| 1989年に、ヴォルガ自動車工場とイタリアのロゴシステムに関係する自動車販売会社「ロゴヴァズ」を設立して社長に就任する。 |
| ロゴヴァズは、自動車製造企業から、自動車を購入し転売することで多くの利益を上げ、さらに国産車のみならず外国車の販売にも手を出し、メルセデス・ベンツ、ゼネラル・モータースなどの公認ディーラーとなった。 |
| 巨利を手中にする一方で、ロシアン・マフィアを中心にベレゾフスキーと敵対する者も多く、1994年に自動車が爆破されるなど、いくつかの暗殺未遂事件に遭遇している。 |
| しかし、ベレゾフスキーは、その後も事業を拡大し、大手石油会社シブネフチ(シベリア石油会社)設立に奔走し、同社を買収し事実上、支配下に置いた。 |
| また、ソ連時代から国際航空会社として知られるアエロフロートなどロシア国内の優良企業の株式を矢継ぎ早に取得することに成功した。 |
| さらに各企業に融資するために金融部門では、アフトヴァース銀行、統一銀行をグループ傘下におさめた。 |
| ベレゾフスキーが最も力を入れた部門の一つに各メディアの買収が挙げられる。 |
| 国営放送のロシア公共テレビ(ORT)民放のTV6、ロシア有数の経済誌であるコメルサント紙、ネザビシマヤ・ガゼータ(独立新聞)、週刊誌アガニョーク、ヴラスティなどを次々に支配下に置き、恣意的な世論形成を通じて、1996年の大統領選挙では、エリツィン再選に貢献した。 |
| この選挙を機にベレゾフスキーを始めとする新興財閥(オリガルヒ)が政権内で影響力を増し、「ファミリー」と呼ばれる側近グループを構成していく。 |
| ベレゾフスキー自身も1996年10月いわば論功行賞で、ロシア安全保障会議副書記に就任し、チェチェン問題を担当する。 |
| 1997年同職を解任されるが、1998年4月CIS(独立国家共同体)執行書記に就任する。 |
| また、自分の影響力のある人物を政権に送り込み、政権運営に関与しエリツィン政権の「黒幕」とか「政商」の名をほしいままにした。 |
| 1998年9月にロシア金融危機の収拾のためにエフゲニー・プリマコフが首相に就任すると、政権の主導権を握ったプリマコフによって「ファミリー」に対し、圧力がかけられる。 |
| ベレゾフスキーも汚職を追及され、1999年3月にCIS執行書記を解任された。 |
| しかし、プリマコフの台頭を恐れたエリツィンがプリマコフを首相から解任したため、ベレゾフスキーは間もなく復権した。 |
| 1999年下院国家会議選挙で、政権与党「統一」の結成と選挙戦にはベレゾフスキーから大量の資金が流れたと言われる。 |
| また、大統領選挙同様、ORTを使い「統一」の宣伝を強力に推進し「統一」の勝利に貢献した。 |
| ベレゾフスキー自身もカラチャイ・チェルケス共和国の小選挙区から立候補し当選した。 |
| 下院議員としては、第二次チェチェン戦争に反対の立場を表明した。 |
| 2000年3月の大統領選挙では、ウラジーミル・プーチンを支持するが、プーチンは逆に新興財閥の影響力を削ぎにかかる。 |
| ベレゾフスキーは、プーチンに対して反対勢力を糾合しようとするが、一般市民の間で「国賊」扱いされ、敵の多かったベレゾフスキーは賛同者を得られず、逆に同年7月下院議員を辞職。 |
| さらに2001年ベレゾフスキーは保有していたORTの株式49%を、ロマン・アブラモヴィッチに売却する形で放棄せざるを得なかった。 |
| ロシア最高検察庁は、アエロフロート資金の横領疑惑などでベレゾフスキーへの追及を強め、逮捕を恐れたベレゾフスキーは国外に脱出した。 |
| 2002年10月、本人不在のまま、最高検察庁は、詐欺の罪でベレゾフスキーを起訴した。 |
| 現在イギリスに亡命中である。 |
| 亡命先のイギリスではプーチン政権に対する批判を続け、2007年4月13日付けのガーディアン紙のインタビューでは「プーチン政権を武力によって転覆しなければならない」と発言し、ロシア政府の反発を招いた。 |
| 2007年6月21日、ベレゾフスキーに対する殺人謀議容疑でロシア人男性1人がロンドンで拘束された。 |
| 前年にアレクサンドル・リトビネンコの毒殺事件が起こっており、イギリスはロシアに実行犯の身柄引き渡しを求めていた時期で、英国在住ロシア関係者の暗殺計画がロシアにある可能性が疑われ、両国の関係悪化に拍車がかかった。 |
| 容疑者は起訴されず2日後に釈放され、ロシアに強制送還された。 |
| 7月18日にベレゾフスキーはロンドンで記者会見を開き、指示を出したとしてプーチンを非難した。 |