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詩人ボッカッチョと友人になったのもこの頃である。
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ペトラルカはまた、中世にはだいぶん形の崩れていたラテン語を古代ローマの古典的作品の形式にならって純正化することを考えた。
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各地へ旅行して、古代の写本を熱心に研究した。
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1326年に父の死を受けて、ペトラルカは教皇庁のあるアヴィニョンへ戻り、ジョヴァンニ・コロンナら、カトリックの聖職者のもとで書記として働いた。
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ペトラルカは詩人また学者として名声を博し、1341年にはローマにおいて桂冠詩人(poeta laureatus)の栄を受けた。
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ペトラルカの作品で、もっとも知られる作品はラウラと呼ばれる女性へ捧げられた一連の恋愛抒情詩群である。
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これは『カンツォニエーレ』(''Canzoniere'', 歌の本)と題された詩集にまとめられている。
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1327年、アヴィニョンのある教会でペトラルカはラウラの顔を初めて見たというが、この女性についてはほとんど知られていない。
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ラウラが実際に誰かについては諸説あり、ラウラという名前は、ペトラルカがこの女性に与えた変名である可能性もある(恋愛詩において相手の女性を匿名にすることは古典期のラテン詩人にも類例がある)。
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謎の恋人とペトラルカは、実際には交際を持たなかった可能性が強い。
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ペトラルカとラウラはその後、会うこともなく、1348年にラウラは死亡したという。
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ペトラルカはその後も、ラウラを失った悲嘆を歌う詩など、ラウラへ充てた詩を書き続けた。
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このほか『凱旋』『アフリカ』といった壮大な叙事詩も書き残している。
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ペトラルカは、後半生を北イタリアを旅行しつつ、学者として過ごした。
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生涯結婚しなかったペトラルカであるが、3人の子をもったことが知られている。
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子どもたちの母親は不詳であり、あるいはそれぞれの母親が異なる可能性もある。
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1347年と1354年、ローマの再興を図るニコラ・ディ・リエンツォのコーラ革命に期待を寄せるがコーラの失脚(処刑)で政治に失望する。
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1353年から8年間はミラノのヴィスコンティ家のもとに身を寄せるが、ミラノとフィレンツェは対立関係にあったため、友人ボッカッチョからも批判を受けた。
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1367年頃、ペトラルカはパドヴァに定住し、 宗教的瞑想のうちに最後の日々を送り、1374年にアルクァのエウガニアの丘で没した。
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2003年、ペトラルカの墓に葬られていた遺体が生理解剖に処された。
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遺体からは、ペトラルカが同時代人に比して長身だったことが伺われる。
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残念なことに、2004年に発表されたDNA鑑定からは、葬られていた頭蓋骨がペトラルカのものでないことが明らかにされた。