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プロフィール
- フランソワ・デルクールとは
- 略歴
- 路面との相性
- マシンとの相性
- コ・ドライバーとの相性
- チームとの相性
- 因縁の相手
- その他
フランソワ・デルクール(FrançoisDelecour、1962年8月30日-)は、フランス・カセル出身のラリードライバー。どのようなラリーでも上位を狙えるだけの技量があり、豪放磊落で破天荒、かつ職人気質で義理人情に厚く一本気の通った性格から日本でのファンも多い。未婚だが2子がいる。
略歴
| 父親が建築家で、元々は父と同じ仕事につくのが目標だったのだが、家の前を走るラリーカーに魅せられてラリーの道へ進んだ。 |
| フランスラリー選手権やプライベーターでのWRC参戦を経た後、1991年、フォードワークスと契約。 |
| フォードでのデビュー戦となったラリー・モンテカルロでは予想外の好成績を見せ、最終日のゴール目前まで首位を維持。 |
| しかし最後のSSで彼の操るフォード・シエラ・コスワースはマシントラブル発生の上横転、観客に向かって泣きながら謝罪するデルクールの姿に、一同が健闘を称えたというシーンもあった。 |
| その後も着実に実績を重ね、1993年のラリー・ポルトガルで初優勝を果たす。 |
| この年は通算3勝し、ドライバーランキングも2位につけるなど活躍を見せた。 |
| しかし1994年、友人から借りたフェラーリ・F40を運転中に事故を起こし、両足に重傷を負い復帰までに5か月を要することとなる。 |
| 病室の外で医師が足を切断しようと会話しているのを聞き、慌てて、ラリードライバーにとって足がどんなに大切かを訴え、切断だけは思いとどまってくれるよう医師を説得した。 |
| 結局復帰までこぎつけたが調子は戻らず、翌1995年もフォード・エスコートの開発の遅延などで思い通り走れないままフォードを離れる。 |
| 1996年からは当時のラリーのカテゴリーのひとつであったF2へと転向。 |
| プライベーターとして参加したラリー・モンテカルロで好成績を残し、直後にプジョーと契約。 |
| フランスラリー選手権を中心にWRCのターマックイベントに1998年まで参戦した。 |
| 1999年、プジョーワークスの一員としてWRCに本格的に復帰。 |
| 優勝こそ無かったが、好成績を着実に重ね、プジョーのマニュファクチャラータイトル争いに大いに貢献した。 |
| しかし翌2000年、9月にトレーニング中に起こった出来事(後述)をきっかけに、サンレモ・ラリーで同僚だったジル・パニッツィとの間でトラブルを起こしたこと(後述)と、マシンへの注文が多かったこと(後述)などチーム内に多くの軋轢を生んでいたため、この年をもってプジョーから放出される。 |
| 2001年は古巣フォードへ復帰、10戦のみの契約だったが着実に仕事をこなす。 |
| この年のアクロポリス・ラリーでは、ラリー前から負傷していた手首にギプスを付けたまま走行し、トップテン圏内に入った。 |
| 2002年、トミ・マキネンが去った後の三菱とエース扱いで契約するが、当時の三菱・ランサーWRCが問題の多いマシンだったこともあり、本来の能力を引き出せないままシーズンを終わる。 |
| そして2003年、三菱はワークス活動を1年停止を発表。 |
| ここでスタッフとひと悶着を起こし(一説にはプジョー時代不仲だったエンジニア、マリオ・フォルナリスの移籍が決定打となって)自由契約に。 |
| その後フランスラリー選手権や欧州ラリー選手権に参戦するも、かつてのような目だった成績は残していない。 |
| 時々サプライズ起用を試みるシュコダのワークスドライバーや、リチャード・バーンズやフランソワ・デュバルといった急なアクシデントや成績不振などで外されたドライバーの代役として名前が挙がることもあった。 |
| 一時音沙汰が無くなったが、2007年はフランスラリー選手権のカテゴリーのひとつ、GTシリーズ(GTdeSérie)に参戦。 |
| ポルシェ・996GT3RSを運転し開幕戦をクラス優勝で飾ったものの、その後はリタイアが続いている。 |
| また、GT仕様の車でWRCのイベントに参戦できるようFIA(国際自動車連盟)に申請をしているが、認められていない。 |
| 現在は南フランスの田舎町で恋人と一緒に暮らしている。 |
| かつてのWRCドライバー、フレディ・ロイクスとは近所付き合いとのこと。 |
路面との相性
| フランス人ドライバーの特徴とも言えるターマックでの能力の高さが評価されるが、グラベルなどでも活躍することができる能力を持っている。 |
| デルクールが一時期運転していたF2ラリーカーの得意とするラリーはターマックラリーで、この時の実績がプジョー入りを決めたきっかけとなったが、本人曰く「ターマックは嫌い」とのこと。 |
| デビュー以来延々とターマックラリーを走ってきた彼独特の皮肉なのか、それとも後述のパニッツィとの確執の影響なのかは定かではない。 |
マシンとの相性
| デジタル化、電気化などはもってのほかという機械式至上主義者である。 |
| プジョー時代、アクティブディファレンシャル(アクティブデフ)を導入した途端調子が悪くなり、プジョーチームの「首領」コラード・プロベラに直談判。 |
| その甲斐あってデルクールのマシンのみが機械式に切り替わり、復調した。 |
| 部品に関する注文も他のドライバーよりも多く、シフトについて注文をつけたところ、あてつけなのか、プジョー側からシフトの部品だけが送りつけられたこともある。 |
| しかし三菱ではどんなに文句を言っても最後までアクティブデフを使わされる羽目になった。 |
| クラッシュの多さが取り上げられることがあるが、彼自身のミスによるクラッシュというのは実は少ないほうである。 |
| リタイアは彼の過激かつ大胆なドライビングスタイルにマシンが付いていけなくなり、トラブルを起こしたときくらいである。 |
| 実際、2002年のオーストラリアラリーの大クラッシュも、ステアリングの不調が原因であった。 |
| ちなみにF2ラリーカーで走行していたときの感想に関しては「危険だ、と思いながら走っていた。 |
| とにかくコーナーでどこへ飛んでいくかわからないのが危険だと感じていた」と率直に述べている。 |
コ・ドライバーとの相性
| デルクールのコ・ドライバー(ナビ)は、長年にわたってダニエル・グラタループが担当してきた(1995年のみ女性コ・ドライバーのキャシー・フランソワが担当)。 |
| デルクールの要求どおりペースノートが読めないとすかさず罵倒の嵐が飛んでくるため、彼のナビはグラタループでないと務まらないからである。 |
| しかしグラタループも精神的なプレッシャーならともかく、肉体的ダメージには耐えられなかった。 |
| クラッシュで負傷すること数知れず、三菱時代に重傷を負わされたことからついにコンビを解消することとなった。 |
| クラッシュのたびに負傷するグラタループに比べ、デルクール自身はほとんど負傷することがなかった。 |
| 現在グラタループはシトロエンワークスで働いているとのこと。 |
| 三菱時代、毎度のごとくグラタループを負傷させてしまったデルクールに、経験の浅いナビがあてがわれた。 |
| 最初のうちは我慢していたものの、2002年のラリー・グレートブリテンでイギリス特有の狭くコーナーの多いコースにペースノートが追いつかず、クラッシュ。 |
| 積もっていた不満がついに爆発し、すぐさまありったけの罵声を浴びせた。 |
| この時の様子は車内カメラにばっちり収められており、「10回遅い!100回遅い!」とナビに怒鳴り散らす彼の姿は全世界に配信されることとなった。 |
| もっとも、後にデルクールは「グレートブリテンのコースは他所とは違うってことを前もって言っておけばよかった」と反省した。 |
チームとの相性
| 円満に脱退したチームは、ない。 |
| 最初のワークスチームであるフォードは車両開発の遅れが不満で離脱し、プジョー時代には、2000年9月の終わり頃、自宅近くでトレーニングをしているときに、ヒュンダイワールドラリーチームのマシンテストに出くわし、プジョーと契約しているにもかかわらずヒュンダイ・アクセントWRCのステアリングを握りエンジニアにアドバイスをする行為をしてしまう。 |
| このことを知った首脳陣がデルクールに対し不信感を抱いてしまい、コルシカ、サンレモではパニッツィ優先のチームオーダーが出されてしまうことになる。 |
| 結局サンレモでの後述のトラブルで追放されるような形で離脱し、三菱でも活動休止こそ受け入れたもののトラブルを起こして(というよりはマリオ・フォルナリスの移籍で態度を急変させ)離脱した。 |
| あえて言うならば、フォードに復帰し10戦契約を満了したのが最初で最後の穏便な契約履行だった。 |
因縁の相手
| 2000年のサンレモで違法レッキを行ったジル・パニッツィに対してデルクールは怒り心頭に発し、大喧嘩となった。 |
| チーム総出で引き剥がされたデルクールは泣きながらパニッツィを罵倒しつつ、モーターホームへと運ばれていった。 |
| これ以来デルクールはパニッツィと犬猿の仲になり、ルートのそばにある「パニッツィの家の前を何度も通るのが嫌」という理由で、思い出深いはずのモンテカルロ・ラリーが大嫌いになった。 |
| この一件と、前述の部品に関するクレームの多さから、デルクールは2000年限りでプジョーを後にすることとなったが、のちに所属した三菱を去った際、後任のエースドライバーは、こともあろうにパニッツィであった。 |
| なお、パニッツィのエピソードとして語られる「自転車レッキ(これもルール違反)」は、実は前年の同ラリーでデルクールがやったことである。 |
| あともう一人挙げるとするならば、プジョーと三菱に在籍したメカニック、マリオ・フォルナリスも因縁の相手であると言える。 |
| ただし(最終的にWRカー全体の基本的な仕様となる)ペダル類等のデジタル化など最新技術の導入を推し進めたフォルナリスの方針に対し、「機械至上主義者」デルクールが断固として抵抗したという点を忘れてはならない。 |
その他
| WRCから身を引いた後、欧州ラリー選手権ではプジョー・206を運転していたが、そのカラーリングは「水色のイチゴ」とでもいうような非常に独特なものであった。 |
| イギリスの自動車雑誌AUTOCAR(日本版2006年5月号掲載)の企画でフォード・フォーカスSTを運転したときは「最近は以前ほど車に乗っていない。 |
| 俺は一度ステアリングを握ってしまうとゆっくり走るということが出来ない。 |
| 飛行機か列車に乗ったほうがマシだ」と言ってのけた。 |
| 以上の点から、故国フランスでの評判は芳しくない。 |
| フランスの記者が、日本でのデルクールの人気の理由を日本の記者に尋ねたほどである。 |
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1962年
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フランソワ・デルクール(François Delecour... |
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1991年
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フォードワークスと契約 |
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投票数
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フランソワ・デルクールさんについてのひとこと紹介
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