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プロフィール
- マルコ・ポーロとは
- 概略
- 幼少時
- 旅
- 死去
- マルコ・ポーロの旅
- 内容
- 評価
- 黄金の国ジパング
- ユーラシア情報
- 世界観への影響
- 持ち帰ったもの
- 関連サイト
マルコ・ポーロ(、1254年9月15日-1324年1月8日)は、ヴェネツィア共和国の商人であり、 ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した『東方見聞録』(写本名:『イル・ミリオーネ(IlMilione)』もしくは『世界の記述(Divisementdoumonde)』)を口述した冒険家でもある。
概略
| 商取引を父と叔父であるに学んだ。 |
| 1271年、父・叔父と共にアジアに向け出発し、以降24年間にわたりアジア各地を旅する。 |
| 帰国後、ジェノヴァとの戦争に志願し、捕虜となって投獄されるが、そこで囚人仲間に旅の話をし、これが後に『東方見聞録』となった。 |
| 1299年に釈放された後は豪商になり、結婚して3人の子供に恵まれた。 |
| 1324年に没し、に埋葬された。 |
| 彼の先駆的な冒険は当時のヨーロッパ地理学にも影響を与え、が作成された。 |
| またクリストファー・コロンブスLandström,1967,p=27など多くの人物に刺激を与えた。 |
| マルコ・ポーロの名はマルコ・ポーロ国際空港やにも使われ、彼の生涯をテーマにした小説や映画なども製作された。 |
幼少時
| マルコ・ポーロがいつ、どこで生まれたか正確には分かっておらず、現代の説明はほとんどが推測である。 |
| その中で最も引用される情報は1254年生まれというものであるほとんどの出典がこの年を採用しており、ブリタニカ百科事典(2002年、p571)でも「1254年前後生まれ。 |
| (これは、彼の人生における主要な出来事のほとんどと同じく推測の域を出ない)」と書かれている。 |
| 生誕地は一般にヴェネツィア共和国だったと受け取られており、これも正しい場所は不明ながら多くの伝記にて同様に書かれているBergreen,2007,p=25他の説を紹介する文献もあり、例えばBurgan,2002,p=7では生誕地を現在のクロアチアであるダルマチアの島コルチュラ島だったとしている。 |
| 生家は代々続く商家で、彼の父親ニコーロは中東貿易に従事する商人として活躍し、財と地位を成しつつあったParker,2004,pp=648–649。 |
| ニコーロとマフェオの兄弟はマルコが生まれる前に貿易の旅に出発し、コンスタンティノープルに住み着いたラルース、p374。 |
| 政変が起こると予測した彼らは、1260年に財産をすべて宝石に換えてその地を離れBritannica,2002,p=571、毛皮貿易で栄えるクリミアへ向かった。 |
| 『東方見聞録』によると、彼らはアジアを東へ向かい、クビライとも謁見しているという。 |
| この間、マルコの母親は亡くなり、彼は叔父と叔母に養育された。 |
| マルコはしっかりした教育を受け、外貨や貨物船の評価や取り扱いなど商業についても教わったが、ラテン語を履修する機会は持てなかった。 |
旅
| 250px|thumb|旅の行程。 |
| 1269年、ニコーロとマフィオの兄弟はヴェネツィアに戻り、初めてマルコと会った。 |
| そして1271年後半に兄弟は17歳のマルコとともに後に『東方見聞録』に記録されるアジアへの旅に出発した。 |
| 一行が富を宝を得て戻ってきたのは24年後の1295年、全行程15,000kmの旅であった。 |
| 彼らが帰還してから3年後、ヴェネツィアは敵対していたジェノヴァと交戦状態に入った。 |
| マルコは兵士として志願し従軍したが、ジェノヴァに捕らえられた。 |
| 数ヶ月の収監中、彼は旅の詳細を口述し、これを書き留めたのが、彼と同じく投獄されていた職業的著述家のルスティケロ・ダ・ピサであった。 |
| しかしピサは、ここに彼自身が聞きかじった物事や他の逸話や中国からもたらされた伝聞などを勝手に加えてしまった。 |
| この記録は、マルコがアジアを旅したことを記録した『東方見聞録』(TheTravelsofMarcoPolo)として有名になり、中国、インド、日本を含む極東の内実に関する包括的な視点に立った情報を初めてヨーロッパにもたらしたBram,1983。 |
| マルコは1299年8月に釈放され、父と叔父がヴェネツィア市内の中心部に購入した広大な屋敷「contradaSanGiovanniCrisostomo」に戻れた。 |
| 事業は活動を継続しており、マルコはすぐに豪商の仲間入りを果たした。 |
| ただし、その後マルコは遠征への出資こそするも、彼自身はベネツィアを離れなかった。 |
| 1300年、マルコは商人ヴィターレ・バドエルの娘ドナータ・バドエルと結婚しBergreen,2007,p=532、ファンティーナ、ベレーラ、モレッタと名づけた3人の娘に恵まれたPower,2007,p=87。 |
死去
| 250px|thumb|ベネツィアのカステロ地区(:en:sestiere|en)にあるサン・ロレンツォ・ディ・ヴェネツィア教会。 |
| マルコ・ポーロが埋葬されている。 |
| 写真は再建されたもの。 |
| 1323年、病気になったマルコ・ポーロは枕も上がらなくなった。 |
| 翌年1月8日、医師の努力も空しく死期が迫ったマルコは財産分与を認め、亡くなった。 |
| 遺言の公認を聖プロコロ教会の司祭ジョバンニ・ジュスティニアーニから得た妻と娘たちは正式に共同遺言執行者(en)となった。 |
| 遺言に基づいて教会も一部の地権を受け、さらに多くの遺産分与をサン・ロレンツォ教会に行って遺体を埋葬されたBergreen,2007,pp=339–342。 |
| また、遺言にはマルコがアジアから連れてきたタタール人の奴隷を解放するよう指示されていたBritannica,2002,p=573。 |
| マルコは残りの遺産についても、個人や宗教団体、彼が属したギルドや組織などへの配分を決めていた。 |
| さらに、彼は義理の姉妹が負っていた300リラの借金やサン・ジョバンニ修道院、聖ドミニコ修道会のサン・パウロ教会、または托鉢修道士(en)のベンヴェヌートら聖職者が持つ負債の肩代わりもした。 |
| ジョバンニ・ジュスティニアーニには公証人役への報酬、また信者からとして200ソリドゥスが贈られた。 |
| マルコの署名は無かったが、「signummanus」の規則が適用され有効なものとされた遺言状は、日付が1324年1月9日になっていた。 |
| 規則により遺言状に触れる者は遺言者だけと決められていたためマルチャーナ図書館。 |
| マルコの遺書原本を保管している。 |
マルコ・ポーロの旅
| 200px|thumb|『イル・ミリオーネ』(IlMilione)のミニアチュール。 |
| 200px|thumb|マルコ・ポーロ存命中に発刊された『イル・ミリオーネ』の一ページ。 |
| マルコ・ポーロの口述を記した原本は早くから失われ、140種類を超える写本間にも有意な差が見られる。 |
| 初期はフランス語で書かれていたと考えられる本は1477年にドイツ語で初めて活字化され、1488年にはラテン語およびイタリア語で出版された。 |
| しかし、これらにおいても、単独の筋書きに拠るもの、複数の版を統合したり、ヘンリー・ユールによる英語翻訳版のように一部を加えたりしたものがある。 |
| 同じ英語翻訳でもA.C.ムールとポール・ペリオが訳し1938年に出版された本では、1932年にトレド大聖堂で発見されたラテン語本を元にしているが、他の版よりも5割も長いBergreen,2007,pp=367–368。 |
| このように、さまざまな言語にまたがる異本が知られている。 |
| 印刷機(en)の発明以前に行なわれた筆写と翻訳に起因して多くの誤りが生じ、版ごとの食い違いが非常に多いEdwards,p=1。 |
| これらのうち、14世紀初頭に作られた、「F写本」と呼ばれるイタリア語の影響が残るフランス語写本が最も原本に近いと思われている。 |
内容
| 本は、ニコーロとマフィオがキプチャク・ハン国のベルケ王子が住むボルガール(en)へ向かう旅の記述から始まる。 |
| 1年後、彼らはウケク(en)に行きYule,Cordier,1923年,loc=ch.2、さらにブハラへ向かった。 |
| そこでレバントの使者が兄弟を招き、ヨーロッパに行ったことがないクビライと面会する機会を設けたYule,Cordier,1923年,loc=ch.3。 |
| これは1266年に大都(現在の北京)で実現した。 |
| クビライは兄弟を大いにもてなし、ヨーロッパの法や政治体制について多くの質問を投げYule,Cordier,1923年,loc=ch.5、またローマの教皇や教会についても聞いたYule,Cordier,1923年,loc=ch.6。 |
| 兄弟が質問に答えるとクビライは、リベラル・アーツ(文法、修辞学、論理学、幾何学、演算、音楽、天文学)に通じた100人のキリスト教徒派遣を求めた教皇に宛てた書簡を託した。 |
| さらにクリスム(Chrism,エルサレムの、イエス・キリスト墓前に灯るランプの油ラルース、p375)も持ってくるよう求めたYule,Cordier,1923年,loc=ch.7。 |
| ローマ教会では1268年にクレメンス4世が没して以来、使徒座空位にあり、クビライの要請に応える教皇は不在のままだった。 |
| ニコーロとマフェオはテオバルド・ヴィスコンティ、次いでエジプト駐留の教皇使節から助言を受け、ヴェネツィアに戻り次期教皇の即位を待つことにした。 |
| 彼らがヴェネツィアに着いたのは1269年もしくは1270年であり、ここで当時16歳か17歳だったマルコと初めて会うことになったYule,Cordier,1923年,loc=ch.9。 |
| 次期教皇はなかなか決まらず、1271年にニコーロとマフィオそしてマルコの3人はクビライへの説明のために旅に出発したラルース、p376。 |
| 彼らが小アルメニアのライアスに到着した時、新教皇決定の知らせが届いた。 |
| 200px|thumb||left|タタールの衣装を纏うマルコ・ポーロ。 |
| マルコ一行はまずアッコまで船で往き、ペルシャのホルモズガーン州でラクダに乗り換えた。 |
| 彼らは船で中国まで行きたかったが当地の船は航海に適さず、パミール高原やゴビ砂漠を越える陸路でクビライの夏の都・上都(現在の張家口市近郊)を目指した。 |
| マルコらが到着した正確な日付は不明だが、研究者によると1271年から1275年の間だと見なされているチベットの僧侶にしてクビライに仕えたパクパが残した日記によると、1271年にハーンの異邦の友人が訪れたことが記されている。 |
| 一行は元の政治官に任命され、マルコは中国南西部の雲南や蘇州・楊州で徴税実務に就いたり、また使節として帝国の南部や東部、また南の遠方やビルマ、スリランカやチャンパ王国(現在のベトナム)など各所を訪れ、それを記録した。 |
| マルコはイタリア語の他に、フランス語、トルコ語、モンゴル語、中国語陳舜臣『中国の歴史』(五)p361-362では、マルコ・ポーロはペルシャ語は理解できたが「漢語」には通じていなかったとある。 |
| の4言語に通じ、一行はクビライにとって有用な知識や経験を数多く持っていたこともあり、マルコの役人登用は不自然ではない。 |
| 1292年、イル・ハン国のアルグン・ハンの妃に内定したコカチンを迎えに来た使節団が、ハイドゥの乱のために陸路を取れず南海航路で帰国することになった際、航路に詳しいマルコらに同行を求めた。 |
| 彼らはシンガポールに寄港し、スマトラ島では5ヶ月風待ちして過ごし長澤、p134-135十三世紀の南海路、セイロン島を経由してインド南岸を通過し、マラバールやアラビア海を通って1293年2月頃にオルムス(Ormus,ホルムズとも)に至った。 |
| オルムスに到着し行われた結婚の祝賀会が終わると、マルコらは出発し、陸路で山を超え黒海の現在ではトラブゾンに当たる港へ向かったParker,2004,pp=648–649の表記に倣うが、ラルース、p377ではアルグン・ハンは妃到着の直前に死去したとある。 |
評価
| マルコには『イル・ミリオーネ(IlMilione、百万男)』というあだ名がついていた。 |
| 大英図書館中国部主任のフランシス・ウッドは『東方見聞録』には実在した中国風俗の多くが紹介されていないことなどを理由に、マルコが元まで行ったことに否定的な見解を示し、彼は黒海近辺で収集した情報を語ったと推測している『マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか』(1995年、訳、栗野真紀子 草思社、1997年11月、ISBN4794207891)。 |
| これは、単に交易の道だけに止まらないシルクロードが持つ機能を端的に表現したもので、この道が古来から文化や社会的な交流を生む場であり、マルコの旅を例に上げて示したものである。 |
黄金の国ジパング
| バデルが校正したB4写本では、三章に亘って日本の地理・民族・宗教を説明しており、それによると中国大陸から1,500海里(約2,500km)に王を擁いた白い肌の人々が住む巨大な島があり、黄金の宮殿や豊富な宝石・赤い真珠類などを紹介している。 |
| 「黄金の国」伝説は、平泉の中尊寺金色堂についての話や遣唐使時代の留学生の持参金および日宋貿易の日本側支払いに金が使われていた事によって、広く「日本は金の国」という認識が中国側にあったとも考えられる。 |
| また、イスラム社会にはやはり黄金の国を指す「ワクワク伝説」があり、これも倭国「Wa-quo」が元にあると思われ、マルコ・ポーロの黄金の国はこれら中国やイスラムが持っていた日本に対する幻想の影響を受けたと考えられる。 |
| 日本の習俗についても、偶像崇拝や食人の風習に触れているが、これはジパングと周辺の島々について概説的に述べられており、その範囲は中国の南北地域から東南アジアおよびインドまでに及ぶ。 |
ユーラシア情報
| マルコ・ポーロは旅の往復路や元の使節として訪れた土地の情報を多く記録し、『東方見聞録』は元代の中国に止まらず東方世界の情報を豊富に含み、近代以前のユーラシア大陸の姿を現在に伝える。 |
| それらは異文化の風習を記した単なる見聞に止まらず、重さや寸法または貨幣などの単位、道路や橋などの交通、さらには言語等にも及び、それは社会科学や民俗学的観察に比されるラルース、p378-379。 |
| 世界最大の海港と称賛した泉州の繁栄ぶりに驚嘆し、大都の都市計画の整然さや庭園なども美しさを記している。 |
| また、ヨーロッパには無かった紙幣に驚き、クビライを「錬金術師」と評した。 |
| 1271年にパミール高原(かつてはImeon山と呼ばれた)を通過した際に見た大柄なヒツジについても詳細な報告を残しておりYule,Cordier,1923年,loc=ch.18Thentherearesheephereasbigasasses;andtheirtailsaresolargeandfat,thatonetailshallweighsome30lb.Theyarefinefatbeasts,andaffordcapitalmutton.訳:次に、ここにはロバと同じ程度の大きさのヒツジがいる。 |
| 1292年にインドを通った時の記録には、聖トマスの墓が当地にあると記している。 |
| また、イスラムの楽器についても記録した。 |
| セイロン島では良質はルビーやサファイアが採れ、またコロマンデル海岸の川では雨の後でダイヤモンドが拾えるが、渓谷に登って採掘するには毒蛇を避けねばならないと記した。 |
世界観への影響
| 『東方見聞録』は、中世におけるヨーロッパ人のアジア観に変化を与えた、キリスト教的世界観である普遍史はエルサレムを世界の中心とするマッパ・ムンディで図案化されてきたが、マルコ・ポーロの報告はパクス・モンゴリカの成立によるアジアの新情報ともども変更を迫られた。 |
| イシドールスの『語源』以来ヨーロッパ人が持っていた怪物や化け物的人類が闊歩する遠方アジア観「化物世界史」増田義郎 『新世界のユートピア』 研究社、1971年/中公文庫、1989年の誤りを数多く指摘した。 |
| マルコ・ポーロ以降も極東の島・日本はまだ見ぬ憧憬の国であり。 |
持ち帰ったもの
| これは羅針盤へ発展し、大航海時代を支える道具となったただし、マルコ・ポーロの方位磁石が地地中海の羅針盤に直接繋がったとは言いがたい。 |
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1260年
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財産をすべて宝石に換えてその地を離れ、毛皮... |
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1266年
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大都(現在の北京)で実現した |
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