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チャガタイ
モンゴル帝国の皇族の一人で、チンギス・ハーンの次男。ジョチの弟、オゴデイとトルイの兄に当たる。漢語表記では察合台など。ペルシア語表記ではچغتاىخانCha... |
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ティムール
中央アジアのモンゴル=テュルク系軍事指導者で、ティムール朝の建設者(在位1370年4月9日-1405年2月18日)。ペルシア語による綴りにより忠実にティームール... |
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バトゥ
ジョチ家の第2代当主(ハン:在位1225年-1256年)で、キプチャック・ハン国(ジョチ・ウルス)の実質的な創設者。チンギス・ハーンの長男・ジョチの次男であ... |
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クビライ
モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。在位は1260年5月5日-1294年2月18日。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文... |
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チンギス・カン
モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年-1227年)。大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国北部・中央アジ... |
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アリクブケ
没落したオゴデイ家から独力で大勢力を構築したハイドゥや、その傘下で同盟を組むチャガタイ家を味方につけたアリクブケが当初は優位であったが、旧金朝治下... |
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モンケ
モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン、大ハーン)(在位1251年7月1日-1259年8月11日)。漢字表記は蒙哥、蒙哥皇帝で、ペルシア語表記ではمنگوقاآنmankūqā'ānまた... |
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アバカ
イルハン朝の第2代ハン(1265年-1282年)。ペルシア語ではآباقاخانĀbāqākhānと表記される。父は初代ハーンのフレグ・ハン、母はフレグの第5位の妃でスルドゥ... |
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トルイ
父
チンギス・カンの四男。中国語表記は<spanlang="ch">&25302;雷で、ペルシア語表記ではتولىخانtūluykhānまたはتولوىخانtūlūykhān、モンゴル語ではТулуй,Tului... |
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オゴデイ
哈罕皇帝/合罕皇帝(カアン皇帝)とも書かれる(後述)。モンゴル帝国時代のウイグル文字モンゴル語文や前近代の古典モンゴル語文では'WYK'D'YQ'Q'N/ÖgedeiQa... |
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カイドゥ
13世紀の後半に中央アジアに独立王国を建設したモンゴル皇族。チンギス・ハーンの三男オゴデイの五男カシの子。『集史』などのペルシア語資料ではقايدوQāydū... |
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アルグン
イルハン朝の第4代君主(ハン、在位1284年8月11日-1291年3月10日)。第2代君主・アバカの長男。アバカの側室の1人カイミシュ・ハトゥン(エゲチ)との息子。... |
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モンケ・テムル
ジョチ・ウルスの第6代宗主(ハン)である。(在位:1267年-1280年?) バトゥ(チンギス・ハーンの長男・ジョチの次男)の次男トクカンの次男であり、バト... |
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杉山正明
日本の歴史学者。京都大学文学研究科教授。専攻はモンゴル史、中央ユーラシア史。静岡県沼津市出身。 |
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ダマスカス
古くから割込庖丁をはじめ異種金属の鍛練による素材の独自の研究を行っており、ダマスカス鋼と割込材の良さを融合したニッケルダマスカス鋼、および霞流し鋼(... |
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オルジェイトゥ
イルハン朝の第8代君主(在位1304年-1316年)。第4代君主・アルグンの第3子で、第7代君主・ガザン・ハンの弟に当たり、兄の目指したイラン・イスラーム的なモ... |
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舩田善之
氏名 : 舩田善之(ふなだ よしゆき) ※「船」ではなく「舩」ですが,船田善之でも構いません。 現職 : 講師 学位: 博士(文学)(早稲田大学) 所... |
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バイドゥ
イルハン朝の第6代君主(在位1295年)。初代君主フレグの五男タラガイの子。『集史』その他のペルシア語資料では単にبايدوBāydū、バイドゥ・ハンبايدوخانBāyd... |
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ルイ9世
フランス王国カペー朝第9代の国王でルイ8世とカスティーリャ王アルフォンソ8世の娘ブランシュの子。死後、カトリック教会より列聖されSaintが称され、ここか... |
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ジョチ・ウルス
13世紀から18世紀にかけて、黒海北岸のドナウ川、クリミア半島方面から中央アジアのカザフ草原、バルハシ湖、アルタイ山脈に至る広大なステップ地帯を舞台に... |
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プロフィール
- フレグとは
- 生涯
- 宗室
- 父母
- 后妃
- 側室
- 男子
- 女子
- 外部リンク
- 関連サイト
フレグ(Hülegü,Hülägü、旭烈兀、1218年-1265年)とは、イルハン朝(フレグ・ウルス)の 創始者である(在位1260年-1265年)。ペルシア語ではHūlākūkhānと表記される。 アバカの父。 チンギス・ハーンの子の トルイと、ケレイト族出身の正室ソルカクタニ・ベキの間の三男として生まれた。 モンケ、 クビライ、 アリクブケは同母兄弟であり、 チンギス・ハーンの孫にあたる。イル・ハンĪl-khānの尊称で呼ばれた。
生涯
| 幼少時代については不詳であるが、1219年に早くも河南地方の彰徳路に所領を有していたようで、『元史』によれば祖父チンギスより「打捕鷹房民戸七千余戸」を分与されていたと記録されている。 |
| 1253年、兄モンケ・カアンの勅命により西征軍総司令に任命され、イラン方面総督であったアルグン・アカ以下アムダリヤ川以西の帰順諸政権を掌握し、ニザール派、アッバース朝、シリア、アナトリア、エジプト諸国を征服すべく出征した(フレグの西征)。 |
| 1256年にはニザール派教主ルクヌッディーン・フルシャーが投降、本拠地アラムート城塞が陥落。 |
| 1258年にはバグダードを征服しアッバース朝カリフ・ムスタアスィムを捕縛・殺害して同王朝を滅亡させた。 |
| 1260年2月にはアレッポを攻略し、同年4月にはダマスクスを陥落さるなど、快進撃を続け次々と領土を広げる。 |
| 1259年に長兄モンケが没する。 |
| フレグの次兄・クビライと弟アリクブケが長兄モンケの後継をめぐって争いを始めた為、フレグはモンゴル帝国には帰還せずに中東地域(現在のイラン付近)に留まり、1260年秋にイルハン朝を建国した。 |
| この頃ジョチ・ウルスから派遣され西征軍に従軍していた諸将・王侯があいついで謀叛・急死したため、バトゥの跡を継いだジョチ家の当主ベルケはこれを不審視し、フレグとの間に深刻な対立を生じてしまった。 |
| 1264年に後継者争いに勝ったクビライが跡を継ぐと、フレグはクビライの大ハーン位を支持した。 |
| フレグは当時アーザルバーイジャーン地方の州都であったタブリーズを首都と定め、アルメニアのヴァン湖近辺のアラタグ、コルデスターン州のシヤーフクーフを夏営地に、現在のアゼルバイジャン共和国のクラ川低地地域であるアッラーン地方、バグダードなどを冬営地に選定している。 |
| また、アーザルバーイジャーン地方の古都であるマラーゲに大規模な天文台と複合施設を建造し、当時の大学者であったナースィルッディーン・トゥースィーに『イルハン天文表』を作成させている。 |
| 1265年2月8日にマラーゲ周辺のチャガトゥーの地で没し、ウルーミーエ湖湖畔のシャーフー山に設けられた大禁地に埋葬された。 |
| 同年4月にアバカが後継者として即位する。 |
宗室
| 『集史』「フレグ・ハン紀」によると、フレグには14人の息子と7人の娘が記録されている『集史』でのアラビア文字による人名表記は、Rawshan校訂本に依りつつ適宜修正した。 |
| (『五族譜(''Shu`ab-iPanjgāna'')』フレグ・ハン系図での人名表記には、『集史』での表記と若干異なっている場合がある)。 |
父母
| 母 ソルカクタニ・ベキ(ケレイト王家のオン・ハンの弟ジャガ・ガンボの娘)。 |
后妃
| ドクズ・ハトゥン دوكوزخاتونDūkūzKhātūn/توكوزخاتونTūkūzKhātūn:大ハトゥン(Khātūn-iBuzurg/YakaKhātūn)。 |
| ケレイト部族オン・ハンの息子イクايقوĪqūの娘。 |
| 彼女はキリスト教徒で、彼女のオルドの傍らにはキリスト教会が営まれ、定時には鐘が鳴らされていたという。 |
| 最初はトルイのハトゥン(妃)であったが、後にフレグに与えられたという。 |
| 『集史』や『五族譜』では、彼女は「フレグ・ハンの最上位のハトゥン(BuzurgtarīnKhKhātūn-iHūlākūKhān)」と呼ばれている。 |
| グユク・ハトゥン كويكخاتونKūyukKhātūn:オイラト部族首長家のトレルチ・キュレゲンとチンギス・ハンの第二皇女チチェゲンとの娘。 |
| クトイ・ハトゥン قوتوىخاتونQūtūyKhātūn:コンギラト部族首長家の子女。 |
| チンギス・ハンの娘の息子ムーサー・キュレゲンموسىكوركان、アバカ妃ミリタイ・ハトゥンの同母姉妹。 |
| チンギス・ハンの皇后ボルテの父デイ・セチェンの兄弟ダリタイの系統で、これら3人はダリタイの息子ブユル、テクデル、ジョムクルのうちいずれかの人物の子女たちであったと見られている。 |
| オルジェイ・ハトゥン اولجاىخاتونŪljāyKhātūn:グユク・ハトゥンの姉妹。 |
| 十一男モンケ・テムル、次女ジャムイ、三女メングルゲン、七女ババの生母。 |
| アバカ時代の大ハトゥン。 |
| イェスンジン・ハトゥン ييسونجينخاتونYīīsūnjīnKhātūn:スルドス部族出身。 |
| クトイ・ハトゥンとともにモンゴル本国からイランに移住したという。 |
側室
| ノカチン・エゲチنوقاچينايكاچیNūqāchīnĪkāchī:側室(قوماqūmā)。 |
| クトイ・ハトゥンのオルドに属していた。 |
| ボラクチンبورقچينBūraqchīn:側室。 |
| クトイ・ハトゥンのオルドに属していた。 |
| アリカン・エゲチاريقانايكاچیArīqānĪkāchī:側室。 |
| オイラト部族出身のテンギズ・キュレゲンتينككيزكوركانTīnkkīzKūrkānの娘。 |
| クトイ・ハトゥンのオルドに属していた。 |
| アジュジャ・エゲチاجوجهايكاچیAjūjaĪkāchī:側室。 |
| ドクズ・ハトゥンのオルドに属していた。 |
| イシジンييشيجينYīshījīn:側室。 |
| コルラウト部族のカラヤンギقراينكىQarāyankīの姉妹。 |
| クトイ・ハトゥンのオルドに属す。 |
| イル・エゲチايلايكاچیĪlĪkāchī:側室。 |
| ドクズ・ハトゥンのオルドに属す。 |
| メンリ・ゲチ・エゲチمنكلىكاچايكاچیManklīKāchĪkāchī。 |
| ※その他側室多数。 |
男子
| 長男 アバカ 母イェスンジン・ハトゥン。 |
| 次男 ジョムクルجومقورJūmqūr/جومقارJūmqār(『五族譜』):息子に''ジュシケブ''جوشكابJūshkābと''キンシュウ''كينكشوKīnkshūの兄弟がいる。 |
| 母グユク・ハトゥン。 |
| 三男 ヨシムトيوشموتYūshmūt/يوشوموتYūshūmūt(『五族譜』):母は側室のノカチン・エゲチ。 |
| 曾孫にイルハン朝最末期の君主スライマーン(在位1338年-?)がいる。 |
| 四男 テクシンتكشينTakshīn:『集史』フレグ・ハン紀によると、長い闘病の末に没したという。 |
| 同母兄のジョムクルの死後、その妃であったノルン・ハトゥンNūlūnKhātūnを引き継いだ。 |
| テクシンにはتوبونTūbūnないしتوبوتTūbūt『五族譜』。 |
| ウイグル文字表記でもtwbwdという息子がひとりおり、ノルン・ハトゥンとの間にエセンايسنĪsanという娘がいたという。 |
| 母クトイ・ハトゥン。 |
| 五男 タラガイطرقاىṬaraqāy:母はボラクチン。 |
| 『集史』フレグ・ハン紀、アバカ・ハン紀によると、イラン地方へ移住の途中、落雷を受けて死亡したという。 |
| カラクチンقراقچينQarāqchīnという名前の妃からバイドゥを儲けた。 |
| バイドゥの他にイシルاشيلIshīlという名の娘がいた。 |
| バイドゥの父。 |
| 六男 トブシンتوبسينTūbsīn:母はノカチン・エゲチ。 |
| ヨシムト、タラガイの同母弟。 |
| 七男 テグデル・アフマド 母クトイ・ハトゥン。 |
| 八男 アジャイاجاىAjāy:母はアリカン・エゲチ。 |
| 九男 コンクルタイقونقورتاىQūnqūrtāy:『五族譜』ではقونكيردایQūnkīrdāy。 |
| 異母兄テグデル・アフマドの即位の即位に貢献したが、即位後にテグデルと不和となり、処刑された。 |
| テグデルがアルグンとの抗争で没落した時、テグデルが殺されることとなった原因は、『集史』テグデル・アフマド紀によると、コンクルタイの死に対するコンクルタイ家の人々による報復であったという。 |
| 十男 イェスデルييسودارYīsūdār:母はイシジン。 |
| 十一男 モンケ・テムルمنككهتيمورMankkaTīmūr/مونكاتمورMūnkāTimūr(『五族譜』):玄孫にイルハン朝最末期の君主ムハンマド(在位1336-1337年)がいる。 |
| 母オルジェイ・ハトゥン。 |
| 十二男 フラチュهولاچوHūlāchū:母はイル・エゲチ。 |
| 側室:コンギラト部族出身。 |
| ドクズ・ハトゥンのオルドに属す。 |
| 十三男 シバウチشيباوچیShībāwuchī:母はイル・エゲチ。 |
| 十四男 タガイ・テムルطغایتيمورṬaghāyTīmūr:母の名前は『集史』フレグ・ハン紀では氏族名部分が空欄になっているため不詳だが、クトイ・ハトゥンのオルドに属す側室であったという。 |
女子
| 長女 ボルガン・アガبولوغانآغاBūlūghānĀghā:ジュルマ・キュレゲンタタル部族のジョチの息子。 |
| ゲイハトゥの生母でアバカの大ハトゥンであったノクダン・ハトゥンの兄弟へ降嫁。 |
| 母グユク・ハトゥン。 |
| 次女 ジャマイجمیJamay:ジュルマ・キュレゲンへ降嫁。 |
| 母オルジェイ・ハトゥン。 |
| 三女 メングルゲンمنكلوكانMankulūkān:オイラト部族のブカテムルの息子ジャキルキュレゲンへ降嫁。 |
| 四女 トゥドゥケチتودوكاچTūdūkāch:母は氏名不詳の側室。 |
| オイラト部族のティンギズ・キュレゲンへ降嫁。 |
| ティンギズの死後はその息子スラミシュ、テンギズの孫チチェグ・キュレゲンが降嫁を欲した。 |
| 五女 タラカイطرقاىṬaraqāy:母アリカン・エゲチ。 |
| ミリタイ・ハトゥンの兄弟でコンギラト部族のムーサー・キュレゲン(タガ・テムル)へ降嫁。 |
| 六女 クトルカقوتلوقانQūtulūqān:母は側室のメングリ・ゲチ・エゲチ。 |
| ドルバン部族のオルグト・ノヤンの息子イェスブカ・キュレゲンへ降嫁。 |
| 七女 バーバーباباBābā:彼女は、オイラト部族出身で最後のイラン総督アルグン・アカの息子リグジ・キュレゲンへ降嫁された。 |
外部リンク
| category:中央ユーラシア史。 |
| category:イスラム史の人物。 |
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1219年
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早くも河南地方の彰徳路に所領を有していたよ... |
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1253年
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兄モンケ・カアンの勅命により西征軍総司令に... |
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