| 1935年10月6日-イタリアの大工の家に生まれる『全日本プロレス来日外国人選手PERFECTカタログ』P6(2002年、日本スポーツ出版社)。 |
| 1951年-一家揃ってアメリカ・ペンシルベニア州ピッツバーグに移住。 |
| 1953年から1955年まで兵役に就く。 |
| 除隊後は建設労働者として働いていた。 |
| 1959年-東部地区でプロレスラーとしてデビュー。 |
| 1962年11月22日-カナダ・トロントでジョニー・バレンタインを破り、NWA・USヘビー級王座を獲得。 |
| 1963年5月17日-ニューヨークのMSGでバディ・ロジャースを48秒で破り、第2代WWWF世界ヘビー級王者となる。 |
| 1964年2月17日-MSGでWWWF王座の防衛戦を行う。 |
| 2度目の武者修行で全米をサーキット中であったジャイアント馬場(ババ・ザ・ジャイアント)の挑戦を受け、バックブリーカーで勝利を収めた。 |
| 1967年3月-初来日し、日本プロレスに参戦。 |
| 馬場のインターナショナル・ヘビー級王座に連続挑戦する。 |
| 結果は2回とも馬場の防衛。 |
| 1968年8月7日-日本プロレスに再来日し、馬場のインターナショナル・ヘビー級王座に再度挑戦。 |
| 結果は馬場の防衛。 |
| 1968年8月9日-レイ・スティーブンスと組んでBI砲(馬場&アントニオ猪木)のインターナショナル・タッグ王座に挑戦するが敗退。 |
| これがサンマルチノにとってはシングルとタッグを含めて唯一の猪木とのタイトル戦。 |
| 1971年1月18日-イワン・コロフに敗れてWWWF王座から転落する。 |
| 在位期間は7年8ヶ月。 |
| 1971年6月18日-ドミニク・デヌーチと組んでザ・モンゴルズ(ジート&ベポ)からWWWFインターナショナル・タッグ王座を奪取。 |
| 1971年11月25日-馬場のインターナショナルヘビー級王座に最後の挑戦。 |
| 結果は馬場の防衛。 |
| 1972年9月30日、ニューヨークのシェイ・スタジアムで開催された"ShowdownatShea"にて、ペドロ・モラレスのWWWF王座に挑戦。 |
| 23時までに興行を終了しなければならないニューヨーク市の条例(カーフュー)により引き分け。 |
| 1972年10月-全日本プロレスの旗揚げシリーズに参戦。 |
| 世界選手権争覇戦(後に「PWFヘビー級王座争覇戦第一戦」となる)で馬場と対戦。 |
| 1973年10月-凱旋帰国した鶴田友美(ジャンボ鶴田)の国内デビュー戦でタッグパートナーを務める。 |
| 1973年7月21日-インディアナポリスのWWAにてディック・ザ・ブルーザーと組み、アーニー・ラッド&バロン・フォン・ラシクからWWA世界タッグ王座を奪取(翌1974年1月5日、バリアント・ブラザーズに敗れるまで保持)。 |
| 1973年12月10日-スタン・ステイジャックを破り第6代WWWFヘビー級王者に返り咲く。 |
| 1975年5月-自らのWWWF王座もかけて、馬場の持つPWFヘビー級王座に挑戦。 |
| 1976年4月26日-スタン・ハンセンとのWWWF王座防衛戦で、ハンセンの放ったボディスラムで脳天からリング上に落下、ケイ椎を損傷する重傷を負う(試合はストップされず、その後もサンマルチノは戦い続けたものの、額から流血しているのをレフェリーが確認して試合を止めた)。 |
| 1976年6月25日-"ShowdownatShea"の第2回大会に出場、負傷した首が完治しないままスタン・ハンセンとのリマッチに臨み、場外カウントアウトで勝利。 |
| 同日はアントニオ猪木vsモハメド・アリの異種格闘技戦がクローズドサーキット方式で衛星生中継されたが、チケットの売れ行きが芳しくなかったためにビンス・マクマホン・シニアがサンマルチノに出場を依頼した。 |
| 1977年4月30日-スーパースター・ビリー・グラハムに敗れてWWWF王座陥落。 |
| 1978年5月5日-プエルトリコのWWCにてゴリラ・モンスーンを破りWWC北米ヘビー級王座を獲得、同年7月22日にモンスーンに奪回されるまで保持。 |
| 1980年8月9日-"ShowdownatShea"の第3回大会にて、かつての愛弟子ラリー・ズビスコとスチール・ケージ・マッチで対戦。 |
| 1981年10月-引退を表明、全日本プロレスの創立10周年記念興行に来日し、10月9日に馬場とのコンビでタイガー・ジェット・シン&上田馬之助と対戦。 |
| これが事実上の引退試合となる。 |
| 1984年9月-TVショー"SuperstarsofWrestling"のカラー・コメンテーターとしてWWFに復帰。 |
| 1985年5月20日-リングに一時復帰。 |
| 息子のデビッド・サンマルチノと組み、MSGでブルータス・ビーフケーキ&ジョニー・バリアントと対戦。 |
| その後WWFではロディ・パイパーやホンキー・トンク・マンとの抗争も行われた。 |
| 1986年4月7日-レッスルマニア2(シカゴ大会)でのバトルロイヤルに出場。 |
| サンマルチノの選手としてのレッスルマニア出場は、この第2回大会のみである(前年の第1回大会にはブルータス・ビーフケーキと対戦したデビッド・サンマルチノのセコンドとして登場)。 |
| 1988年3月-WWFを離脱。 |
| WWFでの最後の試合は1987年8月29日、ハルク・ホーガンとタッグを組んでのキングコング・バンディ&ワンマン・ギャング戦。 |
| 1989年10月28日-WCWのPPV"HalloweenHavoc"にて、サンダードーム・ケージ・マッチ(リック・フレアー&スティングvsテリー・ファンク&グレート・ムタ)のスペシャルレフェリーを務めた。 |
| 1999年5月2日-全日本プロレスの東京ドーム大会に来日。 |
| ジャイアント馬場「引退試合」に友人(兼対戦相手)として参列。 |
| 2001年-故郷に銅像が建立され、自らの名前がついた記念体育館が建設される。 |