| ブラジル南東部のミナスジェライス州トレス・コラソンエスで生まれる。 |
| 出生と同じ時期に町に電気が敷設されたことから、発明王のトーマス・エジソンにちなんで「エドソン」(Edson)と名付けられたペレ2008、17頁。 |
| しかしペレの出生証明書には「エジソン」(Edison)と表記されており、この誤表記は現在も訂正されていない。 |
| 父親のジョアン・ラモス・ド・ナシメント(通称ドンジーニョ、:en:Dondinho)はサッカー選手でポジションはセンターフォワードを務めていたペレ2008、18-19頁。 |
| 180cm以上ある長身を生かし1試合にヘディングだけで5得点を決めた事もあるヘディングの名手でありリベイロ、レモス2008、16頁、ミナスジェライス州の州都ベロオリゾンテを本拠地とする強豪クラブのアトレチコ・ミネイロに所属していたこともあったが膝を痛めて退団。 |
| その後は小規模なクラブに所属し低い給与でプレーするなどサッカー選手としての成功とは無縁の人生だった{{#tag:ref|ブラジルのサッカーはイギリス人の父を持つチャールズ・ウィリアム・ミラー(:en:CharlesWilliamMiller)が1894年に英国留学から帰国後に競技の普及に努め、白人の富裕層のスポーツとして親しまれるようになった沢田2002、64-75頁。 |
| イタリア系やドイツ系やポルトガル系などの移民がそれぞれのクラブを設立し競い合ったが、その中のメンバーには黒人や黒人との混血児は除外されていた松岡1994、54-55頁。 |
| 1909年にドイツ系と黒人との混血であるアルツール・フリーデンライヒが初めてサッカークラブでプレーする事を認められ、1917年にCRヴァスコ・ダ・ガマが初めて黒人選手の導入に踏み切ったが、白人と黒人が共にプレーをするようになった後も人種差別は残されていた。 |
| 1930年代にはブラジル国内でプロリーグ設立の動きが始まったことで、多くの黒人選手や混血の選手がプロ選手としてクラブと契約。 |
| プロ選手として活躍することで社会的地位は向上させることが可能となり、その中でレオニダス・ダ・シルバが黒人選手として最初のスター選手となった。 |
| ペレの父であるドンジーニョはブラジルのプロサッカー黎明期の選手にあたる。 |
| 1944年にバウルのサッカークラブに移籍したことを契機に家族でサンパウロ州のバウルへ引越し、選手としてプレーを続けたが後に膝の故障が基で現役を引退したペレ2008、22頁。 |
| これにより収入が途絶え生活に困窮したが、ペレはドンジーニョの再就職先が見つかるまでの間、靴磨きの仕事で家計を助けていたペレ2008、22-25頁。 |
| 母親は厳格な人物でペレに対し経済的に不安定なサッカー選手ではなく高い教育を受け真っ当な職業に就くように厳しく躾けていたペレ2008、25頁。 |
| ペレは当初は飛行機の操縦士になることを夢見ていたペレ2008、26-27頁が、やがて父と同じサッカー選手を志すようになり、母の目を盗んで父からサッカーに必要な技術や心構えを学んでいったペレ2008、46-47頁。 |
| 「ペレ」の愛称はペレの父親の所属していたサッカークラブ、ヴァスコ・デ・サンロレンソのGKの「ビレ」(Bilé)のファンであったことに由来しているペレ2008、50-52頁。 |
| 当時のペレは幼かったことや、ミナス・ジェライス訛りもあって「B」の発音が出来ず「P」と発音していた。 |
| いつしかクラスメイトから自身も「Pelé」と呼ばれるようになったが、本人は少年時代はこの呼び名を好んでおらず、「エドソン」と呼ばれる事を望んでいた。 |
| そのため、時にはペレと呼んだ友人を殴り2日間の停学処分を受けた事もあった。 |
| またペレの愛称が定着するまでは父親の愛称である「ドンジーニョの息子」ペレ2008、53頁、家族からは「ジッコ」と呼ばれていたペレ2008、50頁ウィリアムズ2007、61頁。 |
| 1950年、ペレが9歳の時に地元ブラジルで1950FIFAワールドカップが開催された。 |
| 優勝候補の本命と目されていたペレ2008、54-56頁同国は1次リーグのスイス戦を引き分けた以外は無敗で勝ち上がり、最終戦のウルグアイ戦を迎えていたが、最終戦を前にブラジルはウルグアイに対し勝点でも得失点差でも上回っており、この試合で引分けに終わっても優勝が決まる状況だった。 |
| 同年7月16日のウルグアイ戦当日はペレの家にブラジルの勝利を祝おうと父の友人達が大勢訪れパーティを開きラジオの実況に聞き入っていたが、幼かったペレは大人と一緒にラジオの実況に聞き入るより外で友人達とサッカーをして遊ぶことに夢中になっていた。 |
| そしてブラジルが終了間際に失点し1-2で敗れ優勝を逃すと(マラカナンの悲劇)家中が深い悲しみに包まれ、パウルの街全体も静まりかえった。 |
| ペレはこの光景にショックを受けたものの、悲しみにくれる父を励まそうと{{Quotation|悲しまないで。 |
| いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから。 |
| 10代になると、バウル市の内外の複数のクラブを渡り歩き、2から3チームを掛け持ちしてプレーをするほどだったが、学業の方は疎かになり、母の意向に反して落第生になっていた。 |
| 1954年に地元のバウルACが下部組織(通称バキーニョ)を創設することに伴い、同チームに入団。 |
| そこで父の古くからの友人であり元ブラジル代表選手のヴァウデマール・デ・ブリト(:en:WaldemardeBrito)に出会い指導を受けることになった。 |
| ヴァウデマールはペレの才能に着目し、体のあらゆる部位を使ったボールコントロールの重要性、試合の流れを読むコツ、ボールのない所(オフ・ザ・ボール)での動きなどを厳しく教えペレ2008、62頁、選手として成長する上で父と同様に影響を与える事になったペレ2008、61頁。 |
| ヴァウデマールは他のクラブの指導をすることになりバキーニョを去っていったが、その後も連絡を取り合い15歳の時に両親を説得してサントスFCへの入団を取り持ったペレ2008、68頁。 |