| 1787年7月、シラーは若き領主カール・アウグスト公が治めるヴァイマル公国へ赴き、ヴィーラントとヘルダーに出会う。 |
| 折りしも、ゲーテはイタリア旅行中で留守であった。 |
| またこの年、ようやく戯曲『ドン・カルロス』が出版され、上演される。 |
| この頃シラーは『ヴァレンシュタイン三部作(Wallenstein-Trilogie)』執筆のために三十年戦争を研究し、それによって歴史家としての名声を獲得した。 |
| そして1788年、ルードルシュタットにてイタリア旅行から帰還後間もないゲーテと初めて面会する。 |
| しかし、お互いに対して好印象を抱くことのないままに面会はおわる。 |
| イタリア旅行を経て古典主義へと方向を転換しつつあったゲーテにとって、シラーは自分の克服してきた時代(シュトゥルム・ウント・ドラング)にいまだしがみついている青い三流詩人として映った。 |
| またシラーの目には、当時のゲーテは非社交的で横柄な官僚的人物として映ったのである。 |
| それでも双方は互いの才能を否定しあったのではなく、その証拠にシラーは1789年、ゲーテの推挙により、イェーナ(Jena)大学の歴史学教授として招聘される。 |
| シラーの歴史講義の初日(講演の題目は“WasheißtundzuwelchemEndestudiertmanUniversalgeschichte?”)には、当初用意されていた講義室に到底入りきらないほどたくさんの学生が押し寄せた。 |
| そのため急遽、学生ともども大講義室に移動することになり、その日は街をあげての大騒動になったという。 |
| 経済的に困窮していた当時のシラーの希望とは裏腹に、これは俸給なしの仕事であった(当時は講義を聴いた学生から講演費を徴収するというシステムであった)。 |
| また、シラーは本来は歴史学ではなく哲学教授の資格を持っていた。 |
| 前年に執筆した『オランダ独立戦争史(DieGeschichtedesAbfallsderVereinigtenNiederlande)』の成果を買われてのことである。 |
| この年シラーは、謎に満ちた小説『見霊者(derGeisterseher)』を発表する(この作品の巻末には「第一部終わり」と記されているが、その後「第二部」が書かれることはなかった)。 |
| また、同年フンボルト兄弟(ヴィルヘルム・フォン・フンボルト、アレクサンダー・フォン・フンボルト)と懇意になる。 |
| 1790年、シラーはルードルシュタットに旅行した際に知り合ったレンゲフェルト家の次女・シャルロッテ(CharlottevonLengefeld,1766-1826)と結婚する。 |
| 家庭的な幸福を手に入れたシラーであったが、この翌年、病のために床に臥す。 |
| 12月にはシンメルマン公爵らから金銭支援を申し出られ、5年間にわたり毎年1,000ターラーを受けることになる。 |
| 1791年から集中的にカント哲学を研究し、以後それらを発展させて独自の哲学をはぐくむに至る。 |
| カントの『純粋理性批判』(KritikderreinenVernunft,1781)、『実践理性批判』(KritikderpraktischenVernunft,1788)、『判断力批判』(KritikderUrteilskraft,1790)に影響を受けたシラーは、自身の作品にその理論を反映させるとともに、美・道徳的人間などの項目において、さらにカント美学を発展させ、『カリアス書簡』(KaliasoderÜberdieSchönheit,1793)、『素朴文学と情感文学』(ÜbernaiveundsentimentalischeDichtungen,1795)、『人間の美的教育について』(ÜberdieästhetischeErziehungdesMenschen,1795)などを著した。 |
| これらの著作はヘーゲル、フィヒテらの美学哲学をはじめ、同時代の詩人フリードリヒ・ヘルダーリンやシュレーゲル兄弟ら率いるドイツロマン派文学に多大な影響を与えた。 |
| 1792年、シラーはクロップシュトック、ペスタロッチなどと共に、フランス革命名誉市民に選ばれる。 |
| 処女作『群盗』がもたらした「反抗」の精神を高く評価されてのことであった。 |
| 1793年には長男のカール(KarlFriedrichLudwigSchiller)が生まれる。 |
| また翌年、シラーは出版者であるコッタと知り合い、シラー主宰の『ホーレン』、『詩神年鑑』をコッタ出版から出すことを取り決める。 |