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プロフィール
- ブルーノ・ワルターとは
- 生誕から指揮者となるまで
- マーラーとの出会い
- 人気指揮者へ
- ナチスの台頭とアメリカ移住
- 戦後
- レパートリーと演奏スタイル
- マーラーとモーツァルト
- その他
- モノラル録音
- ステレオ録音
- マーラー
- トスカニーニ
- フルトヴェングラー
- クレンペラー
- ベーム
- クナッパーツブッシュ
- 作曲した作品
- 著書
- 映像作品
- 関連サイト
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生誕から指揮者となるまで
| ドイツ系ユダヤ人の父親とキリスト教徒に改宗した東欧から移住したユダヤ系の母親の間の子として、ベルリンに生まれる(ブルーノ本人はキリスト教徒)。 |
| 本名は、ブルーノ・ヴァルター・シュレージンガー(BrunoWalterSchlesinger)。 |
| ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後、ピアニストとしてデビューしたが、ハンス・フォン・ビューローの実演を目の当たりにして指揮者になることを決意し、1894年にケルン市立歌劇場でデビューした。 |
マーラーとの出会い
| 1896年にはハンブルク歌劇場へ移った。 |
| そこで当時音楽監督(1891年ー1897年)であったグスタフ・マーラーに認められ、マーラーの弟子、そして親友として交流を深めていった。 |
| その後マーラーとともにウィーンへ転任し、ウィーン音楽院(現ウィーン国立音楽大学で教鞭をとる。 |
| また、名前からユダヤ系を示す「シュレージンガー」という姓を除き「ブルーノ・ワルター(ヴァルター)」と名乗ったのもこの頃からである。 |
| 仲間のフランツ・シャルクはこのことをワーグナーのタンホイザーにも出てくる詩人ワルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデとかけて、「シュレージンガー・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ氏」と呼んだという。 |
人気指揮者へ
| 以後ウィーン宮廷歌劇場(ウィーン国立歌劇場)楽長、ミュンヘン宮廷歌劇場(バイエルン国立歌劇場)音楽監督、ベルリン市立歌劇場(ベルリン・ドイツ・オペラ)音楽監督、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団楽長などを歴任。 |
| ヨーロッパの一流オーケストラやザルツブルク音楽祭さらにはアメリカのオーケストラにも度々招かれる人気指揮者として活躍した。 |
| ベルリン・フィルでは「ブルーノ・ワルターコンサート」という演奏会を持っていた。 |
ナチスの台頭とアメリカ移住
| 移住先のウィーンでは歓迎されてウィーン国立歌劇場やウィーン・フィルで、フルトヴェングラーなどと人気を争うほどの活躍をしたが、1938年にオーストリアがナチス・ドイツに併合されてしまうと、命に危険を感じてウィーンを出てスイスのルガーノへ逃れた。 |
| この年創設されたルツェルン音楽祭にトスカニーニらと共に招かれたりしているが、パスポートもない状態でモナコなどに市民権の取得を打診し不調におわる。 |
| やがてフランスから手をさしのべられフランスの国籍を取得、フランスなどドイツとオーストリアの影響の及ばない地域を中心に演奏活動を続けた。 |
| 翌年もルツェルン音楽祭に招かれるが、チューリッヒで離婚調停中だった次女のグレーテルが夫に射殺され、その夫も自殺するという悲劇(著名なバス歌手エツィオ・ピンツァとグレーテルとの不倫関係が原因という)がワルターを襲う(音楽祭はトスカニーニが自らのスケジュールをキャンセルして代役を務める)。 |
| 1939年9月に第二次世界大戦が勃発して欧州での戦火が激しくなると、ついにルガーノの家を出てアメリカへと逃れた。 |
| アメリカでは、カリフォルニア州ビバリーヒルズに居を構え、常任のポストには就かずにニューヨーク・フィルハーモニックやメトロポリタン歌劇場などを指揮した。 |
戦後
| 戦後はヨーロッパの楽壇にも復帰し、1947年から1949年の間にニューヨーク・フィルハーモニックの音楽顧問を務めるなど、欧米で精力的に活躍を続けたが、1958年に心臓発作で倒れてしばらく休養。 |
| その後もニューヨーク・フィルやウィーン・フィルを指揮して数回演奏会を行なっている。 |
| 1960年に師マーラーの生誕100周年記念祭のために最後のウィーン訪問を行いウィーン・フィルを指揮する(曲目はマーラーの交響曲第4番、シューベルトの「未完成」など)。 |
| 同年暮れにロスアンジェルス・フィルの演奏会で当時新進気鋭のヴァン・クライバーンと共演し(曲目はブラームスのピアノ協奏曲第1番、交響曲第1番)、演奏会から引退した。 |
| その後ステレオ録音技術が発達してきたため、CBSレコード(現在はソニー・クラシカル)が、ワルターの演奏をステレオで収録するために、ロスアンジェルス付近の音楽家によりコロンビア交響楽団を特別に結成し、この組み合わせで多くの録音が残された。 |
| 1962年2月17日、心不全のためカリフォルニア州ビバリーヒルズの自宅で死去。 |
| その波乱に満ちた生涯を閉じた。 |
| 現在、遺体はスイスのルガーノに埋葬されている。 |
| 最晩年に、ルドルフ・シュタイナーが設立した人智学関連団体である『普遍アントロポゾフィー協会』に入会した。 |
レパートリーと演奏スタイル
| ワルターは、19世紀生れの指揮者の中では珍しく録音を多く残しており、録音期間も1920年代のSPレコードから1960年代のステレオ録音に至るまでの長期間にわたっている。 |
| そのレパートリーも得意としていたマーラーやモーツァルトの他、ハイドン、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ブルックナーなどのドイツ・オーストリア系音楽やベルリオーズ、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、バーバーなど幅広い。 |
| 録音には残されていないが、同時代の作曲家の作品も積極的に取り上げていた。 |
| よくワルターの演奏は微笑に例えられ、夢のような幸福感に満ちた美しい演奏、感情を荒々しく出すことのない中庸な演奏をする指揮者として知られている。 |
| モーツァルトの交響曲や晩年のステレオ・スタジオ録音によるベートーヴェンの交響曲第6番『田園』などの録音にその点が見られる。 |
| しかしその一方で、壮年期であるモノラル録音時代のライヴ録音などにはニューヨーク・フィルとのベートーヴェン交響曲第7番や、ナチス・ドイツの脅威が迫り来る中で演奏された1938年のウィーン・フィルとのモーツァルトピアノ協奏曲20番K466、マーラー交響曲第9番のように何かに憑かれたような熾烈な演奏をしている事例も多い。 |
| ワルター自身、自伝で自分の中にはアポロ的な部分とディオニュソス的な部分が両立している、と述べている。 |
| 残されている映像を見るとワルターの指揮は、基本的にタクトを持った右手のみを使い、必要以上に体を動かすことも、左手を使うこともあまりしていない。 |
| 拍をぼかさずにきちんと刻んで振っていることが多く、「草書的」と言われた師匠マーラーの指揮とは違うものである。 |
| -->また、リハーサルでは、文学的な解説や長い演説は余りせず、タクトを振りながら「歌って!」「ディミヌエンド!」「エスプレッシーヴォ!」といった指示を出すのみである。 |
| 彼は自伝に「自分は教育的指揮者だ」と残している。 |
| このことは、ワルターがトスカニーニのようにオーケストラに対して専制君主として振舞う指揮者ではないことを示しており、ワルターの人柄を良く表している。 |
| 例えば、ウィーン・フィルでのリハーサルでは悲しい顔をし「なぜあなた達は美しい音を出さないのですか?もっと歌ってください」と言い、団員達は「あんな悲しげな顔でリハーサルされたら音を出さざるを得ないよ。 |
| トスカニーニなどの怒りんぼう指揮者以上に困った指揮者だね」と、言ったという。 |
| 代表的な録音は下記の通り。 |
マーラーとモーツァルト
| ワルターはグスタフ・マーラーの弟子・親友であり、マーラーの死後に交響曲第9番、『大地の歌』の初演を行うなど、その権威として知られていた。 |
| ワルターの死後レナード・バーンスタインやクラウス・テンシュテットなどによる名演奏が生れ、ワルターのマーラー演奏の地位は相対的に低下したが、それでも前述の1938年録音の交響曲第9番(ウィーン・フィルとのライヴ録音)や1952年録音の『大地の歌』(ウィーン・フィルとのスタジオ録音とライブ録音)、ステレオ録音の交響曲第1番『巨人』(コロンビア交響楽団)、第2番『復活』(ニューヨーク・フィル)などは今でも名演奏として知られている。 |
| 『巨人』の録音では、当時バーンスタインもこの曲の録音が予定されており、場合によっては同じ『巨人』のレコードが同じCBSから同じ時期に発売される可能性もあった。 |
| しかし、「とりあえずバーンスタインにワルター盤を聴かせ、その感想で録音するかどうか決めよう」ということになり、バーンスタインにワルター盤を聴かせたところ大絶賛したため、バーンスタインによる録音はお預けとなった。 |
| また、ワルターはモーツァルトを得意としており、楽屋でモーツァルトの霊と交信していたという噂さえ伝説として残っているほどだ。生涯最後の録音も、モーツァルトのオペラ序曲集であった。 |
| 晩年のコロンビア交響楽団とのステレオ録音では交響曲第36番『リンツ』、第40番、またニューヨーク・フィルとのモノラル録音では第35番『ハフナー』、第38番『プラハ』、第39番、第40番、第41番『ジュピター』などが名演奏として知られている。また、戦前のウィーン・フィルとの録音(『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』など)や、1952年のウィーン・フィルとの交響曲第40番のライヴ録音、ザルツブルク音楽祭での交響曲第25番、『レクイエム』のライヴ録音などは今でも名演奏と称えられている。 |
| オペラでは、メトロポリタン歌劇場での『ドン・ジョヴァンニ』、『魔笛』等が知られている。 |
| 20世紀後半にモーツァルトの権威とされたカール・ベームも、「バイエルン歌劇場音楽監督であったワルターが私を第4指揮者として招聘し、彼がモーツァルトのすばらしさを教えてくれたからこそ、モーツァルトの開眼ができた」と告白している(ドイツ「シュテルン」誌1981年8月20日号)。 |
その他
| マーラー・モーツァルト以外では下記の録音などが今も高い評価を得ている。 |
モノラル録音
| ブラームス交響曲第2番、交響曲第3番(ニューヨーク・フィル)。 |
| ベートーヴェン交響曲第3番『英雄』(シンフォニー・オブ・ジ・エアとのライヴ録音 注)。 |
| ベートーヴェン交響曲第6番『田園』(ウィーン・フィルとのSP録音)。 |
| ハイドン交響曲第100番『軍隊』(ウィーン・フィルとのSP録音)。 |
| シューベルト交響曲第7(8)番『未完成』(ウィーン・フィルとのSP録音)。 |
| 注トスカニーニの追悼演奏会。 |
| シンフォニー・オブ・ジ・エアはトスカニーニが指揮していたNBC交響楽団が改名したオーケストラである。 |
ステレオ録音
| ベートーヴェン交響曲第2番、交響曲第6番『田園』(コロンビア交響楽団)。 |
| ブラームス交響曲第4番(コロンビア交響楽団)。 |
| シューベルト交響曲第5番、交響曲第8(9)番『ザ・グレート』(コロンビア交響楽団)。 |
| シューベルト交響曲第7(8)番『未完成』(ニューヨーク・フィル)。 |
| ハイドン交響曲第100番『軍隊』(コロンビア交響楽団)。 |
トスカニーニ
| ワルターとトスカニーニは演奏スタイルには違いがあったが、親交を持っていた。 |
| トスカニーニはワルターの演奏を、感傷的に過ぎるように感じていたようだが、ワルターが指揮したモーツァルトの交響曲のレコードに関して自分よりも良いと述べている。 |
| いっぽうワルターはトスカニーニから音楽的に多大な影響を受け、自伝でもトスカニーニを賞賛している。 |
| ワルターが娘グレーテル殺害の報を受けたのはルツェルン音楽祭の楽屋であったが、ショックで指揮が出来なくなってしまったワルターに代わって指揮台に上がったのはトスカニーニだった。 |
| トスカニーニが90歳で没した際の追悼演奏会ではワルターが指揮台に上がり、ベートーヴェンの交響曲第3番の名演奏を残している。 |
クレンペラー
| クレンペラーとワルターは共にユダヤ系で、マーラーの弟子だがその演奏スタイルは大きく違った。 |
| ではクレンペラーが「ワルターはモラリストだ。 |
| だが、私は断じて違う」ワルターは、しばしば「温和なヒューマニスト」「道徳者」というイメージで伝えられているが、実際はそうではない一面もあったという説があり、これを以ってワルターを偽善者とする見方も有る。 |
| これについては、前述のようにワルター自身が自分の中に「アポロとデュオニソスが両立している」と残していることにも留意する必要があるだろう。 |
| と述べた後に、「モラリスト」では芸術作品の深さを伝えるような演奏は出来ないのだ、というニュアンスの発言をしてワルターを皮肉っている(ただし、ワルターの書簡集を見るとクレンペラーやその家族との間にも手紙が交わされていることが伺える)。 |
ベーム
| 前述のようにバイエルン国立歌劇場時代にワルターが招聘し、その後も交友を続けていた。 |
| ワルターが戦後初めてウィーンに降り立ったときの言葉は、「私の友人ベーム君は、今どうしているか」だったと伝えられている。 |
| ベームは、ワルターのことを「繊細敏感なユダヤ人で、どこか師のマーラーを偲ばせるところがあった」と語っている。 |
| ベームはワルターを慕っており、ことあるごとにワルターに指揮を依頼している。 |
| ウィーン国立歌劇場再開記念公演シリーズに際してもワルターにドン・ジョバンニの指揮を依頼している(これは、実際にはワルターが高齢を理由に断ったためベーム自身が指揮し、ワルターはベートヴェンの第9を指揮している)。 |
| さらにモーツァルトのみならず、シューベルトの演奏もワルターに教えてもらったと言っている。 |
| また、ワルターはベーム夫人をミミ役に起用した。 |
クナッパーツブッシュ
| クナ(クナッパーツブッシュの愛称)はナチスと手を組んで、ワルターのバイエルン国立歌劇場追放に一役買ったという。 |
作曲した作品
| ワルターは、歌曲、室内楽、合唱曲などを作曲していたが、生前作曲家として知られることはなかった。 |
| 現在までに、録音が発売された作品は下記のとおりである。 |
| 彼には悪いが、あくびを堪えるのにとても苦労した。 |
| 彼は指揮者としての活動に集中すべきであり、これには君も同意してくれると思う」。 |
映像作品
| DVD『THEARTOFCONDUCTING:GREATCONDUCTORSOFTHEPAST/アート・オブ・コンダクティング -今世紀の偉大な名指揮者たち-』(ワーナー・ミュージック)。 |
| DVD『ザ・マエストロ』(ジェネオン・エンタテインメント)-1958年のカナダ・ヴァンクーバー祝祭管弦楽団とのブラームス『交響曲第2番』のリハーサル風景とインタビュー。 |
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1894年
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ケルン市立歌劇場でデビューした |
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1896年
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ハンブルク歌劇場へ移った |
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