| 生涯を通じて肺結核に悩まされた病弱の芸術家であり、残された肖像画などからも、赤みがかった頬等、その徴表が見られるが、そうした繊細なイメージとよくマッチした作風のものばかりでなく、そうした自らの中の閉塞感を打破しようとする想いや大国ロシア帝国に蹂躙される故国ポーランドへの想いからか、情熱的な作風の曲も多く見られる。 |
| 幼少の頃からいろいろな面で才能を発揮し、ユーモアにあふれ、ものまねと漫画を描くのが得意で学校ではクラスの人気者だったという。 |
| 後半生は大部分をフランスで過ごした。 |
| しかし望郷の思いは終生止むことがなく、死後心臓が遺言によりポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会に埋葬された。 |
| 故郷を支配する列強への反発心は若い頃から強く、「美しい花畑の中に大砲が隠されている音楽」(シューマン)と評されることもしばしばである。 |
| left|200px||thumb|ジョルジュ・サンドの肖像画(1835年)。 |
| また、女性との愛の遍歴も伝説を交えて語られることがあるが、特に女流作家ジョルジュ・サンドとの9年におよぶ交際の間には『24の前奏曲集』、『幻想曲』、『バラード第4番』、『英雄ポロネーズ』、『舟歌』、『幻想ポロネーズ』等数多くの傑作が生まれた。 |
| ピアノの技術革新の時代に生きたショパンは新しい演奏技術の開拓に果敢に挑み、自身の練習の意味も込めて『練習曲集』(『3つの新練習曲』を除く12曲)を2つ編んだ。 |
| 一方で古典の作曲家への敬意は強く(実際ショパンは自身がロマン派に属するという考えを否定した)、特にバッハとモーツァルトは彼の作品に影響を及ぼした。 |
| 例えば『24の前奏曲集』は5度循環で24の全長短調を経る小品集だが、これは明らかにバッハの『平均律クラヴィーア曲集・24の前奏曲とフーガ』を意識したものである。 |
| また心を落ち着けるためにバッハの平均律をしばしば好んで弾いた。 |
| 前奏曲作品28を作曲したマヨルカ島に持っていった印刷された楽譜は、バッハの平均律クラヴィーア曲集のみであったという。 |
| また彼自身は同時代の有名な作曲家にして評論家でもあったシューマンとは違い、批評活動は全く行わず、音楽作品と文筆作品(ことに詩)との融合にもあまり積極的ではなかったという。 |
| きちんとした写真がほとんど残されておらず、死の直前にルイ=オーギュスト・ビソンの手によって撮られた写真が有名である(もう一枚現存する |
| ショパンの病気は一般的には肺結核とされている。 |
| ショパンの解剖報告書、死亡診断書は失われたが、関係者の手紙で一部言及されており、それによれば、肺が侵されていたものの、死因までは特定できなかったと言う。 |
| この点や、ショパンの症状などから、ショパンの病気は他の疾患(たとえば遺伝子疾患の一種嚢胞性線維症など)ではないかとする説もある( |
| 『音楽と病病歴に見る大作曲家の姿』(ジョン・オシエー著、法政大学出版局、ISBN4-588-02178-8)でも、嚢胞性線維症が主張されている。 |
| File:PolandZelazowaWola.jpg|ショパンの生家。 |
| ポーランド、ワルシャワ郊外のジェラゾヴァ・ヴォラ村にある伯爵ウォンチニスキ家(Łączyński)のマナー・ハウス。 |
| ポーランド国立ショパン博物館分館。 |
| File:ChurchofSaintRochaandSaintJanaChrzcicielainBrochow.jpg|ポーランドのマゾフシェ県、ワルシャワ郊外のブロフフ(Brochów)村の聖ロクス・洗礼者ヨハネ教会。 |
| ここでショパンの両親が結婚し、またショパンが幼児洗礼と堅信礼を受けた。 |
| File:BrochowChopin2.JPG|同教会内部。 |
| 写真はショパンが洗礼を受けたときにも使われた聖水盤。 |
| File:Chopinhome,1817-27.JPG|ショパンがワルシャワに移って最初に住み幼少期を過ごした家。 |
| 現在はワルシャワ大学東洋学部日本学科が入っている。 |
| File:4Warszawa-LazienkiKrolewskie092.jpg|ポーランドのワルシャワ、ワジェンキ水上王宮のオランジュリー。 |
| ショパンがよく演奏会を行った。 |
| File:6Antonin04.jpg|ポーランド西部、ヴィエルコポルスカ県アントニンにある大貴族(マグナート)ラジヴィウ家の狩猟用宮殿。 |
| 当主のアントニ・ヘンリク・ラジヴィウに招かれてショパンが頻繁に滞在し演奏会を催した邸宅。 |
| 現在はここでショパン祭りが毎年開催される。 |
| File:6Antonin16.jpg|ショパン祭りの開かれるアントニンの宮殿内装。 |
| File:Duszniki-muzeum.JPG|ポーランド南西部、ドルヌィ・シロンスク県の街ドゥシュニキ・ズドルイは19世紀初頭にこの地方で最も栄えた温泉リゾート。 |
| 若い頃のショパンが家族と共に滞在し、1826年には2度のチャリティーコンサートを開催し、チケット売り上げの全額を孤児支援基金に寄付した。 |
| File:KrakowskiePrzedmiescie5,Warsaw,Poland.jpg|ショパンがポーランドを離れる直前まで住んだワルシャワの家。 |
| チャプスキ家宮殿(チャプスキ家が購入する前のオーナーの名前を取りクラシンスキ家宮殿とも呼ばれる)。 |
| ファイル:EugèneFerdinandVictorDelacroix043.jpg|ショパン(ドラクロワ画)。 |
| 当初はジョルジュ・サンドと二人で一枚に書かれた絵だったが、彼らの交際の破局から二枚に分割され、ショパンはルーヴル美術館蔵、サンドの部分はコペンハーゲンのデンマーク王立美術館に所蔵されている。 |
| ファイル:Perelachaise-Chopin-p1000352.jpg|ショパンの墓(フランス、パリのペール・ラシェーズ墓地)4つ左隣にはケルビーニの墓もある。 |
| File:EpitaphforheartofFrédéricChopininHolyCrossChurchinWarsaw.PNG|遺言によりショパンの心臓が埋め込まれているポーランド、ワルシャワの聖十字架教会の柱。 |
| File:4Warszawa-LazienkiKrolewskie107.jpg|ポーランド、ワルシャワのワジェンキ水上王宮の公園敷地内の広場にあるショパン像。 |
| File:PolandWarsawŁazienkiPark2.jpg|初夏から初秋にかけて同ショパン像のもとでは、毎週日曜日午後には無料ピアノリサイタルが開かれ、ショパンの曲目が演奏されている。 |
| File:ChopinIntlPianoCompetition2005.jpg|ショパン国際ピアノコンクールの会場風景(ポーランド、ワルシャワ、2005年)。 |
| ヤヌシュ・オストログスキが1681年より建築、のちにザモイスキ家が購入してワルシャワでの下屋敷として使用し、その後は学生寮、陸軍病院、音楽大学として使われ、第二次世界大戦後にフレデリック・ショパン協会に渡って本部事務局および博物館となった。 |
| 撮影は2007年のものであるが、その後全面改装工事を施し2010年3月に再開館している。 |