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つながりの強いひと
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プロフィール
- フリードリヒ・パウルスとは
- 生い立ち
- 第二次世界大戦
- スターリングラード
- 捕虜、戦後
- 外部リンク
- 関連サイト
フリードリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト・パウルス(FriedrichWilhelmErnstPaulus,1890年9月23日-1957年2月1日)は、第二次世界大戦の頃のドイツの軍人、陸軍元帥。スターリングラードに包囲され、ソ連軍の捕虜になった。
生い立ち
| 1890年、ドイツのヘッセン州ブライテナウの下級役人の家に生まれた。 |
| 最初海軍将校を目指したが断られたため、1909年にマールブルク大学で法学を学び始める。 |
| しかし半年で退学し軍に志願、士官候補生としてラシュタットの歩兵連隊に配属される。 |
| 1912年、士官学校同期のきわめて古い家柄のルーマニア貴族の妹と結婚する。 |
| パウルス夫妻は三児をもうけた。 |
| ドイツの将軍や将校は貴族階級の出身者が多く、貴族階級を示す「von」を持っていたが、彼はそうではなかった。 |
| 勤勉さを賞され1913年に大隊長副官に任命される。 |
| 第一次世界大戦では当初西部戦線に従軍、しかし赤痢のため翌1915年まで入院していた。 |
| その後イタリア戦線、バルカン半島で従軍、さらに再び西部戦線に戻ってヴェルダンの戦いに従軍。 |
| その後再びルーマニア戦線に移動し、1917年にはイタリアでイゾンツォの戦いに従軍、1918年の終戦時には西部戦線のフランドルに居り、階級も大尉にまで昇進していた。 |
| この大戦中の病気のため、彼は生涯病弱気味であった。 |
| また第一級鉄十字章を受章し精鋭部隊に属していたことから、エリート意識が強くなった。 |
| 終戦後義勇軍に属し、ドイツ東部でポーランドとの国境紛争に従軍。 |
| しかしそこでは人事担当で前線には出なかった。 |
| 翌年ヴァイマル共和国の軍に採用される。 |
| 翌年の右翼蜂起であるカップ一揆に同調したが、出世に影響はなかった。 |
| 1924年に第13連隊で中隊長を務め、初めて部隊指揮官となる。 |
| 当時の中隊長の同僚に機関銃中隊長エルヴィン・ロンメルがいた。 |
| 1931年まで師団の戦術教官を務め、その能力が注目されるようになる。 |
| 同年ベルリンの陸軍大学に異動し戦術教官となる。 |
| そこでナチスの政権獲得を経験するが、彼がどういう姿勢だったかはよく分かっていない。 |
| ただ貴族出身の妻はナチスを嫌っていた。 |
| 1934年、第3自動車中隊長に補される。 |
| 1935年、ドイツは再軍備を宣言、ドイツ国防軍の強化に乗り出す。 |
| これにはパウルスも賛成していた。 |
| 同年大佐に昇進、自動車化部隊の参謀長となる。 |
| 1939年はじめに少将に昇進し、エーリヒ・ヘプナーの第16軍団の参謀長に就任。 |
第二次世界大戦
| 第二次世界大戦が始まった1939年9月、第10軍の参謀長となり、ポーランド侵攻やフランス侵攻でヴァルター・フォン・ライヒェナウ上級大将の右腕として優れた働きを見せた。 |
| 1940年9月、陸軍総司令部参謀本部兵站部長に就任、フランツ・ハルダー参謀長、ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ陸軍総司令官に次いでナンバー3となった。 |
| パウルスは、自身は貴族ではない出自ながらも優れた才能と洗練された礼儀作法(「殿下」とあだ名つけられていた)をもっている点がヒトラーの共感を得ることになり、軍隊で昇進し得た理由の一つとなった。 |
| 1941年4月、ロンメル率いるドイツ・アフリカ軍団を督戦のため北アフリカおよびイタリアに出張。 |
| その後、ソビエト連邦へ侵攻するバルバロッサ作戦の立案に参画。 |
| その作戦が実行に移され独ソ戦が始まった直後の8月、ウクライナの前線にライヒェナウ元帥を訪ねたが、そこで再び赤痢に罹っている。 |
| 1942年1月装甲兵大将に昇進。 |
| それと同時に、以前より誼のあったライヒェナウ元帥が急死、その推薦によりライヒェナウが指揮していた第6軍(第10軍を改組)の司令官に任命された。 |
| 師団長も軍団長も経験したことのないパウルスの任命には異論もあった。 |
| 前任者のライヒェナウが陣頭指揮のタイプだったのに対し、パウルスの指揮は「デスクワーク」と評された。 |
| 就任して最初の命令は、ライヒェナウが下したソ連軍政治委員の即決処刑命令の撤回だったが、部下に無視された。 |
スターリングラード
| 就任後の第二次ハリコフ攻防戦ではソ連兵24万人を捕虜とする戦功をあげ、批判者を沈黙させた。 |
| ついで1942年夏、ブラウ作戦が発動され、第6軍はスターリングラードを包囲した。 |
| ヒトラーは戦略的にはあまり重要ではないこの都市の占領に固執し、本格的な攻略を命令した。 |
| ソ連軍の抵抗は予想以上に激しく、不慣れな市街戦に一進一退の攻防が繰り広げられた。 |
| 第6軍は、1942年冬には逆にスターリングラードで孤立させられてしまった。 |
| この時点におけるパウルスの判断は、スターリングラードから軍を脱出させるというものであったが、「どんな状況に陥ってもスターリングラードを死守しろ」というヒトラーの命令に従い続けた。 |
| ゲーリングは孤立した第6軍を空軍による物資の空輸で支援すると約束するが不十分な中、1942年12月彼らを救出するための「冬の嵐」作戦が始まった。 |
| エーリッヒ・フォン・マンシュタイン配下のドン軍集団による第6軍救出の試みは、それに呼応して包囲を突破するというパウルスの提案がヒトラーに却下されたこともあり、失敗した。 |
| 1943年1月、上級大将に昇進。 |
| ジューコフ将軍率いる赤軍の大攻勢を受けて降伏に傾くパウルスに対して、ヒトラーは2月に救出作戦を行うと回答。 |
| しかし飛行場が次々に奪われ、絶望した部下の指揮官には自殺する者が相次ぎ、そこまで持ちこたえられるはずがなかった。 |
| 1月30日ヒトラーはパウルスを元帥に昇進させた。 |
| かつてドイツ軍の元帥で降伏した者は一人もおらず、その意味することは、スターリングラードを死守し、玉砕することであった。 |
| しかしながら、パウルスはヒトラーが暗に示したような最期を遂げることを拒み、1月31日残存将兵9万人とともにソ連軍に降伏した。 |
| ヒトラーは自分の命令なしに勝手に降伏したパウルスの行為を裏切りと感じ、激怒したという。 |
捕虜、戦後
| パウルスは、ソ連の捕虜となった後はヴィルヘルム・ピーク(のちの東ドイツ初代大統領)の説得を受け、ナチスに対する強い批判者となって、ドイツ共産党の指導する自由ドイツ国民委員会(de)やドイツ将校同盟(de)に名を連ねた。 |
| 彼はスターリンにソ連に居るドイツ人捕虜からなる「ドイツ解放軍」結成を申し出たが、反応はなかった。 |
| 捕虜収容所にいるかつての部下たちの中にはこの翻身を忌み嫌う者も多かった。 |
| ドイツが捕虜としていたスターリンの長男(ヤーコフ・ジュガシヴィリ)と捕虜交換する案がドイツから提示されたが、ソ連が拒否したため実現しなかった。 |
| ドイツにいた彼の妻子は1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件後に逮捕され、ダッハウ強制収容所に送られた。 |
| ニュルンベルク裁判ではナチス・ドイツの戦争犯罪を告発する検察側の証人として出廷した。 |
| その際収容所で重病になった妻に会う機会もなく、彼女は1949年に死去した。 |
| 1953年、東ドイツの指導者ヴァルター・ウルブリヒトとの会見ののち抑留から解放され、東ドイツに移住した。 |
| 子供たちは西ドイツにおり、会うこともなかった。 |
| ドレスデンに豪邸を与えられ、人民警察で戦史研究室参与の職にあったが、住宅はシュタージにより監視されており、かつての部下や戦友で近寄る者もなく、むしろソ連軍に友人がいた。 |
| 東西ドイツの再軍備反対運動などに参加していたが、筋萎縮性側索硬化症を患い、スターリングラードの戦史研究も半ばにして、1957年に死去した。 |
| 軍隊礼を以て埋葬された。 |
| ヒトラーへの追従により脱出の決断を下せず、兵士たちを救わなかったこと、また多くの兵士が戦死したにもかかわらず自らは捕虜となって自決しなかったこと(同じく敵に包囲されつつも、配下の兵士を武装解除させて投降させ、自決したヴァルター・モーデルと比較されて批判されている)、その後反ナチスへ転換したことなどから、現在でも彼に対する歴史的評価は分かれている。 |
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1890年
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ドイツのヘッセン州ブライテナウの下級役人の... |
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1912年
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士官学校同期のきわめて古い家柄のルーマニア... |
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