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プロフィール
- フリードリヒ・シェリングとは
- 年譜
- 時期区分
- 最初期
- 自然哲学期
- 同一哲学期
- 同一期への移行:有限性の導出根拠をめぐって
- 中・後期(1809年 - )
- 刊行状況
- 関連サイト
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・(フォン・)シェリング(,1775年1月27日、レオンベルク、ドイツ-1854年8月20日、バート・ラガーツ、スイス)はドイツの哲学者である。ドイツ観念論の代表的な思想家のひとり。
年譜
| 1775年1月27日、プロイセン王国、レオンベルクで誕生。 |
| シェリングの父はルーテル教会の神学者・東洋学者・教育者であり、シュヴァーベン敬虔主義の支持者だった。 |
| シェリングは家庭の知的また宗教的雰囲気に強く影響されて育ち、早熟な天才ぶりをみせる。 |
| ベーベンハウゼンのドイツ語学校およびニュルティンゲンのラテン語学校で学んだシェリングは、10代前半でギリシア語・ラテン語・ヘブライ語に通じた。 |
| 1790年、テュービンゲン神学校(テュービンゲン大学の付属機関)に特例により15歳で入学を許された(規定では20歳から入学)。 |
| 同神学校には2年前、彼より5歳年上のゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル、フリードリヒ・ヘルダーリンが入学しており、シェリングは寮で二人と同室になった。 |
| 彼らは、フランス革命に熱狂し、イマヌエル・カントに代表される新しい時代の哲学に関心を示し、進歩と自由を渇望し、そして牧師にはならず、思想あるいは文学の道へ進んでいく。 |
| そしてこの時期のシェリングが特に傾倒したのは、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテであり、またスピノザであった。 |
| 卒業後、家庭教師をしながら哲学著述を続けていた。 |
| 1792年、『悪の起源について』著述。 |
| 1793年、『神話について』著述。 |
| 1794年、『ティマイオス草稿』執筆、雑誌に『哲学の諸形式』投稿掲載。 |
| 1795年、雑誌に「自我について」投稿掲載。 |
| 1796年、ライプツィヒ大学で自然学の講義を聴講を始める。 |
| 1797年、『イデーン』など自然哲学の著述を始める。 |
| 1798年、イェーナ大学の助教授に就任する。 |
| 『世界霊について』(1798年)がヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテに認められたことが招聘のきっかけとなった。 |
| 1799年、フィヒテがイェーナ大学を辞職し、シェリングは哲学の正教授となった。 |
| 1800年、『超越論的観念論の体系』著述。 |
| ヘーゲルをイェーナ大学の私講師として推挙。 |
| 1802年、『ブルーノ(対話篇)』著述。 |
| アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・シュレーゲルの妻であるカロリーネとの恋愛事件およびイェーナでの保守派との対立した。 |
| 1803年、シュレーゲルと協議離婚したカロリーネを伴い、シェリングはイェーナを退去した。 |
| ヴュルツブルクで結婚した。 |
| 1804年、『哲学と宗教』著述。 |
| 1806年ミュンヘンに移住する。 |
| シェリングはバイエルン科学アカデミー総裁に就任した。 |
| 1809年、妻カロリーネが療養先のマウルブロンで死去。 |
| このとき、シェリングはミュンヘンで『人間的自由の本質』を執筆中だった。 |
| 『世界諸世代』著述。 |
| 1812年、対話篇『クラーラ』執筆。 |
| 1813年、ゲーテの紹介でパウリーネ・ゴッターと再婚する。 |
| 1820年、エアランゲン大学哲学教授。 |
| 1827年、ミュンヘン大学創立に伴い、哲学教授に就任、この時期、シェリングはバイエルン王太子マクシミリアンの家庭教師を務め、国政にも参画した。 |
| のちにその功績をもって貴族に叙された。 |
| 1841年、ベルリン大学哲学教授。 |
| 1845年、同教授職を辞任した。 |
| ベルリン大学より引退した後、シェリングは以後公開の講義を行わなくなった。 |
| 1854年8月20日、療養に出かけたスイスのバート・ラガーツで病を悪化させ、家族に見守られて生涯を終えた。 |
時期区分
| シェリング思想の時期区分には諸説あるが、『人間的自由の本質』(1809年、以下『自由論』と略す)以降を中期または後期思想とみなし、それまでの時期を前期思想と呼ぶのが一般的である。 |
| 前期思想は、さらに自然哲学期(1897年から1800年頃まで)と同一哲学期(1800年頃から1809年まで)に細分されることが多い。 |
| 中期思想という区分を立てる場合には、『自由論』『世界諸世代』(1813年)の時期を中期、『神話の哲学』『啓示の哲学』を後期とする。 |
| また論者によっては『自由論』を独立した時期とみなすものもある。 |
| 後年、1830年代のシェリング自身は自分の前期哲学を消極哲学、後期哲学を積極哲学と呼び、ヘーゲルら他の哲学者は消極哲学にのみ携わっているとみなしている。 |
| 彼によれば消極哲学は"dasWas"あるものがなんであるか にのみかかわっており、"dasDass"あるとはどのような事態であるかについて答えていない。 |
| そして彼の後期の営みこそ、後者の問いに答える哲学であるとしている。 |
| シェリングは、終始一貫した特長をもった思想家だったのか、それとも「プロテウス・シェリング」(クーノー・フィッシャー)、一貫した核をもたず変転する思想家だったのかは、哲学史上シェリングが注目されるようになって、絶えず問題とされてきた。 |
| 19世紀後半から20世紀前半における、新カント主義ならびに新ヘーゲル主義の哲学史観においてはその変転が強調されることが多かった。 |
| 一方、1956年以降のシェリング研究は、むしろ彼の思想の核に一定の関心と問題意識があり、その動径に彼の思想の全展開を考える傾向を示している。 |
| 後者の主張によれば、シェリングの思想は古代的なものへの関心と理性的なものへの志向、そして両者の緊張と差異が高次の同一性に支えられているという確信によって特徴付けられている。 |
最初期
| 前期シェリングに大きな影響を及ぼした思想家として、プラトン、カント、フィヒテ、スピノザ、ライプニッツが挙げられる。 |
| カントの影響については議論があり、フィヒテを介した影響をより重視する論者と、カントからの直接の影響をより重視する論者がに分かれる。 |
| ルター派正統神学の牙城であったテュービンゲン神学校で、シェリングは、友人ヘルダーリンやヘーゲルとともに、むしろ政治および思想上の進歩的動向に共感し、神学からは遠ざかり哲学へと転向する。 |
| 神学校の監視の下で、当時進行中だったフランス革命に、またカントやフィヒテといった新しい哲学の動向に彼らは刺激され、時にはその言動について学校側から指導を受けることすらあった。 |
| 神学校在学中のシェリングの著作、マギステル論文『悪の起源について』(1792年)、『神話について』(1793年)にも彼の非正統派的志向が表れている。 |
| 神学校卒業後、シェリングは立て続けに著作を刊行し、注目を集める。 |
| この時期シェリングはヨハン・ゴットリープ・フィヒテの知識学を知り、フィヒテの紹介者として文壇に登場した。 |
| 1794年以降、雑誌に『哲学の諸形式』(1794年)、『自我について』(1795年)、『哲学的書簡』などの論文を発表するシェリングは、フィヒテからも公衆からも、フィヒテの忠実な紹介者、支持者と思われていた。 |
自然哲学期
| しかしすでにこのころから、シェリングはバールーフ・デ・スピノザやゴットフリート・ライプニッツにも関心を示し、フィヒテとは独自の路線を歩みだしつつあった。 |
| 「ぼくはスピノザ主義者になった」と宣言するヘーゲル宛書簡はよく知られている。 |
| また早くから親しんでいた古代哲学、とりわけプラトンの自然観も、シェリングの思想の展開に大きく寄与したことが、『ティマイオス草稿』(1794年)などから伺える(一方フィヒテは、生涯を通じて、哲学の対象としての自然に関心をもたなかった)。 |
| 1796年から1798年、シェリングはライプツィヒに滞在し、同大学の講義を聴講し、当時はまだ「自然学」「自然哲学」などと呼ばれていた当時の自然科学に接した。 |
| 生物学や化学、物理学について当時最新の知見を得た経験に刺激されたシェリングは、1797年以降、『イデーン』をはじめとして自然の形而上学的根拠付けについての著作を精力的に発表する。 |
| ここでシェリングの自然哲学の中心概念となるのが有機体である。 |
| 当時急速に増しつつあった生化学上の知見は、デカルト以来の機械論的自然観に対抗する有機体的自然の観念に注目を集めていた。 |
| シェリングは有機体を自然の最高の形態とみなし、それをモデルとして、力学等を含めた自然の全現象を動的な過程として把握する図式を提起しようとした。 |
| ここでシェリングの有機体理解に大きく寄与したと思われるのはライプニッツで、『イデーン』(1797年)には『単子論』への言及が多くなされている。 |
| また神学校卒業後、離れ離れになった仲間とシェリングは、相互に思想的影響を及ぼしあっていた。 |
| 彼らは文通を交わし、お互いの仕事の進展や新しい着想を伝え合った。 |
| そのような思想的交流のひとつの産物として知られるのが、1795年から1796年のある時点にヘーゲルの手で筆記された執筆者不明の草稿、通称『ドイツ観念論の最古の体系計画』である。 |
| 著者問題についてはここでは論じないが、この草稿に出てくる概念のうち「新しい神話」はシェリングの大著『超越論的観念論の体系』(1800年でも登場し、また同一哲学期にはシェリング芸術哲学の基本的概念のひとつとなる。 |
同一哲学期
| 1801年、研究者によっては1800年に、シェリング哲学の新たな時期がはじまる。 |
| 無差別同一性を原理とし、絶対者の自己展開の叙述の学として遂行される哲学、いわゆる「同一哲学」である。 |
| ところで研究者によっては同一哲学の端緒に分類される『超越論的観念論の体系』は、フィヒテとシェリングの間に、重大な亀裂を生じせしめるに至った。 |
| もともとフィヒテはシェリングの自然哲学への関心を好意的には受け止めていなかったのであるが、いまやシェリングは自然哲学と超越論的哲学を併置する。 |
| そのようなシェリングに対し、自然を他我とみなし従って哲学の対象とは原理的にみなさないフィヒテは、シェリングにあてた書簡等でシェリングの哲学理解に危惧を表明した。 |
| 自著『私の哲学体系の叙述』(1801年)にフィヒテが加えた批判を契機に、シェリングのほうでも次第にフィヒテと自己との哲学的差異を自覚し、両者は完全に決裂する。 |
| フィヒテの転居を期にはじまったふたりの文通は1801年をもって止み、シェリングは対話篇『ブルーノ』(1802年)等の公刊著作で暗にフィヒテを批判した。 |
| すでに『超越論的観念論の体系』で、芸術は超越論的哲学の系列の終極に位置づけられ、「哲学の真のまた永遠の証書であり機関」と呼ばれている。 |
| 『ブルーノ』『学問論第14講』(1802/3年夏講義)『芸術の哲学』(1802/3年冬講義)では、この立場が、同一哲学の理論的前提の上で改めて展開されてくる。 |
| 観念的なものの系列において、主観的な学、客観的な行為に対し、芸術は観念的なものの絶対的なポテンツとして、「芸術の宇宙において全を展示する」。 |
| このような芸術は、実在的な自然に対しては観念的な自然の像として優越性を保ちつつ併置され、また絶対的な哲学に対しては対像としてその完成の姿に予示を与える、いわば人間の最高の精神的所産かつ生産活動として理解される。 |
| そのような最高度の芸術は、ただ自然の十分な把握からのみ可能であるとシェリングは考え、古代人がもっていたそして近代人にとっては失われている神話に換わるものとして(シェリングはここで神話の理想的な姿をギリシア神話のうちに見出す)、まだ生み出されていない「新しい神話」を要請する。 |
| ここでの新しい神話の内実には諸説があるが、山口和子は、教訓詩としての自然哲学にその可能性をみており、またシェリングが自身そのような自然哲学を完成させる意欲をもっていたとしている(山口和子『未完の神話』晃洋書房)。 |
同一期への移行:有限性の導出根拠をめぐって
| 1800年はまた、ヘーゲルの著書『フィヒテ哲学とシェリング哲学の差異』が刊行された年でもあった。 |
| エッシェンマイヤーに「差別/有限性はどのようにして無差別から導出されるのか」と批判されたシェリングは、その問いに答える必要を感じ、『哲学と宗教』(1804年)を著した。 |
| そこでは彼の古い関心、「悪の起源の問題」が再び取り上げられており、有限性の生起は本来同一であるものの頽落(Abfall)によるとされたなお、この著作自体の構想は1802年にはすでにあり、本来は『ブルーノ』の第2部として構想されていた。 |
| 研究者によってはここで批判されているのは、シェリングではなくその追随者であるシェリング主義者であるとする(ヘーゲルも同様の釈明をシェリングあて書簡で行っている)が、「ピストルからずどんと飛び出す直観」「すべての牛を黒く塗りつぶす闇夜」などの表現がシェリングとその直観概念に結びつけられており、シェリングはこれを非常に心外に感じた。 |
中・後期(1809年 - )
| 1809年に出版された『人間的自由の本質』は、シェリングの思想の大きな転換点とみなされている。 |
| シェリングによれば、人間は悪を行う自由をもっている、それが人間的自由の本質であり、もって人間をすべての存在者の頂点においている。 |
| 自らを隠し閉ざそうとする神のうちの自然は、自らを現そうとする神自身にとっての「根底」(Grund)であって、生まれ出ようとする憧憬と隠れようとする力との二つの方向性が神のうちに相争う。 |
| 『自由論』は、シェリングがエーティンガーおよびカトリック神学者フランツ・フォン・バーダーを介して知ったヤーコプ・ベーメの思想に大きく影響されているといわれる。 |
| 『世界諸世代』は世界の歴史をその原理である神の歴史として「神になる前の神」である「プリウス」(Prius)から説き起こす試みであり、過去・現在・未来の三部構成からなる予定であったが、実際に書かれたのは過去篇だけであった。 |
刊行状況
| 日本語訳は1920年代から、個別に著作が翻訳されており、同一期から自由論まで大半の著作が訳され、特に岩波文庫での西谷啓治訳『人間的自由の本質』、勝田守一訳『学問論』は重版している。 |
| 他に、『フィヒテ‐シェリング往復書簡』(叢書ウニベルシタス・法政大学出版局、ワルター・シュルツ解説/座小田豊・後藤嘉也訳、1990年)と、『世界の名著フィヒテ.シェリング』(岩崎武雄編集解説、中央公論社、茅野良男訳「ブルーノ」、渡辺二郎訳「人間的自由の本質」、岩崎武雄訳「哲学的経験論の叙述」を所収)がある。 |
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1775年
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プロイセン王国、レオンベルクで誕生。シェリ... |
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1790年
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テュービンゲン神学校(テュービンゲン大学の... |
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