| 最初期のオリンピックテニス競技は、国単位ではなく個人でエントリーしたことから、男子ダブルスや混合ダブルスでは違う国の選手がペアを組む「混合チーム」も存在した。 |
| デキュジスは1902年から全仏選手権で活躍を始め、この年から1909年まで男子ダブルスに8連覇を達成する。 |
| 男子シングルスは翌1903年に初優勝した。 |
| 最初期の全仏選手権は、選手のフルネームや試合結果に正確な記録が残っていないものが多い。 |
| そのため、デキュジスの優勝スコアや対戦相手もかなりの記録が欠落している。 |
| 1900年代のデキュジスは、同僚選手のモーリス・ジェルモー(1882年-1958年)とダブルスのペアを組んだり、シングルス決勝で対戦することが多かった。 |
| 1906年のアテネ中間五輪で、デキュジスは男子シングルス・男子ダブルス・混合ダブルスの3部門すべてに金メダルを獲得する偉業を達成した。 |
| 男子シングルス決勝ではジェルモーを6-1,7-9,6-1,6-1で破り、男子ダブルスではジェルモーと組んで地元ギリシャのペアに勝ち、混合ダブルスでは妻のマリー・デキュジス(1884年-1969年)と組んで、3つの金メダルを獲得した。 |
| (この中間五輪も、現在はオリンピックの公式記録に数えられない)。 |
| 全仏選手権で優勝記録を積み重ねながら、デキュジスは1911年のウィンブルドン選手権でも男子ダブルス優勝の偉業を達成した。 |
| この大会では、最大の親友であったジェルモーではなく、アンドレ・ゴベール(1890年-1951年)とペアを組んで出場した。 |
| デキュジスとゴベールは、決勝でジョシア・リッチー(イギリス)&アンソニー・ワイルディング(ニュージーランド)組を9-7,5-7,6-3,2-6,6-2で破り、フランス人のテニス選手として最初のウィンブルドン優勝者になった。 |
| 1914年までの間に、デキュジスの全仏優勝回数は男子シングルス8勝、男子ダブルス12勝、混合ダブルス6勝にのぼった。 |
| この年に第1次世界大戦が勃発し、全仏選手権は1920年まで開催が中止された。 |
| 第1次世界大戦の終結から1年半後、1920年から全仏選手権も6年ぶりに再開された。 |
| デキュジスも戦争による6年のブランクの後、再び大会に戻ってくる。 |
| 38歳になったデキュジスは、モーリス・ジェルモーと組んだ男子ダブルスとスザンヌ・ランランとの混合ダブルスでは復活優勝を果たしたが、男子シングルス決勝ではアンドレ・ゴベールに3-6,6-3,6-1,2-6,3-6で敗れた。 |
| デキュジスは同年のアントワープ五輪にも出場し、スザンヌ・ランランとペアを組んだ混合ダブルスで金メダルを獲得した。 |
| 男子ダブルスでは、ピエール・アルバランと組んで銅メダルを獲得している。 |
| デキュジスとアルバランは、男子ダブルス準決勝でイギリスのマックス・ウーズナム&オズワルド・ターンブル組に敗れたが、準決勝敗退の2組による銅メダル決定戦を制し、同じフランスペアのジャック・ブルニョン&フランソワ・ブランシーに勝って銅メダルを獲得した。 |
| (この大会の男子ダブルスは、日本の熊谷一弥&柏尾誠一郎組が銀メダルを獲得した)。 |
| デキュジスの最後の全仏男子シングルス決勝戦は、1923年にフランソワ・ブランシーに敗れた準優勝であるが、この時は41歳を迎えていた。 |
| 終戦後に再開された全仏選手権からは、試合結果や選手の名前も正確な記録が行われるようになった。 |
| 1925年から全仏選手権は国際大会となり、フランス人以外の選手にも出場資格が与えられるようになったが、デキュジスの長いテニス経歴はその前に終わっている。 |
| 選手引退後のデキュジスについてはあまり知られていないが、彼は長寿にも恵まれた。 |
| 全仏選手権の黎明期を築いたマックス・デキュジスは、96歳の誕生日を迎える18日前の1978年9月6日にフランス・ビオットで亡くなった。 |