| 1908年にオーストリア・ハンガリー帝国(現在のオーストリア共和国)ザルツブルク州のザルツブルクで貴族の子として生まれた。 |
| 兄のヴォルフガング(1906年-1987年)も後に音楽家になっている。 |
| ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院とウィーン音楽院で学んだ後、親の買い上げたオーケストラによりザルツブルクでデビュー。 |
| ドイツのウルム市立歌劇場の総監督から誘いが来て、1929年に『フィガロの結婚』でオペラ指揮者として脚光を浴び、1934年には同国アーヘン市立歌劇場で音楽監督に就任した。 |
| 1938年のベルリン国立歌劇場におけるヴァーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の指揮で国際的にも認められ、これにより、翌1939年にはベルリン国立歌劇場およびベルリン国立管弦楽団の指揮者の地位を得るとともに、イタリアのミラノ・スカラ座でオペラを指揮することとなった。 |
| 1946年、ウィーン・フィルとの第二次世界大戦後初の演奏会を前に、戦時中ナチスの党員であった1933年4月8日、ザルツブルクにおいて当時オーストリアでは非合法政党だったナチスへの入党手続きをとった。 |
| ナチスの党員簿によると、最初の入党後カラヤンは行方不明扱いとされ、最初の党員番号は抹消されており、同年5月1日にウルムで再入党している。 |
| 当時のことを後年「私にとってナチス党員になることはスキークラブの会員になる程度の感覚だった」と述懐している。 |
| 戦後の非ナチ化審理の際、カラヤンは1935年、アーヘン市立歌劇場のポスト就任と同時に入党と申告しているが、なぜ非ナチ化委員会でカラヤンの申告が不問にされたかは謎に包まれている。 |
| ただし、リチャード・オズボーン著の伝記では「戦後の時代に誤った情報が多く流された」とされており、議論の前提となる資料に多くの誤りがあったと述べられている。 |
| ことを理由に、ソ連の占領軍によって公開演奏停止処分を受けた。 |
| しかし、翌1947年には再び処分保留となった。 |
| 1948年にウィーン交響楽団の首席指揮者、翌1949年にウィーン楽友協会の音楽監督に就任。 |
| また、イギリスのレコード会社EMIの録音プロデューサーのウォルター・レッグの元で、フィルハーモニア管弦楽団との演奏活動およびレコード録音も盛んに行うようになった。 |
| 1951年、戦後再開したバイロイト音楽祭の主要な指揮者として抜擢される。 |
| しかし、翌年には音楽祭を主催するヴィーラント・ワーグナーと演出を巡って対立。 |
| この後、ヴィーラントの死後もバイロイトに戻ることはなかった。 |
| 1954年、ドイツ音楽界に君臨していたヴィルヘルム・フルトヴェングラーが急逝したことで、翌1955年にベルリン・フィルの終身首席指揮者兼芸術総監督の地位に登りつめ、1989年まで34年もの長期間この地位にとどまった。 |
| 1957年には同楽団と初の日本演奏旅行を行う(カラヤン自身は1954年、NHK交響楽団を指揮するため単身来日していた)。 |
| 1956年にはウィーン国立歌劇場の芸術監督に就任。 |
| ベルリンとともに、世界の人気を二分する両オーケストラを同時にたばねることになり、このころから帝王と呼ばれ始める。 |
| ウィーンのポストは保守的で聴衆に受けない監督のエーゴン・ヒルベルトと衝突し1964年に辞任。 |
| 以後十数年、ウィーンフィルとは一部のレコーディングとザルツブルク音楽祭のみでの関係となる。 |
| 1950年代からはミラノ・スカラ座でも主要な指揮者として活躍していた。 |
| 1964年12月17日にスカラ座での椿姫の上演が完全に失敗したため、以後スカラ座では「椿姫」の上演を封印することとなった(カラスの呪い)。 |
| このころから健康問題の不調に悩まされるようになりながらも、世界中でおびただしい回数の演奏旅行を行った。 |
| 1965年には映画監督アンリ=ジョルジュ・クルーゾーとともにコスモテル社を設立して、クラシック音楽の映像化事業にも着手している。 |
| 1967年には、自らの理想に沿うワーグナーのオペラの上演をめざして、ザルツブルク復活祭音楽祭を始めた。 |
| 1972年にはベルリン・フィルとともに3度のコンサートを行い、ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭をも創設し、自ら音楽監督に就任した。 |
| ベルリン・フィルがオペラのオーケストラピットに入るようになったのはこの音楽祭が契機となっている。 |
| 1972年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団団員の養成を目的としたオーケストラ・アカデミー、いわゆるカラヤン・アカデミーを創設した。 |
| 1982年、自身の映像制作会社テレモンディアルをモンテカルロに設立。 |
| ベートーヴェン交響曲全集をはじめとする、主要レパートリーの映像化にも着手した。 |
| 四半世紀にわたり、カラヤンとベルリン・フィルは良好な関係を維持したが、1983年、女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーの入団を巡り、加入を認めないベルリン・フィルハーモニーと対立した。 |
| その激しい軋轢は新聞種にもなり、ベルリン・フィルの芸術監督辞任の噂もささやかれたが、翌年和解に至る(結局マイヤーは自ら退団)。 |
| 晩年を迎えたカラヤンはこの騒動の後、ベルリン・フィルからの離反を強め、もう一つのヨーロッパを代表する楽団であるウィーン・フィルとの結びつきをより深めていくことになる。 |
| 1988年、ドイツの雑誌『デア・シュピーゲル』は「お金の魔術師」というタイトルでカラヤン批判の特集記事を組んだ。 |
| その内容とは、カラヤンの側近がカラヤンとベルリン・フィルの台湾への演奏旅行の条件として法外な出演料と、カラヤンとウィーン・フィルとの演奏フィルムの購入を台湾側に要求したというものだった。 |
| このスキャンダルに加え、カラヤンのベルリンでの演奏回数が減っていたという事情も手伝って、カラヤンへの批判が噴出した。 |
| ベルリン・フィルやドイツの野党からも退任を求める声が高まった。 |
| 翌1989年4月24日、ウィーン・フィルとの演奏会出演の翌日に、健康上の理由でベルリン・フィルの芸術監督と終身指揮者を辞任した。 |
| その3か月後、ザルツブルク近郊にあるアニフの自宅でソニーの大賀典雄社長(当時)との会談中に、心不全により死去した。 |
| この突然の死がなければ、ドイツ・グラモフォンとの長年の契約を解消し、ソニーと新しい契約を結び、ウィーン・フィルと自身のレパートリーの新録音・再録音に着手。 |
| また、1991年には10年ぶりにウィーン国立歌劇場に復帰する予定だったともいわれている『レコード芸術』1989年8月号。 |
| カラヤンは指揮者の職業病ともいえる、脊椎の持病にも悩まされ続け、生涯に3度の手術をした。 |
| 1978年の脳梗塞(『家庭交響曲』のリハーサル中、落とした指揮棒を取ろうとして指揮台から落ちたのが発作の原因であった)等が追い撃ちをかけたフランツ・エンドラー『カラヤンの生涯』高辻知義訳、福武書店、1994年、ISBN4828817379。 |
| 晩年には、歩行も厳しいほど体のコントロールを失うことにもなった。 |
| その頃のカラヤンは指揮台の柵につけられた、サドル状の特製の椅子に座って指揮し、長年目をつぶって指揮していたオーケストラのみの曲でも1983年ごろからは目を開いて指揮することが多くなった(オペラや合唱曲を指揮する時は、全盛期でも目を開けて指揮しており、残された映像で確認できる)。 |