| 彼は知能指数が135だった。 |
| 17歳で学校を放校となるが、この時すでに2人の子供がいた(また、1964年には、リンダ・ローレンス(後にドノヴァンと結婚)との間に私生児1人をもうけている)。 |
| ジャズとR&Bに夢中で、ロンドンに出てデパートの店員をしながらバンド活動を行っていた。 |
| Pate'sGrammerSchool卒業。 |
| 大学進学資格のためのO-レベルとA-レベルの試験をパスしたが大学には進まなかった。 |
| 1962年4月、ミック・ジャガーとキース・リチャーズに出会う。 |
| ブライアンのギターに衝撃を受けたミックとキースは、彼をバンドに引き込もうとする。 |
| 間もなく彼らは、ロンドン市内の安アパートで共同生活を始め寝食を共にすることとなるが貧乏生活を送る。 |
| しかしミックは学校の教師である父親より仕送りを受け一人でこっそり優雅にレストランで食事をしていた。 |
| 歌唱力が乏しく鏡の前で手足をくねらせポーズを取っているようなミックをクビにして、代わりに卓越した歌唱力の持ち主である親友のポール・ボンド(後にマンフレッド・マンに参加するポール・ジョーンズ)を迎えようとキースに打ち明けるものの猛反対に遭い断念する。 |
| その後チャーリー・ワッツとビル・ワイマンを加えてローリング・ストーンズを結成する。 |
| このバンド名はブライアンによって付けられたとされる。 |
| ローリング・ストーンズは1963年6月にレコードデビューした。 |
| ブライアンはイギリスの白人聴衆に「本物の」R&Bを聴かせることが目的だったが、キースはポップ・スターになることを目標にした。 |
| オリジナル曲を量産するミックとキースに対しブライアンは曲を書かなかったため、マネージャーのアンドリュー・オールダムの意向もあり、オリジナル志向に移りつつあったバンドの主導権は次第にブライアンからミックとキースに移り、立場を失ったブライアンは麻薬に溺れるようになった。 |
| 更に1967年、誇大妄想狂と暴力的振る舞いが原因で、恋人であったアニタ・パレンバーグをキースに取られ、決定的な精神ダメージを受けてしまう。 |
| 1969年6月8日、バンドを脱退。 |
| 脱退直前のブライアンのバンド内での様子は、ジャン・リュック・ゴダール監督の『ワン・プラス・ワン』での「悪魔を憐れむ歌」のレコーディング風景の中で見られるが、かつての縦横無尽に楽器を演奏する姿はなく、病人のようになっている。 |
| 脱退からほぼ1ヶ月後の7月2日深夜12時過ぎ頃、サセックスのハートフィールドにある自宅のコッチフォード農場(かつてA・A・ミルンが住んでいた家をブライアンが買い取った)のプールの底に沈んでいるのが発見された。 |
| スウェーデン人のガールフレンド、アンナ・ウォーリンが人工呼吸を試み、看護師のジャネット・ローソン、改装工事中の建築業者フランク・サラグッドが救急車を呼んだが、医師が到着した時、ブライアンは既に死亡していた。 |
| 検死官は、アルコールとドラッグの影響で溺死した、と報告した。 |
| ところが、ウォーリンは2000年に、サラグッドがブライアンを殺害したと主張した。 |
| 1993年にサラグッドは殺害を認めたと言われるが、確認がなされる前に死去した。 |
| ブライアンに代わる新メンバー、ミック・テイラーのお披露目として予定されていた1969年7月5日のハイド・パークでのフリーコンサートは、急遽ブライアンの追悼コンサートして行われることとなった。 |
| 同コンサートはグラナダTVで放送され、現在、音楽ソフトとして発売されている。 |
| ブライアンの葬儀は7月10日に行われ、故郷のチェルトナムに埋葬された。 |
| なお、彼の墓石には「僕をひどく裁かないでください(Pleasedon'tjudgemetooharshly)」と刻まれているとよく言われているが、実際には、名前と生年月日が刻まれているだけである。 |
| これに関しては、バーバラ・シャロンのキース・リチャーズ評伝「''KEITHRICHARDSLifeasaRollingStone''(邦題:キース・リチャーズ彼こそローリング・ストーンズ)」の、ブライアンの葬儀場面の記述が発端だと思われる。 |
| なお、上記の言葉は父親に宛てて書いた手紙に書かれた言葉である。 |
| ブライアンは作曲こそ殆どしなかったものの、楽器に触れるとすぐに演奏を憶えられたと言われ、ギターの他にハーモニカ、ピアノ、シタール、ダルシマー、メロトロン、マリンバ、リコーダー、クラリネットといった20種類以上の楽器を演奏できるマルチプレイヤーであり、それらの楽器を曲に織り込むアレンジャーとしての能力は卓越していた。 |
| しかし近年、1967年発表の「ルビー・チューズデイ」がブライアンによる作曲であったことがキースやビルの口から語られている。 |
| また、関係者によれば他の幾つかの楽曲にもブライアンが作曲したものがあったということが判明している。 |
| 彼のR&Bを基調とした音楽性は、初期ストーンズの方向性を決定付けるもので、ミック、キースらにも多大な影響を与えている。 |
| また、1967年にはドイツの映画『MordundTotschlag(英題:''ADegreeOf Murder'')』(フォルカー・シュレンドルフ監督、アニタ・パレンバーグ主演)の音楽を担当している。 |
| 2005年には、スティーヴン・ウーリー監督によって、ブライアンの他殺説を映画化した『ブライアン・ジョーンズストーンズから消えた男』が発表された。 |