| 今度の行先は日本で、ドイツ・日本との二正面戦争を避けたいソ連のために、日本とソ連の紛争を回避する工作だった。 |
| 1932年に先に日本に赴いていたゾルゲには、ブルーノ・ヴェントという無線技術者がモスクワからあてがわれていたが、性格的にも技術的にも難があると見たゾルゲはヴェントを帰国させ、旧知のクラウゼンの派遣をモスクワに申請したのであるNHK取材班・下斗米伸夫『国際スパイゾルゲの真実』角川書店、1992年、p100。 |
| ヴェントは日本では「ベルンハルト」という偽名で活動しており、諜報団が検挙された後の供述調書や獄中手記でもその名前で記載されているため、古い文献ではベルンハルトとなっているものがある。 |
| クラウゼンは1935年11月25日、東京に到着。 |
| 友好国ドイツの国民として正規のパスポートで赴いたため、日本入国には何の問題もなかった。 |
| 彼は上司のゾルゲと毎週火曜日の午後2時から4時に、偶然を装って山王ホテルで接触・連絡することになった。 |
| 彼には「フリッツ」という暗号名がつけられる。 |
| 日本に支店を開く商社員を装ってナチス党員のドイツ人と知り合い、以後はドイツ大使館員やジャーナリストが出入りするドイツ人経営の店で会うようになった。 |
| またフランスの通信社員で同じくソ連工作員のブランコ・ヴケリッチと接触し、彼の家で通信機を組み立てた。 |
| クラウゼンの妻アンナは直接日本に来ず上海に赴き、ドイツ総領事館に結婚を申請してドイツ国籍を取得、ドイツ人の正規パスポートで東京に来た。 |
| 1936年2月、別のドイツ人工作員の家でウラジオストクとの通信を開始。 |
| 通信は安全のため時々場所を変えて行われ、茅ヶ崎の農家からも発信した。 |
| また妻アンナはクーリエとして上海と日本を18回も行き来して、フィルムや日本・ドイツ当局の機密書類を運んだ。 |
| クラウゼンは工具製作所を経営するドイツ人の元で働いていたが、やがてドイツからのオートバイ輸入業を始め、独自にコピー機製作所「クラウゼン商会」を経営した。 |
| その仕事で日本の軍人や実業家、大学教授に知遇を得た。 |
| その関係のおかげで、アンナは日本軍将校のはからいで日本の軍用機で上海に赴いたことさえあった。 |
| 1938年からは通信を暗号化し、最後まで日本側は暗号を解読できなかった。 |
| 満州で日本とソ連による国境紛争が起きた時、クラウゼンは即座に日本軍の動きを打電した。 |
| 東京にはドイツの情報部員もおりゾルゲは監視されていたが、馬脚を現すことはなかった。 |
| しかし暗号化作業や偽装工作は心身に重圧を与えるものであり、1940年にクラウゼンは心臓発作で倒れ、ドイツ人医師の治療を受けて箱根で静養している。 |
| やがて第二次世界大戦の緊迫する情勢の中、上海との連絡が難しくなり、東京のソ連大使館にいる担当領事との接触で連絡を取るようになった。 |
| これは危険を伴うので今まで避けられていたのだが、なおも暴露されることはなかった。 |
| 1941年3月5日、クラウゼンは「ドイツ軍50個師団がソ連侵攻のため準備されている」という情報を送った。 |
| 5月には「ドイツ軍の規模は150個師団、期日は6月15日(実際は22日)」という詳細な情報を送ったが、モスクワはこの情報を疑った。 |
| しかし現実に独ソ戦が始まり、情報の正確さが証明された。 |
| さらに9月、クラウゼンは日本軍がソ連極東に対する攻撃に乗り出すことはないという情報を送った。 |
| これにより極東ソ連軍がヨーロッパに送られ、ドイツ軍の進撃を止めた2005年にハイナー・ティンマーマン(HeinerTimmermann)は、ソ連は1941年時点ですでに日本の暗号解読に成功しており、ゾルゲやクラウゼンの働きは従来言われているより重要ではなかったとする研究を発表している(HeinerTimmermann,''Spionage,Ideologie,Mythos-derFallRichardSorge'',Münster2005)。 |
| ゾルゲのグループは1936年から5年間で805の通信を行い、うち363が司令部や大臣に届けられる重要情報だったといわれる。 |
| 日本側が傍受していたのはそのうち4分の1に過ぎなかったとクラウゼンは回顧している。 |