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バフン階級の出身だったが家は小作人で貧しかった。
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マヘンドラ国王の国策により、政府に反抗的な南部のテライ平原(マデス)を思い通りに統治するため、山岳部や丘陵部の住民の移住政策がとられ、チャビラルが6歳のときダハール家も南部チトワン郡に移住した。
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しかし、チトワンでの生活は、相変わらず厳しいものであった。
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しかしこうした窮状の中、彼の父は自給自足的農業で大家族を支えようとした。
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父は彼によい教育を受けさせ、成人して「大人物」になることを望んだ。
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少年時代の友人や近所の人々の記憶によれば、彼は心優しく、不正を我慢できない少年だったという。
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バフンの家庭に生まれながらダリット(不可触賤民)とも交わった。
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彼の寛大な性格とハンサムな風貌から学校の教師たちはその名前を「プスパカマル」(蓮の花)と名づけた。
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これが現在の本名である。
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シヴァナガルのナラヤニ・バイディア・マンディル高校の卒業試験に合格すると、彼はパタン・キャンパスで科学の中間課程を修了した。
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この時、共産主義に強い影響を受ける。
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その後、故郷のチトワン郡に戻り、バラトプル郊外のラムプルにあるアメリカの出資で作られた農業・動物学大学に進学する。
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ここで農学士の称号を得る。
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1976年、大学を卒業すると、ゴルカ郡のアルガットで学校の教師となり、生徒と保護者から大きな尊敬を受ける。
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そこで2年半すごした。
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生徒を教えるだけでなく、毎週一回、文盲の成人のための教室も開き、新しい農業技術を教えると共に、マルクス主義の思想も教えた。
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教職を去った後、ジャジャルットで短期間アメリカの出資する農業開発プロジェクト(USAID)に参加する。
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その後、革命運動に専従することになる。