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プロフィール
- フランツ・ベッケンバウアーとは
- 生い立ち
- 1960年代
- 1970年代
- 1980年代
- 西ドイツ代表
- 監督
- その後
- プレースタイル
フランツ・アントン・ベッケンバウアー(FranzAntonBeckenbauer,1945年9月11日-)は、ドイツ(旧西ドイツ)・ミュンヘン出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現在のドイツサッカー連盟(DFB)副会長、バイエルン・ミュンヘンクラブ会長、及びバイエルン・ミュンヘン株式会社の監査役長。2006FIFAワールドカップドイツ大会では組織委員長を務めた。現役時代はリベロ(攻撃に参加する スイーパー)システムを確立させ名声を得た人物である。ピッチ上で味方の選手達を操る姿と、『神よ、皇帝 フランツを守り給え』に詠われたオーストリア皇帝 フランツ1世(最後の神聖
生い立ち
| 1945年9月11日、第二次世界大戦終結直後にミュンヘン東南部にあるギーシングで生まれる。 |
| 郵便局員を務める父親は厳格な人物だった。 |
| 物心ついたころから5歳上の兄や近所の子供たちと共に路地や空き地などでストリートサッカーに興じて技術を磨いた。 |
| 1954年、8歳の時にSCミュンヘン1906の下部組織に入団して本格的にサッカーを始める。 |
| 当時のポジションは左ウイングベッケンバウアー,1976.27頁で、後にセンターフォワードを任せられるようになった。 |
| 憧れの選手はフリッツ・ヴァルター(ワールドカップ・スイス大会優勝時の主将)ベッケンバウアー,1976.30-31頁、地元のギーシング地区に本拠地をおくサッカークラブTSV1860ミュンヘンを応援するベッケンバウアー,1976.32-34頁サッカー少年だった。 |
| SCミュンヘン1906で5年間を過ごしたが、クラブの財政事情により育成年代のチームを維持できなくなったことを知るとチームメイトと共に1860ミュンヘンへ移籍することを考えるようになるリヒテンベルガー,261-263頁。 |
| 1958年夏、SCミュンヘン1906での最後の試合としてミュンヘン近郊のノイビベルクで開催された14歳以下(U-14)大会に出場し決勝進出、決勝の相手は1860ミュンヘンとなった。 |
| この試合にてベッケンバウアーを警戒する相手選手との小競り合いの末に相手から平手打ちを受けるという事件が起こる。 |
| これをきっかけにファンだった1860ミュンヘンではなく、同じバイエルンのシュヴァービング地区を本拠地とするバイエルン・ミュンヘンの下部組織に入団することを決意したベッケンバウアー,1976.34-35頁。 |
| ベッケンバウアーは、ここでもセンターフォワードを務め、入団最初のシーズンで100近い得点を記録した。 |
| 1960年、14歳でギムナジウム(中等教育機関)を卒業後、保険会社のアリアンツに就職ベッケンバウアー,1976.38-39頁。 |
| 社会人として生活を送る一方で引き続きバイエルンの下部組織でサッカーを学び、18歳の頃にはバイエルン州選抜や西ドイツユース代表に選出される。 |
| ユース代表では監督のデットマール・クラマーの下で公私共に指導を受けた。 |
1960年代
| 1964年、バイエルン・ミュンヘンの会長を務めるヴィルヘルム・ノイデッカーの推薦もあってベッケンバウアー,2006.13頁トップチームに昇格しプロ契約を締結。 |
| しかし少年時代から選手としての優れた資質を発揮する一方で未熟な体躯であったことから、指導者からは「素質はあるがファイターではない」と評されていたベッケンバウアー,1976.58頁鈴木,1982.111頁。 |
| ベッケンバウアーがバイエルンのトップチームに昇格した当時、クラブは中堅クラスの実力を有していたリヒテンベルガー、263頁が、最上位リーグであるブンデスリーガに所属するトップレベルのクラブとの実力差は歴然としていた。 |
| また同じ都市を本拠地とする1860ミュンヘンというライバルクラブが大衆的なクラブとして人気を得ておりベッケンバウアー,2006.14頁、先にブンデスリーガ入りを果たしていたことや西ドイツ代表選手を数人有していたこともあり実力の面でも差を付けられていた。 |
| 監督のズラトコ・チャイコフスキーはベッケンバウアーに「君はクルップ社のような鉄になれる素材だが、今は生クリームのようだ。 |
| それでは、いくら優れたボールテクニックを身に付けていても何の意味もない」と評しベッケンバウアー,1976.60-63頁、フィジカルを向上させるための様々なトレーニングを課して、選手としての成長を促した鈴木,1982.111頁。 |
| チャイコフスキーはベッケンバウアーの他にもGKのゼップ・マイヤーやFWのゲルト・ミュラーといった10代の有望な若手選手を育成し後の成功に至る基盤を築くことになったリヒテンベルガー、263頁。 |
| 同年6月6日、1963-64シーズンブンデスリーガ昇格ラウンド |
| ベッケンバウアーは左ウイングとしてスタメン出場を果たし4-0と勝利を収めデビュー戦を飾った |
| 同年9月、1964-65シーズンレギオナルリーガ南部開幕戦のMTVインゴルシュタット戦でリーグ初得点を記録すると、その後はポジションをフォワードから中盤に下げ、マイヤーやミュラーらと共にブンデスリーガ1部昇格に貢献。 |
| 昇格初年度の1966年にはDFBポカールを制すると翌年も連覇。 |
| 1966-67シーズンにはUEFAカップウィナーズカップ優勝、1968-69シーズンにはブンデスリーガ初優勝に貢献した。 |
| ベッケンバウアーの貢献度の高さからファンからはバイエルンミュンヘンの事を「FCベッケンバウアー」、イギリスのサッカージャーナリストからは「ベッケンバウアー株式会社」と呼ぶようになった鈴木,1982.112頁。 |
1970年代
| 1970年代に入るとドイツ国内ではヘネス・バイスバイラーが監督を務めるボルシア・メンヒェングラートバッハ(以下ボルシアMG)との2強時代に突入した。 |
| ベッケンバウアー擁するバイエルンは、ギュンター・ネッツァーやベルティ・フォクツらといった選手を擁して攻撃的なサッカースタイルを標榜したリヒテンベルガー、265頁ボルシアMGとの間で鎬(しのぎ)を削ったが、1971-72シーズンからリーグ3連覇。 |
| 国際舞台においても1972-73シーズンからUEFAチャンピオンズリーグ3連覇を達成。 |
| 1976年のインターコンチネンタルカップ優勝などの実績を残した。 |
| 自身も西ドイツ代表での活躍もあってバロンドール受賞2回(1972年、1976年)、ドイツ年間最優秀選手賞を4回(1966年、1968年、1974年、1976年)を受賞した。 |
| 1977年5月、北米サッカーリーグのニューヨーク・コスモスへ移籍。 |
| 同年限りでの引退を表明していたペレの後継者を探していたコスモス側からのオファーを受けたもので、契約期間は4年、移籍金は250万ドル(当時の金額)とも言われた。 |
| コスモスではリベロではなく中盤でプレーをし、同年のサッカーボウル(北米リーグチャンピオン決定戦)で優勝。 |
| 選手投票によるリーグMVPにはペレを抑えベッケンバウアーが選出された。 |
| ペレの引退もあって翌年は優勝を逃したものの、1979年と1980年にはサッカーボウル連覇を果たし米国での人気を不動のものとした。 |
| 一方でアメリカの競技場の人工芝の堅いピッチは柔らかい天然芝のピッチに馴染んでいたベッケンバウアーの肉体を徐々に蝕んでいった鈴木,1983.132頁。 |
1980年代
| 1980年、ハンブルガーSVへ移籍。 |
| 同年11月15日のVfBシュトゥットガルト戦でブンデスリーガ復帰を果たすとリーグ通算18試合に出場し往年のテクニックを披露した。 |
| しかし翌1981-82シーズンはチームはブンデスリーガ優勝を果たしたものの、ベッケンバウアー自身は、アキレス腱断裂などの度重なる怪我に苦しみ、治療の為に試合出場がかなわない状態だった。 |
| ここでトップレベルでのプレーが出来ないと判断しハンブルクからの退団を決意。 |
| 1982年7月1日、ハンブルクのフォルクスパルクシュタディオンで行われた西ドイツ代表対ハンブルガーSVによる「ベッケンバウアー感謝試合」では前半は西ドイツ、後半はハンブルクの選手としてプレー。 |
| 試合は4-2で西ドイツが勝利を収めベッケンバウアーはドイツのファンに別れを告げた。 |
| また、この試合に先立ち西ドイツサッカー連盟のヘルマン・ノイベルガー会長から代表チーム名誉キャプテンの称号が贈られた。 |
| 1983年、再びニューヨーク・コスモスへ移籍。 |
| サッカーボウルで準々決勝ラウンドで敗退すると、このシーズン限りで現役引退を表明した。 |
西ドイツ代表
| 1965年、西ドイツ代表に招集。 |
| 同年9月26日、敵地のストックホルムで行われたワールドカップ・イングランド大会出場をかけたスウェーデン戦で代表デビューを飾る。 |
| この試合を2-1で勝利を収め本大会出場に貢献したベッケンバウアーはヘルムート・シェーン監督の下でレギュラーに定着して行った。 |
| 1966年、ワールドカップ・イングランド大会出場。 |
| ベッケンバウアーは20歳で迎えた初のワールドカップの舞台にて中盤の要としてゲームをコントロールすると共に得点を重ね、グループリーグ初戦のスイス戦で2得点、準々決勝のウルグアイ戦と準決勝のソビエト連邦戦でそれぞれ1得点の合計4得点を挙げる活躍で決勝進出に貢献。 |
| 決勝戦では地元イングランドとの対戦となり、この試合でベッケンバウアーはイングランドのエースのボビー・チャールトンのマンマークを担当。 |
| チャールトンを封じる事には成功したものの、延長戦の末に2-4で敗れ準優勝。 |
| この結果に専門家からは「チャールトンを封じる事に囚われ、ベッケンバウアー本来の攻撃面を発揮する事が出来なかった。 |
| 西ドイツの作戦ミスなのではないか」との批判を受けた。 |
| 1968年6月1日、ハノーファーで行われたイングランドとの親善試合。 |
| イングランドとは2年前のワールドカップ決勝で対戦した因縁の相手であり、1908年以来、0勝2分10敗と大きく負け越すなど苦手意識を抱えていた。 |
| この試合でベッケンバウアーは82分に決勝点を決めサッカーの母国に対し初勝利を収めると共に長年の苦手意識を払拭した。 |
| 1970年、2度目のワールドカップとなったワールドカップ・メキシコ大会では準々決勝で前回優勝国のイングランドを延長戦の末に3-2で下し2大会連続の準決勝進出。 |
| 準決勝のイタリア戦は追いつ追われつの試合展開で、延長戦の末に3-4で競り負けたがサッカーファンからは世紀の一戦(GameoftheCentury)と評された。 |
| 1971年4月25日、トルコ戦において26歳で西ドイツ代表のキャプテンに就任。 |
| 1972年、UEFA欧州選手権1972準々決勝ラウンドでイングランドを相手に敵地で完勝し本大会進出に導くと、ベルギーで開催された本大会では準決勝で地元ベルギーを2-1、決勝ではソビエト連邦を3-0で下し大会初優勝。 |
| この時のリベロを務めるベッケンバウアーとゲームメーカーを務めるネッツァーのコンビネーションや流れるようなパスワーク、選手個々の身体能力とラテン系を彷彿とさせるテクニックを融合したサッカーを披露した事から「夢のチーム」と称えられた鈴木,1983.130頁リヒテンベルガー,304-308頁。 |
| 1973年11月24日、シュトゥットガルトで行われたスペイン戦においてウーヴェ・ゼーラーの持つ西ドイツ代表通算最多出場記録(73試合)を更新(試合は2-1で西ドイツの勝利)。 |
| 1974年、3度目のワールドカップ出場となったワールドカップ・西ドイツ大会では地元開催の重圧からグループリーグ第3戦の東ドイツ戦を0-1で落すなど苦境に立たされた。 |
| この敗戦の後、チームを立て直すべくベッケンバウアーはリーダーシップを発揮しシェーン監督との二頭体制でチームの修正を図る |
| 調子の上がらないネッツァーに代わってヴォルフガング・オフェラートを中盤の核とすることや、ベルント・ヘルツェンバインやライナー・ボンホフの起用を進言するなどリヒテンベルガー,316-318頁、チームの再編成に着手した。 |
| そして2次リーグを3戦全勝で突破し決勝進出に導くと決勝戦ではヨハン・クライフの率いるオランダを2-1で下し、1954年大会以来となる2度目のワールドカップ制覇を成し遂げた。 |
| 1976年、UEFA欧州選手権1976では予選ラウンドを突破し、ユーゴスラビアで開催された本大会に出場。 |
| 地元のユーゴスラビアを退け2大会連続の決勝進出に導くが、決勝戦ではダークホースのチェコスロバキアにPK戦の末に敗れ準優勝に終わった。 |
| この試合で西ドイツ代表選手として初の100試合出場を達成したベッケンバウアーは、1977年2月23日のフランス戦(試合は0-1で西ドイツの敗戦)で代表から退くまで国際Aマッチ103試合に出場し14得点を記録し、50試合でキャプテンを務めた。 |
| 1978年大会は所属するニューヨーク・コスモス側の「ワールドカップ期間中のみの参加を認める」意見と「直前のテストマッチや合宿への参加」を要請するドイツサッカー連盟との意見は真っ向から対立し、再度両者間で交渉を試みるも決裂したため参加を断念。 |
監督
| 1984年7月14日、西ドイツ代表監督に就任。 |
| 同年6月に行われたUEFA欧州選手権1984ではグループリーグ敗退した責任を取り、監督のユップ・デアヴァルが辞任した事を受けてのものだった。 |
| 同年9月12日、デュッセルドルフで行われたアルゼンチンとの親善試合が監督として初采配となったが、この試合を1-2で落す。 |
| 1986年、ワールドカップ・メキシコ大会前の下馬評は低く、エースのカール=ハインツ・ルンメニゲは負傷を抱え、メディアでは代表合宿での選手間の対立が盛んに報じられた。 |
| かつての同僚であるパウル・ブライトナーからは「ベッケンバウアーは茨の道を進もうとしている」と辛らつな評価をされていたベッケンバウアー,2006.159頁が、ベッケンバウアーは芸術家タイプの選手を廃し労働者タイプの選手を多く重用ベッケンバウアー,2006.158頁したことが功を奏し準優勝に導いた。 |
| 中盤のローター・マテウス、左ウイングバックのアンドレアス・ブレーメらの中堅を軸にユルゲン・クリンスマン、トーマス・ヘスラー、ユルゲン・コーラーらが新たに加わった代表チームを率いて地元開催となった1988年のUEFA欧州選手権1988ではベスト4。 |
| 1990年6月のワールドカップ・イタリア大会では前回大会の決勝で敗れたアルゼンチンを退け3度目の優勝に導き、選手と監督してワールドカップ制覇を経験することになった。 |
| 同年8月、フランスのオリンピック・マルセイユのスポーツディレクターに就任したストライカー編集部「ベッケンバウアー(前西ドイツ代表監督)マルセイユの監督に就任!」『学研ストライカー』1990年12月号.46頁。 |
| これはベッケンバウアー自身がアディダスとの長いつながりがあったことと、マルセイユの会長を当時務めていたベルナール・タピがアディダスの経営権を握っていた縁によるものだった。 |
| 当初、ベッケンバウアーはタピの「マルセイユを世界一のクラブにする」計画に興味を持ち、西ドイツ代表時代にコーチを務めたホルガー・オジェックと共にチームに参加したが、就任から2週間後に監督のジェラール・ジリが辞任したことを受けて1990-91シーズン途中の同年9月に監督に就任した。 |
その後
| 一方で1993年12月28日から翌1994年6月30日までエーリッヒ・リベックの後任としてバイエルンの代理監督を務め、1993-94シーズンのブンデスリーガ優勝。 |
| 1996年4月29日から6月30日までオットー・レーハーゲルの後任としてバイエルンの代理監督を務めUEFAカップ優勝に導いた。 |
| 2000年にワールドカップ・ドイツ大会組織委員会委員長に就任すると、2006年の本大会開催を成功に収めた。 |
| FIFA会長選挙については現職のジョセフ・ブラッターが適任であるとして早々に噂を否定したが、UEFA会長選挙については現職のレナート・ヨハンソンが再選を狙わないことを条件に関心があることを示唆した |
プレースタイル
| いわば「攻撃に参加するスイーパー」であるこのポジションは、「ディフェンダーは守備の専門」という従来の概念を覆すことになった。 |
| イタリアのカテナチオにおけるスイーパーの役割がDFラインから一列下がり相手の攻撃の芽を摘み取る役割に徹していたのに対し、リベロ・システムは、そのDFライン後方の深い位置から効果的なパスを繰り出すなど攻撃の起点となり、また機を見て前線に攻め上がり得点機に絡んだ。 |
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1945年
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フランツ・アントン・ベッケンバウアー(Fran... |
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8歳の時にSCミュンヘン1906の下部組織に入団... |
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フランツ・ベッケンバウアーさんについてのひとこと紹介
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