| 1981年限りでフィアットは撤退し、再びランチアがWRCへと復帰することとなった。 |
| アレンは多くのスタッフとともにランチアに移籍し、グループBマシンであるランチア・ラリー037の開発に携わる。 |
| すでにWRCには4WDターボのアウディ・クワトロが台頭しており、ミドシップレイアウトながら後輪駆動のランチア・ラリーは当初から苦戦が予想された。 |
| また、マシンはこの年のツール・ド・コルスでデビューしたものの信頼性に欠け、結局この年のアレンはリタイア3回、最上位は最終戦RACラリーの4位という結果に終わった。 |
| 翌1983年、完全にグループB規定が適用されることとなったこの年の開幕戦モンテカルロラリー、シーズンオフの徹底的な熟成に加えて比較的雪が少ないコンディションも影響し、ランチア・ラリーはワルター・ロールの手により初優勝。 |
| アレンも2位でフィニッシュする。 |
| ランチアは第2戦のスウェディッシュラリーを欠場し、グラベルとターマックのミックス路面で争われるポルトガルラリーに参戦。 |
| ここではアウディに後れを取り、アレンは4位に終わる。 |
| そしてサファリラリーを挟んだ第5戦のツール・ド・コルス、アレンは序盤からラリーをリードし、そのまま優勝。 |
| 自身初のターマックイベントでの勝利を達成する。 |
| この勝利はアレンにとってだけでなく、初の北欧系ドライバーによるツール・ド・コルス優勝となった。 |
| その後アレンはサンレモラリーでも優勝。 |
| この勝利でランチアはマニュファクチュアラーズ・チャンピオンを決める。 |
| アレンはこの年2勝、2位2回、3位1回という好成績を収めたものの、ドライバーズチャンピオンシップではアウディのハンヌ・ミッコラとチームメイトのロールに続く3位にとどまった。 |
| 1984年はロールがアウディに移籍。 |
| アレンは名実共にエースとしてランチアを引っ張る立場となる。 |
| この年もアウディとの争いは熾烈を極めた上、プジョーからはミドシップ4WDターボという究極のレイアウトを持つプジョー・205ターボ16がデビュー。 |
| アレンの勝利は前年に続いてのツール・ド・コルスのみとなり、ドライバーズチャンピオンシップでも前年に引き続き3位となる。 |
| 1985年はデビューが噂されていた新型車、ランチア・デルタS4の投入が遅れ、二輪駆動のランチア・ラリーは排気量をアップしたエボリューションモデルを投入するも前年にも増して苦しい戦いを強いられる。 |
| アレンはデルタS4の開発の間を縫って出場したものの、得意とするはずのツール・ド・コルスではチームメイトのアッティリオ・ベッテガが立木に激突して死亡。 |
| チームはラリーを棄権するなど不運が続き、アレンの成績は1000湖ラリーの3位が最上位となった。 |
| そして待望のデルタS4が最終戦のRACラリーでデビュー。 |
| チームメイトのヘンリ・トイボネンと共に他を圧倒するパフォーマンスを見せ、トイボネンがデビューウィン。 |
| アレンも2位に入り、ドライバーズチャンピオンシップでは7位に終わったものの、来年に向けての期待は大きく高まった。 |
| 1986年、アレンは開幕戦のモンテカルロラリーでリタイヤ。 |
| 続くスウェディッシュラリーで2位に入り、ポルトガルラリーへと向かう。 |
| しかしこのラリーではフォードのヨアキム・サントスがスタート直後にコース上の観客を避けて群衆に突っ込み、子供を含む3人が死亡するという事故が発生。 |
| 事前から観客のマナーの悪さは問題になっており、観客整理の要望を主催者に申し入れていたにもかかわらず発生したこの事故を受けて、アレンを含むトップドライバーは競技をボイコットし、リタイヤする。 |
| 第4戦のサファリラリーでは信頼性を重視して旧型のランチア・ラリーで参戦。 |
| トヨタ・セリカに次いでの3位に入賞し、ランチア・ラリー最後の花道を飾る。 |
| そして迎えた第5戦のツール・ド・コルス。 |
| ラリーは序盤からチームメイトのヘンリ・トイボネンがリードする展開となっていたものの、そのトイボネンが第2レグのSS18でコースアウトし、崖下に転落して炎上。 |
| コ・ドライバーのセルジオ・クレストと共に還らぬ人となってしまう。 |
| このアクシデントによりランチアチームは前年に続いてツール・ド・コルスから撤退。 |
| トイボネンと親友関係にあったアレンも大きなショックを受ける。 |
| このラリーの後、WRCを統括するFISAはグループB規定のこの年限りでの廃止を決定。 |
| グループB最後の王者の座をかけて、この後アレンはプジョーのティモ・サロネン、ユハ・カンクネンと激しい争いを繰り広げることとなる。 |
| 第6戦のアクロポリスラリーではリタイアしたものの、続くニュージーランド、アルゼンチンで連続2位。 |
| 1000湖では最終レグまでトップをキープするも、コースアウトにより3位に終わる。 |
| マニュファクチュアラーズ・チャンピオンシップが掛からないコートジボワールを挟んで開催されたサンレモラリーでは、ランチアの地元という地の利もあり、チームメイトのダリオ・チェラート、ミキ・ビアジオンを従えてシーズン初優勝。 |
| また、プジョーがレギュレーション違反によって前車失格という裁定となりランチアは1位から3位を独占したものの、プジョーはこれを不満としてFISAに提訴する。 |
| マニュファクチュアラーズ・チャンピオンシップが掛かる最後の戦い、RACラリーでアレンは2位に入り、ドライバーズポイントで首位に立っていたユハ・カンクネンを1ポイント差で逆転。 |
| そして最終戦オリンパスラリーでアレンはカンクネンを下して今期2勝目を挙げ、同時に初のドライバーズチャンピオンの座に輝いたと思われた。 |
| しかし、最終戦終了から11日後、FISAはプジョーが提訴していたサンレモラリーの結果をすべてキャンセルすると発表。 |
| これによってアレンの20ポイントは幻となり、ドライバーズチャンピオンはカンクネンのものとなった。 |
| 1987年、前年の決定通り、WRCはグループAマシンによって争われることとなった。 |
| 5000台以上の生産台数が必要となる規定によって各社はベース車両の選定に手間取る中、ランチアは1.5L級ハッチバックのデルタに2リッターターボエンジンと4WDシステムを搭載したランチア・デルタHF4WDを投入。 |
| アレンは開幕戦のモンテカルロを、前年の裁定に抗議して欠場。 |
| 第2戦のスウェディッシュで5位に入り、続くポルトガルでは早くも勝利を挙げる。 |
| サファリとツール・ド・コルスを欠場して臨んだアクロポリスでも勝利を収めたものの、事前に発令されたチームオーダーではチームメイトのミキ・ビアジオンを勝たせるというものだった。 |
| 結局ビアジオンはターボトラブルによってリタイアしたためアレンが勝利を手にするが、この頃からチームはイタリア人であるビアジオンのためのチームへと変化していく。 |
| ライバル不在の中、ランチアは8月に開催されたアルゼンチンで早々にマニュファクチュアラーズ・チャンピオンを決め、焦点はドライバーズチャンピオンシップへと移った。 |
| アレンは1000湖で1980年以来7年ぶりとなる勝利を挙げたものの、サンレモでリタイア、RACで5位に終わり、結局この年もドライバーズチャンピオンシップではチームメイトのカンクネン、ビアジオンに次いで3位に終わる。 |
| 1988年、アレンは第2戦のスウェディッシュから出場。 |
| さらに最終戦のRACでも勝利を挙げるが、やはりこの年もドライバーズチャンピオンシップではビアジオンに及ばず2位にとどまった。 |
| そして、このRACでの勝利がアレンのWRCにおける19回目の勝利となり、また最後の勝利となった。 |
| 1989年になると、チームは完全にビアジオンを中心とした体制となり、アレンはポルトガル、1000湖、オーストラリアの3戦にスポット的に参加するにとどまることとなった。 |
| ポルトガルで2位、オーストラリアでは3位に入るものの、ドライバーズチャンピオンシップでは9位に終わる。 |