| 1940年にフランクリン・ルーズベルト大統領はスティムソンを陸軍長官に復帰させた。 |
| 同時にやはり共和党員であるフランク・ノックスが海軍長官に任用されている。 |
| これらの人事は、危機的な世界情勢を背景に超党派の外交・安全保障政策を展開しようとの意図を持ったものである。 |
| スティムソンは、1,000万人以上の兵力にまでなる陸軍の急速で厖大な拡大を巧みに指揮した。 |
| スティムソンは真珠湾攻撃の10日前の日記に、有名で議論を巻き起こした一節を書き込んだ。 |
| 「差し迫った日本との戦争の証拠について議論するために、ルーズヴェルト大統領に会った。 |
| 問題は、『我々にあまり危険を及ぼさずに、いかにして彼ら(=日本)を先制攻撃する立場に操縦すべきか』」その直前にはコーデル・ハル国務長官からハルノートが日本に提示されていたのである。 |
| スティムソンは原子爆弾に関して、マンハッタン計画の長レズリー・グローヴズ准将を監督する主要な意志決定者だった。 |
| ルーズヴェルトと後任のトルーマンは共に、原子爆弾のあらゆる局面で彼の助言に従った。 |
| そして必要とされるときスティムソンは軍の意見を却下した。 |
| 例えばスティムソンの頭越しでグローヴズから受け取った原爆投下の目標リストのうち、文化の中心都市であるとして京都への投下に強硬に反対しリストから外させた。 |
| 1945年8月6日、最初の原子爆弾の攻撃が広島を破壊した。 |
| 戦後には、原爆投下に対する批判を抑えるための「原爆神話」を生み出した。 |
| スチムソンは、原爆投下に対する批判を抑えるために、「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」と表明(1947年2月)(ハーパーズ・マガジン,「原爆投下の決定」,米国内の道義的批判をかわすためにジェームス・コナントが依頼,100万人の根拠は特になく話の成り行きであった,その後原爆神話に発展,1947.5リーダーズダイジェスト日本語版に転載)。 |
| これが原爆使用正当化の定説となった。 |
| スティムソンは、ヘンリー・モーゲンソーによる、ドイツを脱工業化し小さい州に分割するモーゲンソー・プランに強く反対した。 |
| この計画は、ナチの戦争犯罪に対する責任の嫌疑がかかった者は誰でも追放か略式手続きによる投獄をすることも目論んでいた。 |
| ルーズヴェルトは当初、この計画に対して同情的だったが、スティムソンの反対に遭い、さらに計画が漏れて大衆の抗議に受けるに至って、彼は方針を転換した。 |
| こうしてスティムソンはドイツにおける米国の占領地域の全体的な統制を維持した。 |
| モーゲンソー・プラン自体は決して効力を発することはなかったが、初期の占領に影響を与えた。 |
| スティムソンはルーズヴェルトに、ロシアを含めたヨーロッパの10ヶ国がドイツの輸出入と原料生産に依存しており、そしてこの「エネルギーと活力と進歩主義」の民族によって支えられている「自然の贈り物」を「幽霊領土」あるいは「塵の山」に変えるがごときことは想像も及ばないと強く主張した。 |
| しかしながら、彼が最も恐れたことは、あまりにも低い生活水準しか生めない経済状態のために、ドイツの人々の怒りが連合国に向けられて、そのために「ナチの犯罪とナチの教義と行為の邪悪さがあいまいになること」だった。 |
| スティムソンは1945年の春、トルーマン大統領に同様の議論を迫っただけでなく、ドイツの無条件降伏に伴う悲惨な分割占領の状況を見聞するに及び、ジョセフ・グルー国務長官代理(元駐日大使)の発議による日本の無条件降伏の実質的な緩和を強く支持した。 |
| グルーの日米友好への願いのバトンを受けて、7月のポツダム宣言の起草にも影響力を行使した結果、8月に日本は国体(天皇制)を護持して降伏することができた。 |
| 弁護士でもあったスティムソンは、主要な戦争犯罪人に対して適切な司法の訴訟手続きを行うよう(ルーズヴェルトとチャーチル双方の最初の願望に反して)強く要求した。 |
| 彼と陸軍省は国際裁判所についての最初の提案を立案し、それは間もなく交代したトルーマン大統領から支持された。 |
| スティムソンの計画は、最終的に1945年-1946年のニュルンベルク裁判に結びつき、国際法の開発に重要な影響を与えた。 |
| スティムソンは1950年に死んだ。 |
| タフト内閣の閣僚としては最後の生存者であった。 |
| ワシントンD.C.にある、民間の国際関係研究所「ヘンリー・スティムソン・センター」は、スティムソンの名にちなんで名付けられた。 |