| 再度メジャー昇格した1946年には、投手として32試合に登板し、4勝5敗をあげる一方で、外野手や代打としても起用され、合計55試合に出場。 |
| 11勝をあげた1947年を最後に投手以外の守備に就くことはなかったが、打力にも優れ、その後も代打等での出場は多かった。 |
| 1948年6月30日のデトロイト・タイガース戦ではノーヒットノーランを記録。 |
| その年20勝(14敗)をあげ、チームのワールドシリーズ制覇に貢献。 |
| (現時点でインディアンス最後のワールドシリーズ制覇)。 |
| 以後通算7回の20勝をあげ、ア・リーグ最多勝利を3回受賞。 |
| オールスターにも7回出場した。 |
| 1950年には自己最多タイの23勝(11敗)をあげた。 |
| その頃のインディアンスはボブ・フェラー、アーリー・ウィン、マイク・ガルシアと共に「四本柱」を形成。 |
| 1954年には再び自己最多タイの23勝(7敗)をあげ、チームのワールドシリーズ進出に貢献。 |
| しかし、ニューヨーク・ジャイアンツに敗れ、チームは以後41年にわたってワールドシリーズから遠ざかることとなる。 |
| 1956年の20勝(14敗)を最後に成績は下降し、0勝に終わった1958年限りで現役を引退。 |
| 背番号「21」はインディアンスの永久欠番となった。 |
| 引退後、インディアンス、フィラデルフィア・フィリーズ、カリフォルニア・エンゼルスでコーチやマイナー監督を務め、1966年にはエンゼルス傘下の3Aシアトル・エンゼルスをパシフィック・コースト・リーグ優勝に導く。 |
| 1970年途中にカンザスシティ・ロイヤルズの監督に就任。 |
| 1971年には85勝76敗をあげ、創設3年目のチームをア・リーグ西地区2位に導き、最優秀監督賞を受賞するが、4位に終わった1972年限りで退任。 |
| 1976年には全米記者協会の投票でアメリカ野球殿堂入りを果たす。 |
| 同年、ニューヨーク・ヤンキースの投手コーチに就任し、ビリー・マーチン監督の下、1976年のワールドシリーズ進出(シンシナティ・レッズに敗北)に貢献。 |
| 1977年にはシカゴ・ホワイトソックスの監督に就任。 |
| 同年は90勝72敗で地区3位と健闘したが、1978年に開幕から34勝40敗の時点でオーナーのビル・ベックに解任された。 |
| すると、今度はヤンキースのオーナージョージ・スタインブレナーが監督マーチンを解任し、その後任監督に就任。 |
| 残り68試合で48勝20敗の好成績で地区優勝。 |
| さらにリーグチャンピオンシップシリーズ(ALCS)でもロイヤルズを倒し、1978年のワールドシリーズでもロサンゼルス・ドジャースを倒してワールドチャンピオンに輝く。 |
| 翌1979年途中に解任され、再びマーチンが監督となる。 |
| そして1981年途中に、ジーン・マイケル監督解任の後を受けて再度ヤンキースの監督に就任。 |
| この時には11勝14敗に終わったが、この年はストライキによってシーズンが2分されており、前期優勝したチームは、ディビジョンシリーズを制して地区優勝。 |
| ALCSでもオークランド・アスレチックスを破って、再び途中就任でワールドシリーズに進出。 |
| しかしドジャースに敗れ、監督として2度目のワールドチャンピオンはならなかった。 |
| 1982年に開幕からわずか14試合(6勝8敗)で解任。 |
| その後はマイケルが代理監督を務め、さらにシーズン途中でクライド・キングが代理監督を務めてシーズンを全うした。 |
| 結局、ヤンキースでは2度のワールドシリーズを経験したが、全て年度途中での交代のため、指揮を執ったのはわずか172試合であった。 |
| 2000年1月11日にカリフォルニア州ロングビーチで死去。 |