| 1932年5月30日、ハインリヒ・ブリューニング内閣が瓦解すると、ヒンデンブルク大統領の側近のクルト・フォン・シュライヒャーは、パーペンを後継の首相に推薦した。 |
| 当時ほとんど無名だったパーペンが推薦されたのは無経験で外見ばかり気にする彼が、シュライヒャーにとって操り人形にし易しと判断されたからという。 |
| 「パーペンは人の上に立つ器ではない」という周囲の反対に対してシュライヒャーは「彼に人の上になど立たれては困るな。 |
| 彼は帽子みたいなもんだ」と語ったという。 |
| シュライヒャーの推薦を受けてヒンデンブルク大統領はパーペンに首相就任を打診したモムゼン、p.393。 |
| パーペンは一度は、中央党の党首ルートヴィヒ・カース(de)枢機卿に組閣要請を受けないことを約束したが、後になってヒンデンブルクと面会してカースとの約束を反故にして首相職に飛びついたモムゼン、p.394アイク、p.186。 |
| パーペンは6月1日にヒンデンブルクより首相に任じられた阿部、p.196。 |
| これによりパーペンは中央党から除名された阿部、p.197。 |
| パーペン内閣は閣僚9人のうち7人が貴族出身者であった。 |
| 農相マグヌス・フォン・ブラウン男爵(de)の回顧録によるとこの内閣は貴族出身者が多い他に騎兵隊出身者が多い特徴もあったというアイク、188頁。 |
| 特に内閣で大きな力を持っていたのは、首相フランツ・フォン・パーペン、国防相クルト・フォン・シュライヒャー、内相ヴィルヘルム・フォン・ガイル男爵(de)の三人だった。 |
| そのため三頭政治と呼ばれたモムゼン、p.403。 |
| こうした前時代的な人選から国民の支持はほとんどなく、男爵内閣と渾名された阿部、p.197アイク、p.189フェスト、上巻p.435。 |
| 内閣の極端な不人気に各党の反応は冷たく、主要政党でパーペン内閣を支持する政党は一つもなかった。 |
| 社民党や共産党のような左翼政党は言うに及ばず、中央党も反党行為によって成立したパーペン内閣を徹底的に攻撃した。 |
| 保守政党の国家人民党ですらパーペン内閣と自分達は何の関わりもないとまで言明したモムゼン、p.396。 |
| 唯一国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)のみが突撃隊の禁止命令の解除と国会解散の約束を守ってもらうためにパーペン批判を控えていたが、これはナチ党内でも党員や支持者から大きな反発を招いた。 |
| 同党宣伝担当ヨーゼフ・ゲッベルスの日記も「このブルジョア的な与太者との厄介な隣人関係からすぐに逃げ出さないと我が党は取り返しのつかないことになる」と危機感を露わにしている。 |
| 同党党首アドルフ・ヒトラーはシュライヒャーを通じて受けたパーペン内閣への協力要請を拒否している。 |
| File:BundesarchivBild102-13708,FranzvonPapen.jpg|thumb|250px|left|1932年7月、ベルリンの首相官邸。 |
| したがってパーペン内閣はもっぱらヒンデンブルク大統領の権威と国軍の権力にのみ頼った内閣だった。 |
| 6月2日に行った首相就任宣誓でパーペンは国会解散を求めたモムゼン、p.397。 |
| 6月4日にヒンデンブルク大統領は議会に解散を命じ、総選挙が行われることになった。 |
| また6月にはブリューニング内閣により行われたナチス突撃隊・親衛隊の禁止命令とナチ党制服の禁止命令を新しい命令で取り消した。 |
| 諸州はこの決定に反発し、独自にナチス制服禁止命令を出そうとしたが、パーペンは諸州には個々の事例について公共の秩序に対する危険防止を超える権限は認められていないとして再度命令を出してナチ党制服禁止を解除したモムゼン、p.398。 |
| 一方、6月16日からドイツの賠償問題に関するローザンヌ会議がイギリス首相ラムゼイ・マクドナルドを議長として行われ、これが内閣にとっての初の外交舞台へのお披露目となった。 |
| パーペンは、外相コンスタンティン・フォン・ノイラート男爵や蔵相ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク伯爵、経済相ヘルマン・ヴァルムボルト(de)らとともに出席阿部、p.199。 |
| その結果、7月9日に締結されたローザンヌ協定によってドイツは賠償金額をだいぶ減らされたが、なお30億マルクの支払いを要求されたモムゼン、p.412。 |
| 「ボルシェヴィキに死を」を標語にしていたパーペンは、フランスに対して共産主義(ソビエト連邦)の脅威に対抗する独仏同盟を秘密裏にもちかけたが、フランス側は拒絶しソ連政府に通知された。 |
| 内政では議会の支持を全く得ていなかったので、大統領権限による緊急立法のみで政権を維持する有様だったが、高い失業率への対策として雇用創出策を始めており、効果が見え始めたところであった。 |
| 大規模なアウトバーン建設や徴兵制度といったより大規模な失業対策はヴェルサイユ条約の取り決めにより見送られたが、のちにヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄してこの政策を実現し、失業問題が劇的に解決されることになる。 |