| 彼の家系はメスティーソといわれる中国とフィリピンの混血の一族であった。 |
| メルカード家は中国・福建省の晋江から17世紀に渡りフィリピンの先住の女性と結婚した商人の末裔であり、元来の姓は「柯」といった。 |
| また母方のアロンソ家はスペイン人と先住民の混血の家系で、ホセの曽祖父は、日本からの移民と現地女性の末裔にあたる女性と結婚している。 |
| 初等教育を終えるとマニラにあるアテネオ学院(現在のアテネオ・デ・マニラ大学w:AteneodeManilaUniversity)に学び、1877年に学士号を取得した。 |
| さらに同校で土地測量の技術を学びつつ、当時のフィリピンの最高学府サント・トマス大学(w:UniversityofSantoTomas)で哲学を学んだ。 |
| その後、母が失明の危機に陥ると、サント・トマス大学で医学を学び始めた。 |
| しかし同大学を運営するドミニコ会員たちのフィリピン人蔑視の雰囲気に耐えられず大学を去った。 |
| リサールは父の反対を押し切って宗主国であるスペインのマドリッドに留学した。 |
| マドリード・コンプルテンセ大学で医学の勉強を続け、医師免許を取得すると、さらにハイデルベルク大学とパリ大学で医学の研鑽を積んだ。 |
| ちなみにリサールは語学の天才であり、アラビア語、スペイン語、中国語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、マレー語、ポルトガル語、ロシア語、タガログ語やフィリピンの諸言語を自在に操り、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語、日本語、サンスクリット語を理解したといわれている。 |
| ホセ・リサールは『ノリ・メ・タンヘレ(NoliMeTangere)』 |
| 両方ともスペイン語で書かれているが、スペイン圧政下に苦しむ植民地フィリピンの様子が克明に描き出されており、フィリピン人の間に独立への機運を高めた。 |
| リサールは政治的独立のみを目指す革命志向家というよりはフィリピン人たちの生活改善を願う改革者であった。 |
| バルセロナでスペイン在住のフィリピン人留学生たちを組織してプロパガンダ運動を始め、雑誌『ラ・ソリダリダード(LaSolidaridad)』 |
| そこで彼の打ち出した運動の方向性は以下のようなものであった。 |
| フィリピンはスペインの一地域であること。 |
| スペイン政府議会へのフィリピン代表派遣の権利が認められるべきこと。 |
| スペイン人の聖アウグスチノ修道会員、ドミニコ会員、フランシスコ会員でなくフィリピン人聖職者の養成を行うこと。 |
| 言論の自由が認められるべきこと。 |
| フィリピン人に法律的平等が与えられること。 |
| もしこれらの改革案が受け入れられていれば、リサールの著作にも何の問題もなかっただろう。 |
| しかし、スペイン人統治者たちはこのような暴力に訴えない提案すらも植民地支配を脅かすものであると危険視した。 |
| 1892年、マニラに戻ったリサールを待っていたのは辺地への追放であった。 |
| 容疑は「ラ・リガ・フィリピナ(LaLigaFilipina,フィリピン連盟)」という組織による破壊工作。 |
| ミンダナオ島のダピタン(Dapitan、現在のサンボアンガ・デル・ノルテ州にある)へ追放されたリサールは同地で病院と学校を作って住民の啓蒙に努めた。 |
| 1896年、秘密結社カティプナンが独立闘争(1896年革命)を開始すると、以前からリサールに目をつけていたスペイン官憲に逮捕され、マニラに送致され裁判にかけられ、暴動の扇動容疑で銃殺刑が宣告された。 |
| リサールの人物を惜しんだスペイン人官吏が国を出て、キューバで医療奉仕するなら処刑は取り消せると提案したが、リサールは断り、故国のために死ぬ事を選んだ。 |
| 処刑の前の晩に妹に手渡した遺言代わりの辞世の詩は、後に「ミ・ウルティモ・アディオス(''MiUltimoAdios'',『我が最後の別れ』)」と名づけられ、彼の祖国への熱い思いを伝えるものとなっている。 |
| 同年12月30日、マニラで銃殺された。 |
| リサールが処刑されたマニラ湾を見渡す地は現在、リサール公園(w:RizalPark、別名ルネタ公園LunetaPark)として整備されており、衛兵に24時間守られている記念碑があり、緑も多くマニラ市民の憩いの場所になっている。 |
| また、リサールは1888年に来日しており、1ヶ月ほど東京都(当時・東京府)内に滞在している。 |
| これを記念して東京の日比谷公園にはホセ・リサール記念像が設置されている。 |