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プロフィール
- マルクス・アウレリウス・アントニヌスとは
- 歴史資料
- 家族と出自
- ハドリアヌス帝による寵愛
- 叔父アントニヌスの即位
- アウレリウスの教師達
- アントニヌス帝の死
- 皇帝即位
- 初期統治
- 初期の敗北
歴史資料
| マルクス・アウレリウスの人生と治世に関する資料は疎らで、信憑性の薄い物が多く含まれている。 |
| 例えば主要な情報源とされる「ローマ皇帝群像」は多くの問題を持った資料であり、引用元の資料よりも価値は低いBirley,''MarcusAurelius'',22930.ThethesisofsingleauthorshipwasfirstproposedinH.Dessau's"UberZeitundPersonlichkeitder''ScriptoesHistoriaeAugustae''"(inGerman),''Hermes''24(1889),337ff.。 |
| ハドリアヌスからアウレリウスまでの評伝は作中でも比較的に信憑性があるが、それでもアエリウス・ウェルスやガイウス・アウィディウス・カッシウスの評伝は完全な捏造であると見られるBirley,''MarcusAurelius'',230.Onthe''HAVerus'',seeBarnes,65?74.。 |
| マルクス・アウレリウス自身は「自省録」という著作を残したが、これは主にアウレリウスの内面についての記述や思索であって、俗事の出来事については余り触れられていないBirley,''MarcusAurelius'',227.。 |
| 同時代の歴史家にはカッシウス・ディオがおり、特に軍政についての記述においては重要な記録を残している。 |
| しかしディオの元老院階級としての偏見や、帝国領土の拡大に対する反対意見は真意を不明瞭にしているBirley,''MarcusAurelius'',228?29,253.。 |
| 他にアウレリウスと関わった様々な人が残した記録は、細かい出来事についての詳細を提供している。 |
| アントニヌス朝の貴族達について記録した宮殿医ガレノス、時代の風潮を推測させるアエリウス・アリスティデスの演説、そして東ローマ時代の勅法彙纂に記録されるアウレリウスの法整備などがそれにあたるBirley,''MarcusAurelius'',227?28.。 |
| 碑銘、通貨なども治世を調べる上での情報源とされるBirley,''MarcusAurelius'',228.。 |
家族と出自
| マルクス・アウレリウス・アントニヌスこと、マルクス・アンニウス・カティリウス・セウェルスは、貴族マルクス・アンニウス・ウェルス3世の子としてローマに生まれた。 |
| 父方の一族であるウェルス家は属州ヒスパニア・バエティカのコルドバに所領を持ち、西暦1世紀頃からローマ中央でも知られた存在にまで台頭し始めた。 |
| 曽祖父アンニウス・ウェルス1世が元老院議員として議席を与えられ、祖父のウェルス2世の代で貴族に列された''HAMarcus''1.2,1.4;Birley,''MarcusAurelius'',28;McLynn,14.{{#tag:ref|CassiusDioassertsthattheAnniiwerenear-kinofHadrian,andthatitwastothesefamilialtiesthattheyowedtheirrisetopower.Dio69.21.2,71.35.2?3;Birley,''MarcusAurelius'',31.Theprecisenatureofthesekinshiptiesisnowherestated.OneconjecturalbondrunsthroughAnniusVerus(II).Verus'wifeRupiliaFaustinawasthedaughteroftheconsularsenatorLiboRupiliusFrugiandanunnamedmother.IthasbeenhypothesizedRupiliaFaustina'smotherwasMatidia,whowasalsothemother(presumablythroughanothermarriage)ofVibiaSabina,Hadrian'swife.''CodexInscriptionumLatinarum'' |
| アンニウス・ウェルス3世はドミティア・ルキッラと結婚してカティリウス・セウェルス(アウレリウス)という子を儲けたBirley,''MarcusAurelius'',29;McLynn,14.両親には二人の子供がおり、アウレリウス以外にコルニフィキアという姉がいたBirley,''MarcusAurelius'',31,44.。 |
| ドミティア・ルキッラは、有力貴族のカルビシウス・トゥルス・ルッソの子であり、また母の大ドミティアも親族の財産を相続した資産家であった(この事はガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥスの書簡にも書き残されている)Birley,''MarcusAurelius'',29,citingPliny,''Epistulae''8.18.。 |
| 彼女は後に煉瓦生産の工房など、両親の財産を相続してウェルス家を更に富ませたBirley,''MarcusAurelius'',30.。 |
| 父であるウェルス3世も元老院で法務官などの要職を歴任していたが、アウレリウスが3才の時に病没したBirley,''MarcusAurelius'',31.。 |
| 従って後の皇帝としての方針に父の影響がどの程度あったのかは不明であるが、彼自身は「自制録」で彼が「謙虚と剛毅さ」を父の思い出と死後の話で学び知ったと語っている''Meditations''1.1,qtd.andtr.Birley,''MarcusAurelius'',31.。 |
| 母ドミティアは再婚しなかったが、当時の貴族階級にとっての常として子供の養育は家庭教師や侍従達に任せていた''HAMarcus''2.1and''Meditations''5.4,qtd.inBirley,''MarcusAurelius'',32.。 |
| 一方で貴族としての優雅な生活で堕落しないように「宗教的な敬虔さ」と「粗食」を躾として教えられたという''Meditations''1.3,qtd.inBirley,''MarcusAurelius'',35.。 |
| アウレリウスは母親についての感謝を述べる手紙を書き残している''Meditations''1.17.7,qtd.andtr.Birley,''MarcusAurelius'',35.。 |
| 父の死後、アウレリウスは祖父ウェルス2世に引き取られBirley,''MarcusAurelius'',33.、ルキウス・カティリウス・セウェルスという男性が養育を手伝った。 |
| ルキウス・カティリウスは「母方の曾祖父」と言われ、恐らくは大ドルシッラの継父であったと見られている。 |
| アウレリウスは彼の両親が残したカエリウスの丘にある邸宅で過ごし''AdMarcumCaesarem''2.8.2(=Haines1.142),qtd.andtr.Birley,''MarcusAurelius'',31.、そこは僅かな公共施設を除けば殆どが貴族の別荘からなる高級住宅街であった。 |
| また祖父はラテラノ大聖堂の近くに邸宅を持ち、アウレリウスにとって馴染み深い場所となったBirley,''MarcusAurelius'',31?32.。 |
| 祖父の教育については「良心と自制心」を教わったと書き残しているが''Meditations''1.1,qtd.andtr.Birley,''MarcusAurelius'',35.、祖父が祖母の死後に連れてきた妾とは折り合いが悪かったというBirley,''MarcusAurelius'',35.幸いにして妾が出入りするようになって直に家から出られた事を、アウレリウスは幸運だったと述べている''Meditations''1.17.2;Farquharson,1.102;McLynn,23;cf.''Meditations''1.17.11;Farquharson,1.103.。 |
| アウレリウスは当時の貴族階級の常として、家庭教師による教育を受けているMcLynn,20?21.。 |
| これは曽祖父カティリウス・セウェルスの意向によるところだったとアウレリウス自身が述べている''Meditations''1.4;McLynn,20.。 |
| ディオゲネトゥスという教師から特に深い影響を受け、哲学的な生活様式を学んだ''HAMarcus''2.2,4.9;''Meditations''1.3;Birley,''MarcusAurelius'',37;McLynn,21?22.。 |
| 132年4月、アウレリウスはディオゲネトゥスと同じ哲学者風の衣服で過ごし始め、母親から窘められるまでベットではなく地面で寝ていたという''HAMarcus''2.6;Birley,''MarcusAurelius'',38;McLynn,21.。 |
| 133年からはアレクザンデルという人物が何人かの教師と共に赴任した''HAMarcus''2.3;Birley,''MarcusAurelius'',40,270n.27.。 |
| アレクサンデルは当時のローマ帝国で、ホメロスの研究によって知られた文学者であったBirley,''MarcusAurelius'',40,citingAeliusAristides,''Oratio''32K;McLynn,21..。 |
| アウレリウスは彼から修辞法を学んでおり''Meditations''1.10;Birley,''MarcusAurelius'',40;McLynn,22.、「自省録」の文体にその影響が見られるBirley,''MarcusAurelius'',40,270n.28,citingA.S.L.Farquharson,''TheMeditationsofMarcusAntoninus''(Oxford,1944)2.453.。 |
ハドリアヌス帝による寵愛
| 127年、叔母ファウスティナ・マイヨルの親族であるハドリアヌス帝の推薦を受けて、アウレリウスは6歳の時に騎士名簿へ登録された。 |
| 少年時代に騎士階級へ叙任された事については、アウレリウス以前にも全く例がない訳ではないが、極めて珍しい出来事であった。 |
| 更に翌年にはサリイという聖職の為の学校へ推薦されたが、入学規定を満たしていなかったアウレリウスの為に規定を改訂させている''HAMarcus''4.1,4.2;Birley,''MarcusAurelius'',36.。 |
| ハドリアヌスはアウレリウスを寵愛しており、ウェリッシムス(Verissimus)という渾名で呼んでいた''HAMarcus''1.10,2.1;Birley,''MarcusAurelius'',38;"HadriantotheAntonines",147.Theappellationalsosurvivesoninscriptions:Birleycites(at''MarcusAurelius'',p.270n.24)''ProsopographiaImperiiRomani2''A697,and''L'Anneeepigraphique'' |
| アウレリウスは神学校で熱心に学び、優れた聖職者としての素養を得た''HAMarcus''4.4;Birley,''MarcusAurelius'',37;McLynn,19.。 |
| 一方で帝都ローマに留まらず、各属州への巡行に時間を費やしていたので、アウレリウスと直接会う機会はそれほどなかった。 |
| 135年、ハドリアヌスが久しぶりにローマに戻った時、アウレリウスは皇帝の重臣ルキウス・アエリウス(ハドリアヌスを暗殺しようとしたガイウス・アウィディウス・ニグリヌスの娘婿で、ルキウス・ウェルスの父)の腹心に成長していた。 |
| 136年、成人したアウレリウスはハドリアヌスの命令によって、アエリウスの娘ケイオニアと婚約して皇帝の側近としての立場を確立した''HAMarcus''4.5;Birley,''MarcusAurelius'',39?40;McLynn,24?25;R.Syme,"TheUmmidii",''Historia''17:1(1968):93?94.。 |
| 結婚からまもなく、ルキウス・アエリウスによってアウレリウスは首都長官に任命された。 |
| この時代の首都長官は要職という位置づけながら、何の実権も伴わない名誉職という部分が大きく、貴族の若者の登竜門のような意味合いがあった。 |
| アウレリウスは首都長官として相応しい振る舞いをしたという''HAMarcus''4.6;Birley,''MarcusAurelius'',41.。 |
| ルキウス・アエリウスを通して、アウレリウスは「カルケドンのアポロニウス」というストア派の哲学者の知遇を得た。 |
| ストア派哲学との出会いはアウレリウスの禁欲的な生き方として多大な影響を与えた。 |
| またアポロニウスは哲学の教師としてアウレリウスにストア派の講義を行い、アウレリウスから神に出会いを感謝された3人の一人となったBirley,''MarcusAurelius'',41.。 |
| 後に姉コルニフィキアが従兄弟のウッミディウス・クァドラトゥスと結婚した時、アウレリウスは母ドミティア・ルキッラから父の遺産の一部を姉に持参金として譲るように求めたが、アウレリウスは遺産全てを姉に譲ったという''HAMarcus''4.7;Birley,''MarcusAurelius'',41.。 |
| 136年、既にハドリアヌスは不治の病に侵されていたが、同性愛者であった事から嫡男を授かっていなかった。 |
| 別荘で病床に就いたハドリアヌスは、腹心であるルキウス・アエリウスを後継者に指名したBirley,''MarcusAurelius'',41?42.''HAHadrian''23.10,qtd.inBirley,''MarcusAurelius'',42.itsrationaleisstillunclear.Birley,''MarcusAurelius'',42.OnthesuccessiontoHadrian,seealso:T.D.Barnes,"HadrianandLuciusVerus",''JournalofRomanStudies''57:1?2(1967):65?79;J.VanderLeest,"Hadrian,LuciusVerus,andtheArcodiPortogallo",''Phoenix''49:4(1995):319?30.-->。 |
| ハドリアヌスがアエリウスを特に選んだ理由については明確には分かっていない。 |
| 138年、ドナウ川における短い駐屯を経てルキウス・アエリウスは元老院で演説を行う為に帰路へ就いた。 |
| しかし演説を行う前日に吐血して倒れ、そのままローマで病没した''HAHadrian''23.15?16;Birley,''MarcusAurelius'',45;"HadriantotheAntonines",148.。 |
| この事件が起きた後、ハドリアヌスは1月24日にもう一人の重臣で、大ファウスティナと結婚していたアウレリウス・アントニヌスを後継者に指名したBirley,''MarcusAurelius'',46.Date:Birley,"HadriantotheAntonines",148.。 |
| ただし帝位継承には、「ルキウス・アエリウスの子ルキウス・ウェルスと、大ファウスティナの甥であるカティリウス(アウレリウス)を養子とする事」と、「大ファウスティナとの子である小ファウスティナを、ルキウス・ウェルスと婚約させる事」が条件とされた。 |
| 2月25日、アントニヌスはハドリアヌスの後継者となる事を受け入れ、条件の履行を約束したDio69.21.1;''HAHadrian''24.1;''HAAelius''6.9;''HAPius''4.6?7;Birley,''MarcusAurelius'',48?49.。 |
| ちなみにアウレリウス自身には相談されていなかったらしく、突然に叔母夫婦の養子とされた事に愕然としたという。 |
| アウレリウスは渋々といった態度で母の家から離れ、ハドリアヌスの離宮へと移り住んだ''HAMarcus''5.3;Birley,''MarcusAurelius'',49.。 |
| ハドリアヌスは元老院に対し、アウレリウスが財務官への就任年齢(24歳)の規定から特例的に除外されるように命令した。 |
| 元老院は要求に屈して、後にアウレリウスは18歳で財務官に就任しているBirley,''MarcusAurelius'',49?50.。 |
| アウレリウスが皇帝候補者である外叔父アントニヌスの養子とされた事は、典型的な過程を無視した立身に繋がった。 |
| 恐らく普通の立身であれば、まずアウレリウスは造幣官に任命されていたと考えられる。 |
| ある程度の経歴を積んだ元老院議員はトリブヌス・ミリトゥム(軍団幕僚)となり、名目上の軍団副司令官を務めるのが一般的であった。 |
| 恵まれた立場にあったアウレリウスであったが、周囲の貴族的な退廃には呑まれず、清廉な生き方を続けた''HAMarcus''5.6?8,qtd.andtr.Birley,''MarcusAurelius'',50.。 |
| 日に日にハドリアヌスの病状は悪化していき、何度か自殺未遂を繰り返しては周囲に押し留められていた。 |
| 治療を諦めたハドリアヌスはカンパニアの保養地バイアエへ向かい、そこで食事や飲食などの放蕩に耽る様になった。 |
| 138年7月10日、ハドリアヌスはアントニヌスに看取られて病没したDio69.22.4;''HAHadrian''25.5?6;Birley,''MarcusAurelius'',50?51.Hadrian'ssuicideattempts:Dio69.22.1?4;''HAHadrian''24.8?13.。 |
| 彼の遺骸はポッツオーリに埋葬された''HAHadrian''25.7;Birley,''MarcusAurelius'',53.。 |
| 元老院と終始敵対し続けていたハドリアヌスの後であったが、アントニヌスは元老院を尊重した事で安定して帝位は継承された。 |
| またアントニヌスはハドリアヌスへの弾劾を取り下げるように元老院を宥めた''HAPius''5.3,6.3;Birley,''MarcusAurelius'',55?56;"HadriantotheAntonines",151.。 |
| 周囲と軋轢無く政治を進めるアントニヌスは「アントニヌス・ピウス」(慈悲深きアントニヌス)という渾名で呼ばれたBirley,''MarcusAurelius'',55;"HadriantotheAntonines",151.。 |
叔父アントニヌスの即位
| ハドリアヌスの死後、直ぐにアントニヌスは妻の甥(アウレリウス)を政敵の息子(ウェルス)より重用する姿勢を見せ、アウレリウスからすれば従姉妹である小ファウスティナとの結婚を要請した。 |
| アウレリウスと小ファウスティナはそれぞれの元の婚約を破棄すると、親族同士(従兄弟婚)による結婚に同意した''HAMarcus''6.2;''Verus''2.3?4;Birley,''MarcusAurelius'',53?54.。 |
| 皇帝の後継者としての証である副帝の称号も受け、全名をマルクス・アエリウス・アウレリウス・ウェルス・カエサル(MarcusAeliusAureliusVerusCaesar)に改名したDio71.35.5;''HAMarcus''6.3;Birley,''MarcusAurelius'',56.。 |
| アウレリウスは自身の名声に溺れず、清廉な生き方を貫く様に意識したと語っている''Meditations''6.30,qtd.andtr.Birley,''MarcusAurelius'',57;cf.''MarcusAurelius'',270n.9,withnotesonthetranslation.。 |
| 神学に関する専門知識も健在であり、元老院の命によって幾つかの神学者の組織(''pontifices''、''augures''、''quindecimvirisacrisfaciundis''、''septemviriepulonum''、''ArvalBrethren'')に加わっているが''HAMarcus''6.3;Birley,''MarcusAurelius'',57.、歴史的資料で証明できるものは「''ArvalBrethren''」への参加のみであるBirley,''MarcusAurelius'',57,272n.10,citing''CodexInscriptionumLatinarum'' |
| 代読作業についてアウレリウスは自身の秘書官に「毎日30通の手紙を口述しているおかげで息が切れそうだ」と皮肉を口にしている''AdMarcumCaesarem''4.7,qtd.andtr.Birley,''MarcusAurelius'',90.歴史家たちは「アウレリウスは政務に才覚があった」と述べている''HAMarcus''6.5;Birley,''MarcusAurelius'',58.。 |
アウレリウスの教師達
| 136年に成人の儀式を終えたアウレリウスは直ちに弁論術の教育を始めたと考えられているBirley,''MarcusAurelius'',61.彼は三人のギリシャ人学者と一人のラテン人学者を教師としたが、これは当時のローマにおけるギリシャ文化の勢威を示している''HAMarcus''2.4;Birley,''MarcusAurelius'',62.自省録にもそうした影響が見て取れる箇所があるAlanCameron,reviewofAnthonyBirley's''MarcusAurelius'',''ClassicalReview''17:3(1967):347.。 |
| left|thumb|upright|弁護士ヘロデ・アティクス。 |
| フロントはマルクス・トゥッリウス・キケロに次ぐ才人と評されBirley,''MarcusAurelius'',65?67.、ラテン語の弁論術と修辞学に関して完璧な知識を持っていた。 |
| ストア派については上述の通りアポロニウスの存在が大きいが、ユニウス・ルスティクスも大きな影響を与えていたBirley,''MarcusAurelius'',95;Champlin,''Fronto'',120.''AdAntoninumImperator''1.2.2(=Haines2.36),qtd.andtr.Birley,''MarcusAurelius'',95.-->彼はフロントより年上のストア派哲学者で、強権的なドミティアヌス帝の治世に反対して処刑された元老議員アウレリウス・ルスティクスの末裔でもあったBirley,''MarcusAurelius'',94?95,101.。 |
アントニヌス帝の死
| これはアントニヌスが親族を優先しただけでなく、ルキウスに皇帝の資質が伴っていないという周囲の批判によるものであった''HAVerus''2.9?11;3.4?7;Birley,''MarcusAurelius'',108.{{#tag:ref|Althoughpartofthebiographer'saccountofLuciusisfictionalized(probablytomimicNero,whosebirthdayLuciussharedSuetonius,''Nero''6.1;''HAVerus''1.8;Barnes,67;Birley,''MarcusAurelius'',158.Seealso:Barnes,69?70;PierreLambrechts,"L'empereurLuciusVerus.Essaiderehabilitation"(inFrench),''AntiquiteClassique''3(1934),173ff.),andanotherpartpoorlycompiledfromabetterbiographicalsource,Barnes,66.Poorlycompiled:eg.Barnes,68.。 |
皇帝即位
| 戴冠した二人はそれぞれ皇帝インペトラル・カエサル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス(ImperatorCaesarMarcusAureliusAntoninusAugustus)、共同皇帝インペトラル・カエサル・ルキウス・アウレリウス・ヴェルス・アウグストゥス(ImperatorCaesarLuciusAureliusVerusAugustus)と名乗ったBirley,''MarcusAurelius'',116?17.。 |
| いわゆる「共同皇帝制」が採用されたのはこれが初めての事例となった。 |
初期統治
| 162年の春、ティベリス川(現テヴェレ川)の増水によってラティウム地方に甚大な被害が及び、農作物の損失から飢饉が発生した''HAMarcus''8.4?5;Birley,''MarcusAurelius'',120.{{#tag:ref|Since15CE,theriverhadbeenadministeredbyaTiberConservancyBoard,withaconsularsenatoratitsheadandapermanentstaff.In161,the''curatoraleviTiberisetriparumetcloacarumurbis''("CuratoroftheTiberBedandBanksandtheCitySewers")wasA.PlatoriusNepos,sonorgrandsonofthebuilderofHadrian'sWall,whosenameheshares.Heprobablyhadnotbeenparticularlyincompetent.AmorelikelycandidateforthatincompetenceisNepos'likelypredecessor,M.StatiusPriscus.Amilitarymanandconsulfor159,Priscusprobablylookedontheofficeaslittlemorethan"paidleave".''InscriptionesLatinaeSelectae'' |
初期の敗北
| 更に追加で属州ゲルマニア・スペリオルのボンナから第1軍団「ミネルウァ」を''IncriptionesLatinaeSelectae'' |
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1558年
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出版形式に直したものである |
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1968年
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おいてアウレリウスの権力移譲を解説する文章... |
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