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プロフィール
- ヘルムート・シュミットとは
- 生い立ち
- 政治家
- 首相
- 言論人
- 私生活・人柄
- 表彰
- 関連サイト
シュミット(右から二人目)。ヘルムート・ハインリッヒ・ヴァルデマール・シュミット(HelmutHeinrichWaldemarSchmidt,1918年12月23日-)は、西ドイツの政治家。ドイツ社会民主党(SPD)所属。第5代連邦首相(在任:1974年-1982年)。その他国防相(1969年-1972年)、経済 財務相(1972年)、 財務相(1972年-1974年)、 外務大臣(臨時、1982年の2週間)を歴任。1983年からは「ディー・ツァイト」紙の共同編集者を務める言論人・文化人でもある。
生い立ち
| ハンブルクの生まれでそのことに誇りを持ち、現在はハンブルク市民に「卓越したハンザ人」と敬愛されている。 |
| 両親はいずれも教師だった。 |
| しかし父はユダヤ教徒の商人と女性給仕の間に生まれた私生児で、ナチスの政権獲得後にユダヤ人に対する差別と迫害が始まると、父は書類を偽造してアーリア人である証明書を得た、とシュミット自身が告白している。 |
| 「ユダヤ人との混血児」であることが公になっていれば、彼はさまざまな差別を受けドイツ国防軍で将校になることもなかったであろう。 |
| その出自ゆえにナチスに対する反感は持っていたが、ナチス左派が宣伝した社会主義的側面には共感するところもあったという。 |
| 1937年にハンブルクのリヒトヴァルク高校を卒業した後、1939年に兵役でドイツ国防軍に入営し、ブレーメンの対空砲部隊に配属される。 |
| 間もなく第二次世界大戦が勃発。 |
| 1941年からは東部戦線でソ連軍との戦いに将校として従軍。 |
| 1942年に帝国空軍省の対空砲教官兼顧問としてドイツに戻る。 |
| 1944年、ヒトラー暗殺計画参加者に対する人民法廷の裁判を傍聴するよう上官に命じられたが、その茶番ぶりに傍聴を辞退した。 |
| 同年末、中尉・中隊長として西部戦線に従軍。 |
| 1945年初め、防空演習中に空軍司令官ヘルマン・ゲーリングに対する批判的な言動をしたためにナチスの政治将校に裁判にかけられそうになるが、上官の将軍に救われた。 |
| 1945年4月にリューネブルガー・ハイデでイギリス軍の捕虜となり、8月31日に釈放された。 |
| 捕虜収容所からの釈放後、故郷ハンブルクで経済学と政治学を学ぶ。 |
| 収容所で知り合った社会主義者の影響で戦後すぐにドイツ社会民主党(SPD)に入党。 |
| 在学中の1947‐48年、SPDの下部学生組織であるドイツ社会主義学生連盟''derSozialistischeDeutscheStudentenbund''-SDS)のリーダーを務める。 |
| 1949年に経済学士号を取得。 |
| 卒業後ハンブルク市の自治体職員となり、まず商工振興局で、その後1952年から同市の経済・運輸局で、その長であるカール・シラーの下で働いた。 |
| 1955年のドイツ再軍備後に二度軍事訓練に参加し、1958年にはドイツ連邦軍予備役大尉、のち予備役少佐になっている。 |
政治家
| 1953年、連邦議会選挙にハンブルク選挙区から初出馬して当選。 |
| 1958年にSPDの州代表メンバーの一員に選ばれ、核兵器撲滅キャンペーンや連邦軍削減などのキャンペーンに参加。 |
| 1958年から1961年まで、欧州議会議員を兼任。 |
| 1961年12月、彼はハンブルク州政府の内務相になり、連邦議会議員を辞任。 |
| 内相就任間もない1962年2月16・17日の北海大洪水では、憲法違反の懸念を恐れずに連邦軍の出動を要請して被害の拡大を防いだ彼の指導力が高く評価され、その名は広く知られるようになった。 |
| 1965年に連邦議会に再出馬して当選、すぐに議会幹事会の一員となり、1967年にはSPD連邦議会院内総務の座に就き、1968年には副党首になった。 |
| 1967‐69年には党議員団の外交・全ドイツ問題政策調査委員会会長を兼務。 |
| 彼の言によれば、院内総務の仕事がその政治家人生でもっとも楽しいものだったという。 |
| 1969年10月22日、SPDと自由民主党(FDP)の連立でヴィリー・ブラント政権が成立、彼は国防大臣として初入閣。 |
| その在任中に兵役義務が18ヶ月から15ヶ月に短縮され、またハンブルクとミュンヘンに連邦国防大学が設立された。 |
| 1972年7月にブラントに抗議して辞任したハンブルク市職員時代の上司、カール・シラーを継いで経済・財務相に就任(11月まで)。 |
| 同年12月から1974年3月まで財務相。 |
| なお財務相として「トライラテラル・コミッション」(日米欧三極委員会)の委員でもあり、ビルダーバーグ会議に参加して1973年5月の原油価格400%値上げ決定にも関わっている。 |
首相
| 1974年5月16日、ブラントが「ギョーム事件」によって辞任した後を受けて、急遽連邦首相に就任した。 |
| オイルショックによる世界的な経済不況の中で、彼は積極的な景気維持の策をとった。 |
| 彼は隣国フランスのジスカール・デスタン大統領と緊密に協力し、就任間もなく欧州理事会を設立。 |
| 1975年のヘルシンキ条約で全欧安保協力機構(OSCE)の創設に貢献した。 |
| 1976年の総選挙で議会第一党の座をドイツキリスト教民主同盟(CDU)に奪われたが、FDPとの連立維持で政権に留まった。 |
| テロリスト集団ドイツ赤軍分派の活動、特に1977年の「ドイツの秋」と呼ばれる財界要人誘拐殺人・ハイジャックなどの一連の事態に対する彼の対処は、困難を伴いつつも妥協しない断固としたもので、テロリストによるルフトハンザ航空181便ハイジャック事件に際しては、テロ対策特別部隊GSG-9を投入して、それを果断に鎮圧した。 |
| シュミットの弁舌の才もその政権運営に大きく寄与した。 |
| アメリカのキッシンジャー国務長官とも親交のあるシュミットは、1977年には初めてNATOとワルシャワ条約機構との軍事力不均衡、特にソ連軍の中距離弾道ミサイルSS-20の危険を主張する。 |
| かくて彼の党派は1980年の選挙で、ソ連との戦略ミサイル制限交渉を進め、同時にアメリカ軍のパーシング2ミサイルを西ドイツに配備させるという「NATO二重決定」の主張に踏み切った。 |
| 彼は自らの政治的展望を1979年のソ連軍のアフガニスタン侵攻に対するNATOの対策と絡ませていた。 |
| この主張には国民の多くのみならず、平和主義路線をとって来た自党内からさえも批判が巻き起こった。 |
| この選挙でCDUからの第一党奪還は出来なかったものの、やはりFDPとの連立で議会での過半数確保を乗り切り、11月に首相としての再指名を果たすことが出来た。 |
| この間1981年10月に心臓にペースメーカーを付ける大病をしたが、快復している。 |
| 外交政策においてシュミットはこれまでの保守政権が行ってきた親イスラエル政策を改め、石油ショックの教訓からアラブ諸国へと接近し、1981年5月にはサウジアラビアを訪問してレオパルドⅡ戦車の売却を行った。 |
| これはイスラエル政府を激怒させ、イスラエルのベギン首相はシュミットが元ナチス・ドイツ軍の将校であった過去を取り上げて「総統ヒトラーに忠誠を誓った過去がある」と非難した。 |
| シュミットの社会民主主義的な社会・経済政策は、次第に政権維持の頼みの綱であるFDPとの溝を大きくしていった。 |
| FDPは自由主義経済と財政再建を主張し、予算案で対立が起きていた。 |
| 1982年、彼は連邦議会からの不信任案に競り勝つも、ついに9月17日、連立与党FDPの大臣4人が内閣を去った。 |
| シュミットは臨時外務大臣を兼任し、SPDのみでの少数与党で内閣の政権維持の試みを重ねたが、10月1日建設的不信任決議(罷免と同時に後任を任命する不信任決議)が成立、政権継続断念を余儀なくされた。 |
| これは、戦後西ドイツ史では初めての出来事である。 |
| 後任の首相にはCDU・FDPの賛成多数で不信任案決議を提出したCDU党首のヘルムート・コールが選出された。 |
言論人
| 首相を追われたことを受けてシュミットは1984年に党副党首を辞任。 |
| 1987年を最後に連邦議会からも去った。 |
| これまでSPD出身の連邦首相は彼を含めて三人いるが、党首を経験したことがないのはシュミットだけである。 |
| これはブラントという抗いがたい偉大な存在がいたことによる。 |
| 1983年、彼は週刊新聞「ディー・ツァイト」(DieZeit=時代)の共同編集者に就任した。 |
| 1985年にはその経営代表責任者に就任。 |
| この新聞はドイツ随一の高級オピニオン紙として評価が高い。 |
| 1983年には福田赳夫と共に協調行動評議会(InterActionCouncils)にも参加している。 |
| 1986年12月にはEMCを支援しヨーロッパ中央銀行の創設を側面から援助するための委員会の創設にもかかわった。 |
| そのほか多数の財団や基金の顧問といった名誉職に名を連ねている。 |
| 防衛、民主主義、グローバリゼーション、中国の台頭、自伝など、様々な分野で著書も多数。 |
| 彼は1987年の連邦議会議員引退後も政治については活発な発言を続けている。 |
| 現在のSPDの政策と反対に、トルコのEU加盟には真っ向から反対し、しばしば『ツァイト』にその理由を書いた論文を寄稿している。 |
| その関連において、「多文化共生社会は、インテリの幻想に過ぎない」と一蹴。 |
| また「同盟90/緑の党」との連立政権だったSPDのシュレーダー政権が決定した原子力発電所の全廃にも反対で、彼のいう「いわゆる地球温暖化に関するヒステリー」にも懐疑的な目を向けている。 |
| また第二次大戦で国防軍の行った戦争犯罪を取り上げた「国防軍の犯罪展」については「危険な極左」と激しく非難。 |
| その政治的主張は単純な右翼・左翼の分類には当てはまらない。 |
私生活・人柄
| 私生活では、大戦中の1942年に幼馴染のハンネローレ・グラーザー(「ロキ」という愛称で呼ばれる)と結婚。 |
| 1944年に障害を持って生まれた長男ヘルムートは1歳になる前に病死。 |
| 1947年に長女ズザンネが誕生し、ズザンネは現在ブルームバーグテレビジョン職員としてロンドンに在住している。 |
| シュミットの愛妻家ぶりは有名で、のちに党の後輩ゲアハルト・シュレーダーが首相になったとき、「私はロキとは70年の付き合いだ。 |
| 自然保護活動に熱心だったロキ夫人は、2010年10月21日にハンブルクの自宅にて91歳で先立った。 |
| シュミットの教派はプロテスタントだが、無神論者ではないが宗教は重視していないと発言している。 |
| 2007年には「アウシュヴィッツの蛮行を見過ごした神をもはや信じていない」と述べた。 |
| 教会は戦後道徳の再建にも民主主義や法治国家の建設にも寄与しなかったとも述べているが、道徳的な基盤として教会を認めている。 |
| 熱烈な喫煙者として知られ、90年代にテレビのトーク番組に出演したときも終始タバコを吸い続け、顰蹙を買ったことがある。 |
| 連邦議会の議場内は禁煙なので、やむを得ず審議中だけ嗅ぎ煙草を使った。 |
| モスクワの大クレムリン宮殿の「エカテリーナの間」の中でタバコに火をつけた唯一の人物でもある。 |
| 90歳となった2009年に日本のNHKで放送されたテレビ放送の取材でもタバコを手放すことはなかった。 |
| 熱狂的な美術愛好家でもあり、首相に就任した時はボンにある首相府の中庭にヘンリー・ムーアの作品「''TwoLargeForms''」を据えさせた。 |
| この彫刻は東西ドイツ再統一への願いを込めている。 |
| 執務室にエミール・ノルデの絵を飾り、入口の「首相執務室」と書かれた札を取り払って「ノルデの部屋」と掲げさせた。 |
| 自身もオルガンやピアノを弾くのが趣味で演奏家としてピアニストのクリストフ・エッシェンバッハ、ゲルハルト・オピッツらと共演してモーツァルトやバッハの曲をレコード録音したほどである。 |
| ただし近年は加齢により右耳はほとんど聞こえず、左耳にも補聴器をつけており、「音楽が聴けないのは食べられないより辛い」とのこと。 |
表彰
| ハンブルクにある連邦国防大学は、2003年に「ヘルムート・シュミット大学」と改称されている。 |
| オックスフォード大学、ケンブリッジ大学、ソルボンヌ大学、ハーヴァード大学、ジョンズ・ホプキンス大学、慶應義塾大学など多数の大学から名誉博士号を授与されている。 |
| 2007年にはマールブルク大学が名誉哲学博士号を授与したが、SPD右派で現実主義者の彼への授賞に、マルクス主義の影響が強い同大学の政治学教授の中から強い反対の声が上がった。 |
| さまざまな分野の賞を多数受賞しているが、ハンザ同盟都市ハンブルクの市民のしきたりに従って、ドイツ連邦共和国功労勲章のみは授章の打診が何度もあったが断った。 |
| ハンブルク州内相時代の功績であるハンブルク大洪水の時の様子は最近何度かドラマ化され、俳優のウルリッヒ・トゥクルなどがシュミットを演じている。 |
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1918年
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ヘルムート・ハインリッヒ・ヴァルデマール・... |
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1937年
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ハンブルクのリヒトヴァルク高校を卒業した後... |
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