| インディアンは文字を持たなかったので、現在彼女について知られていることはすべて後の世代に白人の文献を通して語られたものであり、現実の人物、一女性としての彼女の考え、感情、行動の動機などは分からないところが多い。 |
| それゆえ彼女にまつわる真偽不明の「物語」は、白人のアメリカ植民地化とインディアン戦争を美化させるだけのロマンティックな誇張のネタとしては完璧であり、「ポカホンタス」は合衆国の教科書にまで載る存在となり、アメリカ白人社会において、その死後何百年にも渡って「白人に味方した“良いインディアン”」、「悲劇の主人公」であり続けている。 |
| 1595年ごろ、テナコマカ(Tenakomakah)バージニア州の東部海岸の低地帯で、現在は「タイドウォーター・ヴァージニア」と呼ばれている」というポウハタン族の集落地で、一帯を領土とするインディアン部族「ポウハタン連邦」の高名な調停者ポウハタン酋長(本名はワフンスナコクWahunsunacockまたはワフンセナカウWahunsenacawh)の娘として生まれた。 |
| 本名はマトアカ(Matoaka)またはマトワ(Matowa)で、「ポカホンタス」とは、実際は彼女の戯れ好きな性格から来た「お転婆」、「甘えん坊」を意味する幼少時のあだ名だった。 |
| なおアメリカ現地における彼女の名の発音は「ポカンタス」に近い。 |
| 1607年、ポウハタン族の領土であるテナコマカに、イギリス人は「ヴァージニア植民地」を建設した。 |
| 当地の植民請負人は、ジョン・スミスというイギリス人だった。 |
| ジョン・スミスは元兵士で船乗りであり、大英帝国の植民請負会社であるヴァージニア会社に参加してヴァージニア初の入植地「ジェームズタウン」の建設に関わり、その後植民地指導者になった。 |
| ポウハタン族は彼らの国に入り込んできたスミスやその他の白人入植者たちと和平の調停を結び、彼らに食糧を援助し、両者に友好関係が築かれた。 |
| スミスはポカホンタス死後の1624年以後に、「1607年12月に、川を遡ってインディアンの土地を物色していたところ、ポウハタン族に拉致連行され、ポカホンタスの父ポウハタン酋長に処刑されかけたが、その時酋長の娘ポカホンタスが彼の前に身を投げ出して命乞いをしてくれ、おかげで無事生還できた」と吹聴した。 |
| このスミスの武勇伝は「美談」となり、インディアン社会に現在も禍根を残すこととなった。 |
| 1608年冬に、ジェームズタウンが飢餓に陥った時期にも、ポウハタン族は食料を届け、入植地を全滅の危機から救った。 |
| この時期ポカホンタスは「しばしば入植地を訪れ、白人の子供たちと遊ぶようになった」とされている。 |
| しかし実際には、ポカホンタスの村とジェームスタウンは約20㎞も離れており、しかもこれが事実なら厳寒の冬の、森林の雪中を10歳程度の子供が大人に同行してこの距離を往復することになる。 |
| これは現実離れした逸話であり、スミスの作り話と思われる「ポカホンタスの真実の物語:歴史の他側面(TheTrueStoryofPocahontas:TheOtherSideofHistory)」(2007年)、リンウッド・“リトルベアー”・カスタロー博士(Dr.LinwoodLittleBearCustalow)との共著。 |
| やがて白人の入植地拡大はインディアンの生命財産を圧迫し始めた。 |
| 植民地での食糧生産は計画通りに進まず、植民請負人のスミスは各地のインディアンの村で村人を人質に脅迫を行い、食料の略奪を行った。 |
| 白人がバージニアと名付けた土地のインディアンたちは恩を仇で返す白人の振る舞いに怒り、やがてこの侵略者たちに武力で立ち向かうようになった。 |
| スミスたちがやったのと同じように、インディアンたちも白人を人質に取った。 |
| ジョン・スミスはイギリスに帰ってから、「この時期に、ポウハタン族によるジェームズ・タウン襲撃をポカホンタスが知らせてくれたため、再び命を救われた」と吹聴したが、これもスミスの作り話と見られている『TheTrueStoryofPocahontas:TheOtherSideofHistory』(Dr.Linwood"LittleBear"Custalow,AngelaL.Daniel"SilverStar",FulcrumPublishing,2007)。 |
| 250px|thumb|「拉致されるポカホンタス」ヨハン・T・デ・ブライ画(1618年)。 |
| 1612年、イギリス人たちは「部族指導者(そんなものは存在しない)のポウハタン酋長の娘であるポカホンタスを人質にとれば、ポウハタン族は屈服するだろう」との思い込みで、ポウハタン族に捕らわれたジェームズタウン入植者の身代わりとしてポカホンタスを誘拐した。 |
| ジェームズタウンで捕虜となった彼女の解放条件として侵略者たちがポウハタン族に提示したのは、「イギリス人捕虜の解放」、「盗まれた武器の返還」、「トウモロコシによる多額の賠償の支払い」というべらぼうな条件だった。 |
| すでにインディアンたちは彼らの蓄えであるトウモロコシを、スミスらに強奪され続けてきていたのである。 |
| 拉致監禁されたポカホンタスは、何度も解放を懇願したがイギリス人たちはこれを許さなかった。 |
| 侵略者たちはポカホンタスを通訳として役立てようと、解放の条件として英語を教え込んだ。 |
| さらにジェームズタウンにキリスト教教会を二棟作ったアレクサンダー・ウィテカーよりキリスト教の洗礼を受けさせられた。 |
| この捕虜の時期に、ヴァージニアにタバコ会社を設立した白人のジョン・ロルフに目をつけられた。 |
| ロルフは妻を亡くし、独り身だった。 |
| ロルフは1614年4月5日に彼女と結婚し、マトアカの名を「レベッカ・ロルフ」と変えた。 |
| 「イギリス人に捕まる前に、彼女には一族の中に婚約者がいた」という説もあるが、そもそもインディアンの社会に「婚約」という習慣はない。 |
| 250px|thumb|left|美化されて描かれた「ポカホンタスの洗礼」(1840年、w:JohnGadsbyChapman|ジョン・ギャズビー・チャップマン画)。 |
| 彼らはジェームズ川のヘンリカス(Henricus)入植地の対岸にあるロルフのプランテーション「ヴァリナ農場」で生活した。 |
| 彼らの結婚生活は白人が期待した捕虜の奪還につながらなかったが、それでもジェームズタウンとポウハタン族の間にほんの数年間和平をもたらした。 |
| ヴァリナ農場で、ポカホンタスはトーマス・ロルフを生んだが、トーマスはロルフの実子ではない。 |
| 実の父親はトーマス・デール卿と見られている『TheTrueStoryofPocahontas:TheOtherSideofHistory』(Dr.Linwood"LittleBear"Custalow,AngelaL.Daniel"SilverStar",FulcrumPublishing,2007)。 |
| ヴァージニア植民地の出資者たちは、ジェームズタウンにイギリス本国からこれ以上新しい入植者を誘い出すのも、このような冒険的な事業に対する投資家を探すのも困難になったことを悟った。 |
| そこでポカホンタスを「マーケティングのエサ」にして、「新世界の野蛮な原住民が文明に馴らされたため、もはや植民地は安全になった」、とイギリス国民を納得させようとした。 |
| 1616年、彼女と夫ロルフは大英帝国に連れられ、1617年までの間ブレントフォードに住み、ジェームズ1世とその家臣たちに謁見した。 |
| 彼女はそこで「インディアンの姫」と紹介され、大英帝国にセンセーションを巻き起こした。 |
| ポカホンタスは、「新世界アメリカ」の最初の国際的有名人となり、より多くの投資と王の関心をヴァージニア植民地にもたらす試みは大成功に終わった。 |
| もちろん、インディアンの「酋長」は「王」でも「皇帝」でもないから、ポカホンタスを「姫」と紹介するのは全くの誤りである。 |
| しかし、これは続いて白人に、インディアン社会を「酋長が支配する部族集団」だと誤解させるきっかけとなった。 |
| ロルフはヴァージニアに戻ってタバコ栽培をすることを熱望した。 |
| ロルフ一行はジェームズタウンへ帰る船旅の途中、イギリスのケント州グレーブゼンドでポカホンタスは病気(天然痘、肺炎、または結核など、資料により異なる)になり、23歳前後で死去した。 |
| ポウハタン族とその氏族の一つ、マッタポニ族はポカホンタスの死因について、当時の状況から毒殺された形跡を指摘している。 |
| ロルフはポカホンタスを妻にしたが、息子のトーマスは彼の実の子ではなかったし、ロルフは病身のポカホンタスにさっさと見切りをつけてイギリスを離れたがっていた『TheTrueStoryofPocahontas:TheOtherSideofHistory』(Dr.Linwood"LittleBear"Custalow,AngelaL.Daniel"SilverStar",FulcrumPublishing,2007)。 |
| ポカホンタスの葬式はグレーブゼンドの「聖ジョージ教会」で1617年3月21日に行われた。 |
| のちに教会が改装される際に彼女の墓は壊され、現存していない。 |
| 現在、同教会の敷地には、彼女の銅像が設置されている。 |
| ポカホンタスの葬式が終わると、ロルフはトーマスをイギリスに置き去りにし、一人でバージニアに帰って白人女性と再婚した。 |