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プロフィール
- マリオ・ルミューとは
- 初期
- 1985-1986 シーズン
- 1986-1987 シーズン
- 1987-1988 シーズン
- 1988-1989 シーズン
- 1989-1990 シーズン
- 負傷
- 1990-1991 シーズン
- 1991-1992 シーズン
- 1992-1993 シーズン
- 度重なる負傷
- 1995-1996 シーズン
- 1996-1997 シーズン
- 引退後
- 受賞歴
- 国際試合出場
マリオ・ルミュー(MarioLemieux、1965年10月5日-)はカナダケベック州モントリオール生まれのプロアイスホッケー選手である。フランス系カナダ人で、Lemieuxには「至上(thebest)」の意味があるが、まさにその名のとおりの名選手で"LeMagnifique"、"TheMagnificentOne"、"SuperMario"などと愛称される。多くのホッケー評論家は、その技術、身体能力の高さ(身長193cm、体重104kg)からも、ルミューをNHL史上屈指の選手と評価している。ポジションは、センター。
初期
| マリオ・ルミューは、建設作業員であったフランス系カナダ人のジャン・ギイ(Jean-Guy)と同じくフランス系の「ホッケー・ママ子供のアイスホッケーを熱心に援助する母親。 |
| カナダでしばしば見られる)」PierretteLemieuxの間に三人兄弟の末っ子(兄の名はリシャールとアラン)として1965年10月5日ケベック州モントリオールで生まれた。 |
| 母親が冬の間に絨毯を綺麗に保つために雪を敷き詰めたリビングルームでルミューはスケートを学んだ。 |
| 少年時代のルミューのアイドルはモントリオール・カナディアンズのセンター、ギイ・ラフレールであった。 |
| 幼い時からホッケーの神童と認められ、9歳頃からルミューの名前は地元紙に載るようになり、十代になると北米のホッケーファンでその名を知らないものはいない程であったと伝えられる。 |
| 当時カナディアンズのヘッドコーチであった伝説の人スコティ・ボウマン(ScottyBowman)は、その若き才能との契約を保証するため、ルミューの所属していたチームを買収することを提案したとされる。 |
| ケベック・メジャー・ジュニアホッケーリーグ(QuebecMajorJuniorHockeyLeague、QMJHL)のLavalVoisinsで大活躍(3シーズン通算200試合、247ゴール、315アシスト、562ポイント)をした後、1984年NHLドラフト第1巡目第1位でピッツバーグ・ペンギンズに指名され、その潜在能力を評価するために、ルミューにはウェイン・グレツキーの背番号99を上下逆にした背番号66が与えられた(グレツキーは、この5シーズン前にエドモントン・オイラーズに加入し、数々の記録を塗り替えていた)。 |
| 当時のペンギンズはいわばNHLのお荷物チームで、ルミューの入団前には2年連続最下位(1983-1984シーズンには16勝58敗6引き分け)で終わり、フランチャイズ移転の瀬戸際にあってチームの未来はひとえに弱冠18歳のルミューの双肩にかかっていた。 |
| プロ入り初試合では、後に殿堂入りを果すことになるボストン・ブルーインズの名ディフェンスレイ・ボーク(RayBourque)からパックを奪うとそのままゴールを決めた。 |
| これは初シフトにおける初ショットであった。 |
| この後も着実に得点を重ねプロ初年度を終わってNHL史上3人目となるシーズン99ポイントを上げ、カルダー記念賞(リーグ新人王)を獲得した。 |
| また、先立って行われたオールスターでは、ルミューはルーキーとしては史上初の最優秀選手賞を受賞した。 |
1985-1986 シーズン
| 2年目となった1985-1986シーズンは、141ポイント(48ゴール、93アシスト)をあげ、ポイント数でウェイン・グレツキーの215(2009年1月現在NHLの最高記録)に次ぐ2位で終えた。 |
| しかし、この年レスター・B・ピアソン賞(NHL選手が選ぶ最優秀選手賞)を獲得し、グレツキーの5年連続受賞を阻んだ。 |
| また、ペンギンズの成績も、ルミューの得点能力により前年度よりも27ポイント向上した。 |
1986-1987 シーズン
| ルミューは翌年度まで尾を引いた怪我のため17試合に欠場するが、ポイント数ではエドモントン・オイラーズのラインメートであるグレツキー(183)、ヤリ・クリ(JariKurri)(108)に次ぐ、3位の記録を残した。 |
| また、1987年晩夏には、国際トーナメントのカナダ・カップでグレツキーらとカナダチームに参戦した。 |
| このトーナメントでルミューは主にグレツキーと同じラインでプレーし、最多ゴールを上げるとともに、旧ソビエト連邦チームとの試合では決勝点となる延長戦ゴールを決めた。 |
| ルミューを含む多くの選手が、このシリーズこそがプロ選手としての転機であり、ルミューも自身の限界まで攻撃力を発揮することができたと認めている。 |
1987-1988 シーズン
| ルミューは、グレツキー並みのペースで168ポイントを重ね、自身初のアート・ロス記念賞(リーグ得点王)を獲得する。 |
| グレツキーの連続得点王の記録はここに7年で途絶え、当時としては歴代4人目(他にフィル・エスポジト、グレツキー、ヤリ・クリ)となるシーズン70ゴールに到達した。 |
| また、1試合平均のポイント数では、史上2人目(他にグレツキー)となる平均2ポイント以上(77試合168ポイント)を達成した。 |
| シーズン終了後、ルミューは自身初のハート記念賞(シーズン最優秀選手賞)を獲得した。 |
| 先立って行われたオールスターでは、延長戦での決勝点を含む6ポイント(3ゴール、3アシスト)を上げ、2度目の最優秀選手賞を獲得した。 |
| しかし、所属のペンギンズは、ルミューの個人的な活躍とは裏腹に6年連続でプレイオフ進出を果せずにいた。 |
| なお、このシーズン序盤で怪我をしたFrawleyが12月にキャプテンの座をルミューに譲った。 |
1988-1989 シーズン
| ルミューは、この年自己の持つポイント、ゴール、アシストの記録をすべて更新する。 |
| 負傷で4試合に欠場したにもかかわらず、199ポイントを上げ、グレツキーの168ポイントを上回って得点王に輝く。 |
| ゴール数は史上2人目の80以上となる85で、これは当時、グレツキーの保持していた92ゴール、87ゴールに次ぐ3位の好成績であった(なお、1990-1991シーズンにブレット・ハルは86ゴールを上げ、ルミューの記録を更新した)。 |
| また、アシスト数も史上3人目の100以上となるリーグトップの114(グレツキーとタイ)を上げた。 |
| 総合ポイントにおいては、グレツキーのみが達成した200ポイント越えにわずか1ポイント及ばなかった。 |
| また、ルミューはグレツキーの持っていた敵のパワープレイ下でのゴール数記録を更新する13ゴールを上げた。 |
| さらに、極めて数少ない「50試合50ゴール・クラブ」のメンバーにもなった。 |
| 当時のメンバーには、モーリス・リシャール(MauriceRichard、1回)、マイク・ボッシー(MikeBossy、1回)、ウェイン・グレツキー(3回)が居るだけであった。 |
| また、その後にはブレット・ハルが2回達成している。 |
| 1988年12月31日の対ニュージャージー・デビルス戦において、ルミューは史上初の5通りの異なる状況下でのゴールを1試合で行うという芸当を演じた。 |
| この5つの状況とは、敵味方の選手数がイーブン、味方のパワープレー、敵のパワープレー、敵の6人プレー(敵が自らのゴールを放棄)そしてペナルティショット、である。 |
| さらに特筆すべきは、ペンギンズは過去7年間で初めてのプレーオフ進出を果したことで、第2ラウンドで敗れはしたものの、ルミューは11試合で12ゴール、17ポイントの活躍を見せた。 |
| 特に1989年4月25日、対フィラデルフィア・フライヤーズ戦では、ルミューはプレイオフタイ記録となる1試合5ゴール8ポイントを記録し、ペンギンズの10対7の勝利に貢献した。 |
1989-1990 シーズン
| このシーズンは、ルミューにとっても、またペンギンズにとっても期待はずれに終わった。 |
| 1989年のハロウィン頃には、1試合平均で1ゴールを上げていたが、終わってみればシーズン46ゴールにとどまった。 |
| これは、シーズン途中のニューヨーク・レンジャース戦で背中の痛みを訴え、その後シーズン終了まで欠場を余儀なくされたためである。 |
| ピッツバーグのメロンアリーナで開催されたオールスター戦では、ルミューは第1ピリオド3ゴールを含む4ゴールを上げて3回目の最優秀選手賞を獲得する。 |
| ルミューは、ペンギンズのプレイオフ進出がかかったシーズン最終戦に出場する。 |
| この試合、引き分け以上であれば、スタンレー・カッププレーオフ進出であったが、延長戦の末バッファロー・セイバーズに敗れた。 |
負傷
| ルミューの背中の痛みは、夏になっても鎮まらず、後に脊椎骨骨折と診断された。 |
| 背中の手術を受けその回復の過程で、極めて稀な感染症にかかっていることが判明し、数ヶ月の療養生活を余儀なくされた。 |
| このため、ルミューは25歳の若さで引退するのではとの憶測も飛び交った。 |
1990-1991 シーズン
| ペンギンズは、シーズンの大半で首位争いをし、1991年1月にはルミューの才能に敬意をこめて出場機会を与える余裕があった。 |
| ルミューは、期待にこたえてチーム初となる地区優勝に貢献し、チームは彼の輝かしい現役生活でたった2度目のプレイオフに駒を進めた。 |
| そして、この年チームはスタンレー・カップに優勝し、ルミューは、44ポイント28アシスト(いずれも2005年現在でプレイオフ史上2位の記録)コーン・スマイス賞(プレイオフ最優秀選手賞)を獲得する。 |
1991-1992 シーズン
| ルミューは、リーグ首位の131ポイントを上げ、自身3度目のアート・ロス記念賞を獲得する。 |
| ペンギンズは、2年連続でプレイオフに進むが、ルミューは第1ラウンド第1試合の対ワシントン・キャピタルズ戦を背中の痛みにより欠場する。 |
| ルミューはその後復帰し1勝3敗の土壇場であったチームを盛り返す6試合17ポイントの活躍を見せ第7戦でこのシリーズを制した。 |
| しかし、ルミューは第2ラウンド第2試合の対ニューヨーク・レンジャース戦でアダム・グレイブスの悪質なスラッシングを受け手を骨折し、この第2ラウンド残り試合に出場することが不可能となった。 |
| ペンギンズは、第2ラウンドも勝ち上がり、ウェールズ地区の決勝に進出した。 |
| ルミューはこのシリーズ第2試合から出場し、ペンギンズはこの後1ゲームも敗れずに2年連続のスタンレー・カップを獲得する。 |
| ルミューはプレイオフ戦6試合に欠場したにもかかわらず、たった15試合で16ゴール34ポイントと他を寄せ付けない記録を残し、これも2年連続でコーン・スマイス賞を受賞した。 |
| このコーン・スマイス賞の連続受賞は、ルミューの他にはフィラデルフィア・フライヤーズのゴーリー、バーニー・ペアレント(BernieParent)が、1974年、1975年に達成しているのみ(2005年現在)である。 |
1992-1993 シーズン
| 3年連続スタンレー・カップ優勝を目指し、チームが力強くスタートを切ったこのシーズンで、ルミューはグレツキーのシーズン92ゴール(1981-82シーズン)、215ポイント(1985-86シーズン)に並ぶようなペースを見せた。 |
| ところが、1993年1月になって、ルミューはホジキン病(悪性リンパ腫)と診断され、体力を著しく消耗させる放射線治療を受けることとなり、一時は選手生活はおろかその生命すら危ぶまれた。 |
| ルミューは、結局2ヶ月欠場しただけで復活を果すが、スーパースターを欠くペンギンズは悪戦苦闘し、またルミュー自身も病気の診断を受ける前には安全圏にあると見られたシーズン得点王のタイトル争いでも、バッファロー・セイバーズのパット・ラフォンテーヌ(PatLaFontaine)に12点差で水を開けられていた。 |
| 最後の放射線治療を終えたルミューは、病院からアリーナに急行し同日夜に行われたフィラデルフィア・フライヤーズ戦に出場、1ゴール1アシストを記録した。 |
| ここから、チームとルミューの残りシーズン快進撃が始まる。 |
| チームはNHL記録となる17連勝で地区首位、ルミューは2年連続の得点王に輝いた。 |
| ルミューは、わずか60試合で160ポイント(当時史上4位、69ゴール、91アシスト)を記録し、84試合で148ポイントを上げたラフォンテーヌを12ポイント上回る、NHL史上最少試合での得点王となった。 |
| 特にルミューが終盤見せた活躍はすさまじく、ライバルのニューヨーク・レンジャース戦では、連続試合4ゴール、そして1試合5ゴールを上げ、たった16試合で27ゴール、24アシスト、51ポイントの記録を残した。 |
| しかし、チームは第1ラウンドでニュージャージー・デビルスを第5試合で下したものの、第2ラウンドではニューヨーク・アイランダースに対し、第7戦でDavidVolekに延長ゴールを決められ敗れた。 |
度重なる負傷
| ルミューは、1993-1994の大半を欠場する(出場は22試合のみ)。 |
| また、NHLのロックアウトにより短縮された翌1994-1995シーズンのすべてを、慢性化した背中の痛みの治療手術、そして放射線治療の後遺症からの回復のため欠場した。 |
1995-1996 シーズン
| 1995年の夏には、ルミューのNHL復帰が発表された。 |
| そして、シーズンが終わってみれば、70試合に出場し成績は161ポイント(69ゴール、92アシスト)、味方パワープレイでのゴール31、敵パワープレイでのゴール8で、自身5度目のアート・ロス記念賞を獲得した。 |
| チームは、東部カンファランス決勝に進出し、第7試合でフロリダ・パンサーズに敗れた。 |
1996-1997 シーズン
| このシーズンがルミューの現役最後のシーズンとの見方が大勢を占める中で、彼はまたも得点王(122ポイント)に輝く。 |
| 彼のレギュラーシーズン最終試合は故郷のモントリオールで開催され、NHL記録となる1ピリオド4得点を上げた。 |
| ペンギンズはプレイオフに進出したが、フィラデルフィア・フライヤーズに5試合目で敗れた。 |
| ルミューはプレイオフにおけるホーム最終戦の最終シフトでゴールを上げ、その2日後敵地でも得点を決めるとフィラデルフィアの観客からもスタンディングオベーションを受けた。 |
| こうして、ルミューは数々の故障を抱えながら、NHLでの現役生活に別れを告げた。 |
| 1997年夏には、3年間の待機期間を待たずして特例で引退後ただちにホッケーの殿堂入りを果した。 |
引退後
| 1999年9月3日、米国破産裁判所は、ルミューの提案したピッツバーグ・ペンギンズを破産から救済するための事業再生計画を承認した。 |
| この計画は、ルミューがチームを買収し、前オーナーの未払い債務を承継し、フランチャイズの移転はせず、自身の年俸の未払い分を据え置きにしたままで引退選手としては初のかつて在籍していたチームのオーナーとなるというものであった。 |
| ルミューは、チームの理事会長、CEO、会長にも就任した。 |
| 2000年の終わりには、ルミューの現役復帰の噂が立ち上がり、事実12月27日にはNHLに復帰した。 |
| 2000-2001シーズンには43試合に出場したのみであるが、ハート記念賞の最終選考の3選手に残るとともに、ポイント数では76を上げた(NHL全選手中10%以内に入る26位)。 |
| この後の3シーズンは怪我のため、出場機会は限られており、2001-2002シーズンは24ゲーム、2003-2004シーズンはわずか10ゲームにとどまる。 |
| 間の2002-2003シーズンは、途中までNHLの得点王争いをリードしたが、終盤に欠場し67試合92ポイントの8位に終わった。 |
| ルミューは、2002年冬季オリンピックのカナダ男子ホッケーチームに選抜され、チーム2番目の成績となる6試合6ポイントを上げた。 |
| 選手でありながら、チームオーナーでもあるというユニークな立場から、ルミューは、2004-2005シーズンのNHL労使紛争まで連なる潜在的な利害対立関係の只中に居る。 |
| オーナーであるが故に、選手としての年金基金を維持するために会費を払いながら、他方でNHL選手会には参加していない。 |
| 選手会との合意により、ルミューは、リーグでは平均的な年俸140万ドルを受け取り、その中から会費を控除されている。 |
| ルミューは、1シーズンとしてフル出場を果しておらず、もしも怪我や病気がなければあと400ゲームほどはプレイでき、さらに素晴らしい記録を残せたのではないかと推定する声もある。 |
| 1993年6月26日、ルミューは当時十代のNathalieAsselと結婚し、4児を儲けている。 |
受賞歴
| 1988年-アート・ロス記念賞、レスター・B・ピアソン賞、ハート記念賞、NHLオールスター第1チーム。 |
| 1993年-アート・ロス記念賞、ハート記念賞、レスター・B・ピアソン賞、NHLプラス/マイナス賞、ビル・マスタートン賞、ルー・マーシュ賞、NHLオールスター第1チーム。 |
| NHLオールスター出場-1985年、1986年、1988年、1989年、1990年、1992年、1996年、1997年、2001年、2002年。 |
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1965年
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マリオ・ルミュー(Mario Lemieux)はカナダ... |
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1974年
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1975年に達成しているのみ(2005年現在)である |
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マリオ・ルミューさんについてのひとこと紹介
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