LaClochette'')が初演され、《''LesRosières''》を大幅に手直しする。 |
| 台本探しに難儀して『初めての訪問』(''PremierVenu'')を作曲したが、これはオペラとしての質に問題があり、大して成功しなかった。 |
| 《''LesTroqueurs''》(1819年)も失敗に終わった。 |
| エロルドは、作曲したい気持ちの強さから、飛び込んできた台本なら何にでも飛びつく癖があった。 |
| そのため、その後のいくつかのオペラ(『プラトニック・ラブ』(''L'Amourplatonique'')や『死せる作家、生ける作家』(''L'Auteurmortetvivant'')など)は失敗した。 |
| これに意気消沈したエロルドは、それから3年の間オペラに手を出さなかった。 |
| 1821年にイタリア劇場の助手となり、歌手の抜擢のためにイタリアに出張する。 |
| この職務はエロルドが霊感と健康を取り戻すきっかけとなった。 |
| 1823年に《''LeMuletier''》によって舞台に復帰し、成功を収める。 |
| 次回作《''Lasthénie''》はまずまずの成功であった。 |
| フランス軍のスペイン侵攻が成功すると、1823年にオベールと共作で《''VendômeenEspagne''》を作曲した。 |
| 1824年にオペラ=コミック座から『ルネ王』(''LeRoiRené'')を依嘱される。 |
| 同年イタリア劇場のコレペティトールに就任し、2年後には合唱指揮者に昇格した。 |
| 1826年に作曲した《''LeLapinblanc''》は、失敗に終わった。 |
| 次のオペラ『マリー』(''Marie'')は大成功であったが、イタリア劇場の任務は、更なる成功を追求したり、才能に磨きをかけるだけの余暇を与えてはくれなかった。 |
| それから3年間は、バレエ音楽の作曲を余儀なくされた。 |
| 1827年にパリ・オペラ座に転属し、1828年11月3日にレジオンドヌール勲章を授与される。 |
| 1829年の歌劇『まぼろし』(''L'Illuison'')は成功したが、1830年の《''Emmeline''》は成功しなかった。 |
| 1831年5月3日に、エロルドの最も有名なオペラ『ザンパ』が初演される。 |
| このオペラは、フランスとドイツで非常に人気があり、両国では今なお随時舞台化される。 |
| 『ザンパ』の成功に続いて『ブランヴィリエ侯爵夫人』(''LaMarquisedeBrinvilliers'')に着手するが、このオペラは、ボイエルデューやダニエル・オベールを含む数多くの作曲家との、力のこもった共作であった。 |
| 1832年に『医者いらず』(''LaMédecinesansmédecin'')を、その後『クレルクの草原』(''LePréauxClercs'')を作曲。 |
| 『クレルクの草原』が初演を迎えてから1ヵ月後、1833年が明けてまもなく、肺結核のために長患いののち死去した。 |
| 『リュドヴィク』(''Ludovic'')は未完のまま遺された。 |
| 遺体はペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。 |
| 『クレルクの草原』は1871年に、100回目の公演を数えている。 |
| 生家のある通りは、エロルドの生誕90周年にあたる1881年に、作曲家をたたえて「エロルド通り」(RueHerold)と名付けられた。 |