| 1967年4月1日、ジャニーズの『太陽のあいつ』という曲のバックダンサーとしてグループを結成。 |
| メンバーは、元々ジャニーズの付き人だった北公次、3歳から子役で活躍していた江木俊夫、劇団若草出身でファッションモデルをしていたおりも政夫、同じく劇団若草出身の永田英二の4人だった。 |
| 同年6月、大阪フェスティバルホールにてジャニーズが主演のミュージカル『いつかどこかで~フォーリーブス物語』に出演。 |
| しかしまだグループ名は無く、「ジャニーズJr.」としての出演だった。 |
| 同年8月、第31回日劇ウエスタンカーニバルに初出演。 |
| この時、初めてグループ名が正式に『フォーリーブス』に決まる。 |
| なお、「フォーリーブス=FourLeaves(4枚の葉←leavesはleafの複数形)」の意味が定説だが、本来の名前の由来は、ジャニー喜多川が脚本を書いた上記のミュージカル『いつかどこかで~フォーリーブス物語』内のグループ名からで、「4つに“別れる、去る、出発する”」という意味の自動詞の「“leave”」である。 |
| 同年10月、結成メンバーの永田英二は当時小学生だった為脱退し、スクールメイツ出身の青山孝が加入。 |
| 同じく同年10月より日本テレビ『プラチナゴールデンショー』にレギュラー出演するようになる。 |
| 1968年9月5日、CBS・ソニーの国内契約第一号アーティストとして、両A面シングル『オリビアの調べc/w壁のむこうに』にてレコードデビュー。 |
| 1970年にはブロマイドの売上げが男性歌手部門の1位になり、衰退期にあったグループサウンズのザ・タイガースなどに代わり、新御三家が台頭するまでの間、トップアイドルとなった。 |
| ヒットチャートが最高10位と大ヒット曲はなかったが、冒頭の江木の名ゼリフで知られる『地球はひとつ』や、『夏の誘惑』などがコンスタントにヒットを重ね、1970年から7年連続でNHK紅白歌合戦出場を果たす。 |
| 先輩格のジャニーズと同様に、ミュージカルにも熱心に取り組み、その姿勢は現在のジャニーズに受け継がれている。 |
| ジャニー喜多川とメリー喜多川姉弟は「タイガーズやテンプターズなど、他の人気グループと違い、フォーリーブスはグループ内にスター的存在のメンバーを作らない」「言うなればメンバー全員がスター」という確固たるポリシーを結成当時から一貫して持ち続けていた。 |
| 二人は雑誌などでもたびたびその主旨の発言をしていた。 |
| また、1960年代前半にジャニーズの付き人をしていた北公次をどうしてもデビューさせたいが為に、各所から人材を取捨選択して作ったグループだと後にジャニー喜多川が発言している。 |
| ステージにおける歌唱やダンスにおいても、その「メンバー全員がスター」というポリシー同様、特定のメンバーが突出したり比重が置かれることは基本的になかった。 |
| メンバー全員が綺麗に振りを揃えたユニゾン・ダンスとパフォーマンスを重視するステージングであった。 |
| グループ内での位置付けは、運動能力に優れた北公次はバック転などの華麗なアクロバットを担当してステージを彩った。 |
| またステージ上でバック転を披露した初のアイドルでもある。 |
| 当時全盛を誇る渡辺プロダクションの次世代のスター育成機関であった東京音楽学院特待生でスクールメイツのメンバーでもあったほど高い歌唱力を持つ青山孝は、歌唱面と音楽面においてのリーダー的存在。 |
| フルコーラスをソロボーカルで担当したシングルA面曲(二曲)が存在するのは彼だけである。 |
| フォーリーブスの楽曲の音楽性の高さは青山に負うところが大きい。 |
| 日本大学芸術学部の学生でもあった青山は、芸能活動との兼業もありソロ活動は少なかったがグループ内では北と人気を二分した。 |
| 70年代後半のコンサートでは他のメンバー達からの注文に応じてアレンジやコーラスなどの譜面の書き換えも任されていた。 |
| また、ダンスも一番達者であり、NHK紅白歌合戦に出場して『急げ!若者』(1974年)『ハッピー・ピープル』(1975年)を披露した際は、ボーカルはもちろんダンスにおいてもメインの扱いであった。 |
| 名子役として芸歴の長い江木俊夫と同じく子役出身で最年少のおりも政夫は、前述の二人とは対照的にグループのMC役としてトークや司会進行を担当。 |
| バラエティやコントなどでは気味の悪い怪物や道化に徹した役回りや扮装、大胆なリアクションも辞さない軽妙なコメディリリーフ部分を担っていた。 |
| 江木俊夫は子役の頃から周囲の百戦錬磨のスタッフすら騙されるほどの自然な演技力を身につけていたが、ジャニーズ社長の意向もありグループ内では三枚目キャラクターを担当していた。 |
| おりも政夫はのんびりかつ飄々としたキャラクターと司会進行が持ち味。 |
| 歌唱、アクロバット、演技などそれぞれが1つの長所に特化した他のメンバーと違い、どれも手堅くこなす器用な面も持つ。 |
| ピークが過ぎた1974年頃から各自の個性を生かした単独での活動も徐々に増えていった。 |
| 1972年に帝国劇場でミュージカル『生きていくのは僕たちだ!』に出演。 |
| 1973年の8月にフォーリーブスへのプレゼント代や追っかけ費用を稼ぐために売春していたという女子中学生グループが書類送検されて批判を浴びた。 |
| 同年 公開コメディー番組『とことんやれ大奮戦!』に出演。 |
| 青山はNHKドラマ『銀座わが町』で初レギュラー。 |
| 1974年、NHKの音楽バラエティ番組『レッツゴーヤング』にレギュラー出演。 |
| 1976年1月15日に常磐ハワイアンセンター(現・スパリゾートハワイアンズ)にて開催されたショーで茨城県日立市在住の16歳の少女が興奮のあまり失神死するという事故がおきた。 |
| 長く賞には恵まれなかったが、10周年記念曲として1976年にリリースした『踊り子』で、東京音楽祭ゴールデン・カナリー賞の受賞を皮切りに日本歌謡大賞特別賞、日本テレビ音楽祭特別賞等を受賞した。 |
| しかし当時人気は既に下降し始めていて、ヒットチャートの最高は41位であった。 |
| なお、同曲のレコードでは北が歌っていたソロパートが、歌番組では青山の歌唱へ変更されている事が多かった。 |
| その年のNHK紅白歌合戦出場曲にもなり、ソロパートは北と青山の二名によるツインボーカルによる歌唱で披露されたが、画面に映っているのは北だけであった。 |
| 翌1977年に起死回生を賭けてリリースした『ブルドッグ』は、奇抜な歌詞や振り付けが話題を呼ぶも最高位は40位とヒットには至らず、7年連続出場したNHK紅白歌合戦にも落選した。 |
| しかし、この曲はその後も後輩のジャニーズアイドル達によってライブやテレビで歌い継がれているほか、1997年には富士フイルム「写ルンです」のCMソングに起用され、2006年にはタレントの城咲仁によってカバーもされた。 |
| 1970年代中期頃から後進や後輩のアイドルやグループへと人気が移行していく。 |
| それまではグループや個人(青山、北)で雑誌などの人気投票の上位に位置することが多かったが、新御三家デビュー後の1973年頃から次第に上位から姿を消していく。 |
| 比例するように雑誌記事やグラビアも減少していき、1975年になるとほぼ記事を見かけなくなる。 |
| テレビにおけるメインレギュラー番組も1975年に全て降板、同じくコンサートやリサイタルの公演数も減り、ツアーもなくなりジャニーズ事務所の後輩やジュニアとの共演や二部構成の割合が増加する。 |
| 事務所後輩であり新御三家の1人である郷ひろみが移籍したあたりから、徐々に世間の関心がニューミュージック勢に比重が移っていくのと比例して、人気やレコードセールス及び所属するジャニーズ事務所の状況も低迷する。 |
| 新御三家を除いた男性アイドル冬の時代に突入し、個人での活動の比重も高くなり、それぞれの芸能活動における方向性の違いも顕著になっていった。 |
| グループよりも、ソロのタレント活動が好調で複数のレギュラー番組を抱えたおりもを見る機会の方が増えていき、メンバーの平均年齢も20代後半となり、1977年には青山が結婚をするなど、アイドルとしての活動に限界を迎えるようになっていった。 |
| 1978年の7月21日に最後のシングル『THEEND-思いがけず出会ったら-/夢のかけら』をリリース、1ヵ月にわたる全国ラストツアーを行い、同年8月31日、大雨の降る中、新宿の東京厚生年金会館のステージにて解散した。 |
| メンバーの中ではジャニーズ事務所在籍期間が一番長かったおりもも、1994年に退社している。 |
| 1977年に、青山孝が同事務所の女性タレントで元ミスユニバース日本代表の嶋田じゅんと結婚した。 |