| 180px|thumb|茨の冠の祝祭(アルブレヒト・デューラー画、1506年)。 |
| 180px|right|thumb|晩年のマクシミリアン1世(アルブレヒト・デューラー画、1519年)。 |
| 1486年、神聖ローマ帝国の後継者ローマ王に選出された。 |
| ただし、ここでの「神聖ローマ帝国」とは、父フリードリヒ3世が中央集権化をドイツ語民族総体レベルで推進する意図をもって「ドイツ国民の」と形容しており、すでに世界帝国的な意味は持たなくなっていた。 |
| ドイツ諸候の賛同を得られない場合、ローマ王は戦費を自費で賄わなければならなかった三浦、p.156。 |
| 戦争を継続していたマクシミリアンは軍事費としてネーデルラントにビール税など新しい税を課したが、この一方的な増税は、古くから封建制や中央集権化と対立し、地方自立主義を堅持するフランドルの州や都市には受け入れがたいものであった『スイス・ベネルクス史』p.223-224。 |
| 不満を抱いた市民たちに、フランスが密かに接近して反旗を唆したことで1488年2月、ガン、ブリュージュ、イープルを首班とする親仏派のネーデルラント諸都市はマクシミリアンをフランスへ引き渡すべく彼の身柄を拘束し、ブリュージュの商人の屋敷に幽閉した。 |
| マクシミリアンは父フリードリヒ3世に助けを求め、同年5月にローマ王救出の帝国軍が派兵された。 |
| マクシミリアンは自由の身となりネーデルラントを後にした。 |
| 帝国軍は諸都市への攻囲を行ったが、マクシミリアンの信任を得ていたフィリップ・フォン・クレーフェが諸都市側に寝返って善戦したため、諸都市を陥落させるには至らなかった。 |
| 「ローマ王救出」という当初の目的が達成され駐留の意義を失った帝国軍は、同年8月頃から撤収を開始し、10月にフリードリヒ自身もネーデルラントから撤退した。 |
| この戦いで市民や商人が最も手ごわい相手となり、彼らと対立して窮地に追い込まれたマクシミリアンは異なる文化の統治の難しさを経験した。 |
| これ以降、彼は他の各地で商人たちを積極的に味方につける施政を摂るようになった。 |
| オーストリアに帰国した後、1489年に一族のチロル領主ジークムント大公とマクシミリアンの妹クニグンデの婿でバイエルン公アルブレヒト4世との間に紛争が持ち上がった。 |
| マクシミリアンは血縁でもある両者の仲介を行ったが、紛争の原因はジークムント大公が領地を抵当にバイエルン公から莫大な借金をしながら返済しないことであった。 |
| 1490年3月にマクシミリアンが借金ごとチロルを継承し、紛争は和解した。 |
| マクシミリアンはアルプスに囲まれた街インスブルックに都を置き、借金を返済のための経済改革に着手した。 |
| 当時のチロルは法律も整備されず、貴族が勝手に税金を取るなど、宮廷内部の汚職や腐敗が蔓延し、ジークムント自身も放蕩の限りを尽くしていた。 |
| マクシミリアンは6年間でチロルの腐敗を一掃し、借金の返済した。 |
| その手助けをしたのが商人たちで、中でもフッガー家のヤーコブ・フッガーには銀の採掘権を与えた。 |
| 引き換えに莫大な収益を上げ、そこから惜しみなく芸術へつぎ込まれた。 |
| また、チロルの鉱山から産出される豊かな資源を利用して、インスブルックに武器工場を建てた。 |
| 1490年、マクシミリアンはフランスを挟撃するためブルターニュ公国の継承権を持つアンヌ公女と婚約し、代理人を派遣して結婚式を挙げたT.ライトナー、p.83-84。 |
| 更にハンガリーに制圧されていたオーストリア諸都市の奪回を進め、同年8月ハンガリー軍からウィーンを解放した。 |
| しかし父フリードリヒ3世の命により対ハンガリー政策に専念せざるを得なくなり、アンヌとの正式な結婚は先送りにされた。 |
| 1491年、フランス王シャルル8世がブルターニュへ侵攻、首都レンヌを包囲し、孤立したアンヌに結婚を迫った。 |
| 同年12月6日アンヌはシャルル8世と結婚し、1492年2月15日ローマ教皇インノケンティウス8世がシャルルとアンヌの結婚の追認とシャルルとマクシミリアンの娘マルグリットとの離婚を特赦したため、マクシミリアンはアンヌとの婚姻によるブルターニュとの同盟を断念した。 |
| マクシミリアンは娘の帰国を要求し何ヶ月間もフランスと交渉を続けたが、マルグリットをフランスの侯爵と縁付かせ、彼女の婚資をフランスへ併合しようという目論みのため、交渉は平行線をたどった。 |
| マクシミリアンは自分と娘が世に笑い者にされた屈辱とフランスのあざとさに激怒し、開戦したT.ライトナー、p.85-86。 |
| 1492年10月、ネーデルラント叛乱軍の首魁フィリップ・フォン・クレーフェが帝国の将軍アルブレヒト・フォン・ザクセンに降伏し、ネーデルラント諸都市に対するハプスブルク家の統治が確立した。 |
| 同年12月、マクシミリアンはマルグリットの婚資としてフランスに併合されていたブルゴーニュ自由伯領(フランシュ=コンテ)に侵攻、翌1493年3月にはブルゴーニュ自由伯領のほぼ全域を奪還し、フランス側の譲歩を引き出すことに成功した。 |
| 1493年5月23日、サンリスの和約が締結され、マルグリットのフランスからネーデルラントへの帰国とブルゴーニュ公の遺領分割が決定された。 |
| この時からハプスブルク家とフランス王家の長きにわたる対立が決定的になった。 |
| 1493年8月、父の死に伴い神聖ローマ皇帝に選出された。 |
| 大空位時代以降、皇帝位は諸家の間を変遷していたが、これ以後はハプスブルク家による世襲が確定していく。 |
| しかし、マクシミリアンのローマ訪問はヴェネツィアの反対により阻止されたため、彼はトリエントで帝位についた。 |
| マクシミリアンはローマでの教皇による戴冠を経ずに帝位についた最初の皇帝となり『オースリア史』p.206-207それまで神聖ローマ皇帝はローマで教皇により戴冠される習わしであった。 |
| 、これを機にカトリックを後ろ盾とする皇帝の権威はローマと教皇から離脱することになった。 |
| 各地を領有するマクシミリアンには、領地の歴訪や旅の頻度が増加していった。 |
| -->彼はミラノ公国のスフォルツァ家の公女ビアンカと再婚し、ミラノを事実上の支配下に置いた。 |
| イタリア進出を図ったが、そのためにフランス王シャルル8世の野心が引き起こしたイタリア戦争に巻き込まれることとなった。 |
| 1495年、ヴォルムスにて帝国議会を召集し、イタリア戦争の戦費の援助を諸侯に要請した。 |
| 皇帝の窮状を見たマインツ大司教(選帝侯)ベルトルト・フォン・ヘネベルクをはじめとする聖俗の諸侯は、帝国と皇帝権力の分離を要求し、マクシミリアン1世はこれに抵抗するも妥協を余儀なくされ、永久ラント平和令発布、帝国最高法院、帝国統治院の設置、帝国議会の整備などの内政改革が行われた。 |
| 以後、神聖ローマ帝国は中央集権的ではなく領邦国家の連合としての道を歩むことになる。 |
| 1496年、フランス国王シャルル8世の動きを封じるため、2人の子フィリップ美公とマルグリットをカトリック両王の子女と結婚させた(後述)。 |
| 1508年、ローマでの戴冠を妨害したヴェネツィア共和国に対し攻撃を開始する(フリウリ戦争)。 |
| 戦争は膠着したが、マルグリットによりフランス、教皇、スペインによるカンブレー同盟(対ヴェネツィア同盟)が成立した。 |
| しかしフランスがヴェネツィアとの戦いに勝利し、同盟内で突出し始めると、教皇をはじめ他の同盟国イングランドやスイスが反発し、これに対抗する動きが出た。 |
| 1511年、教皇主導の対仏同盟、神聖同盟を結成する。 |
| 1512年、「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という言葉を使用し、神聖ローマ帝国の版図がもはやドイツ語圏及びその周辺に限られること、世界帝国の建設という目的の放棄を明確にした。 |
| 1513年、イングランド王ヘンリー8世と連合し、ギネガテの戦いでフランスを撃破する。 |
| しかし1516年にブリュッセルで和議を締結、さらにその2年後にヴェネツィアとも和睦が成立した。 |
| 1515年、ウィーン会議でハンガリー王国を治めるヤギェウォ家との二重婚姻を決定し、孫フェルディナント1世に始まるハプスブルク君主国の成立を方向づけた。 |
| インスブルックの宮廷教会内に霊廟を準備していたが、24,000グルデンの借金を理由に滞在を拒否されており、遺言により遺体は母エレオノーレが眠るヴィーナーノイシュタットの聖ゲオルク教会に埋葬された。 |
| しかし心臓だけはブリュージュ(ブルッヘ)の聖母教会にある最愛の妻マリーの墓に共に埋葬された。 |