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つながりの強いひと
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細谷貞雄
理論と実践 社会哲学論集 ユルゲン・ハーバーマス/著 細谷貞雄/訳 出版社名 : 未来社 出版年月 : 1999年9月 ISBNコード : 978-4-624-01035-5
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木田元
日本の哲学者。専攻は、現象学の研究。モーリス・メルロー=ポンティ等の現代西洋哲学の主要な著作を、平易な日本語に翻訳した。マルティン・ハイデッガー、... |
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関口浩
関口 浩 氏 /せきぐちひろし 東京都生まれ
1978年 東京大学 工学部 応用物理学科 物理工学専攻 卒業。同年4月、(株)東芝 に入社、半導体事業本部(現在... |
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後藤嘉也
後藤嘉也 [ゴトウヨシヤ] 1953年、山形県生まれ。山形大学人文学部卒業。東北大学大学院文学研究科博士課程中退。博士(文学)。北海道教育大学教授(本デ... |
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辻村公一
日本の哲学者、京都大学名誉教授。静岡県浜松市出身。京都帝国大学文学部で田辺元に学ぶ。1948年京都大学教養助教授、1967年文学部哲学科助教授、1974年「ハ... |
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西田幾多郎
西田幾多郎(にしだきたろう、1870年6月17日(明治3年5月19日)-1945年(昭和20年)6月7日)は日本を代表する哲学者。京都大学教授、名誉教授。京都学派の創... |
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カール・ヤスパース
ドイツの精神科医、哲学者。実存主義の代表者の1人。哲学、現代神学、精神医学に強い影響を与えた。主著は『精神病理学総論』(1913年)、『哲学』(1932年)... |
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桑木務(くわきつとむ、1913年6月25日-2000年2月15日)は哲学者。福岡県遠賀郡戸畑町(現・北九州市戸畑区)に科学史家の桑木彧雄の子として生まれる。カント... |
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中村貴志 [ナカムラウズシ] 高松市仏生山に生まれ、京都市鹿ヶ谷で育つ。建築家、鳥取環境大学大学院教授、フランス国立マルセイユ=リュミニィ建築大学名... |
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パリ生まれのオーストリア系ユダヤ人の文芸評論家。「悲劇の終わり」「言語と沈黙」など。割合に取り付きやすいハイデガーの入門書、紹介書です。訳者は、日... |
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『古寺巡礼』『風土』などの著作で知られる日本の哲学者、倫理学者、文化史家、日本思想史家。その倫理学の体系は、和辻倫理学と呼ばれる。日本的な思想と西... |
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ハンナ・アーレント
結婚
ドイツ出身のアメリカ合衆国の政治哲学者、政治思想家。小惑星100027「Hannaharendt」は彼女に敬意を表して命名された。 |
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渡邊二郎
西洋近現代哲学、現象学。東京大学で博士号(文学、1963年)。ドイツ観念論、実存主義、解釈学、フッサール、ハイデッガー等についての研究が多数あり、フッ... |
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門脇俊介
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哲学者、元東京大学教養学部教授。山梨県生まれ。1942年東京帝国大学哲学科卒。戦後、東大教養学部教授。定年前に59歳で死去。カント、ニーチェ、ハイデッガ... |
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モーリス・メルロー=ポンティ
フランスの哲学者。現象学を学び、その発展に尽くした。ロシュフォールに生まれた。パリの自宅で執筆中、心臓麻痺のため死去。 |
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茅野良男
哲学者、大阪大学名誉教授。大分県生まれ。1949年東京大学哲学科卒。北海道大学助教授、教授、お茶の水女子大学教授、大阪大学人間科学部教授、1977年「ドイ... |
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プロフィール
- マルティン・ハイデッガーとは
- 概要
- 生涯
- その他
- 前期
- 存在の意味と現象学的方法
- デカルト批判と現存在
- 解釈学
- 存在の哲学
- 影響
- 関連文献
- 関連サイト
概要
| 現象学の手法を用い、存在論を展開した。 |
| その思想の中心的努力は、解釈学的現象学、現象学的破壊、存在の思索といった時期とともに変遷する特徴的思索をもって、伝統的形而上学を批判し、「存在の問い(dieSeinsfrage)」を新しく打ち立てる事に向けられた。 |
| ヘルダーリンやトラークルの詩についての研究でも知られるが、これらは後期思想と密着に結び付いている。 |
| 後の実存主義などにも多大な影響を及ぼし、その多岐に渡る成果は、彼の影響を直接にうけた弟子たちが後に現代哲学に多大な足跡を残した事、またハイデッガー以後の哲学者たちが、彼の著作から新しい思索の可能性を発展させた事により、ドイツだけではなく20世紀の世界の哲学・人文諸科学にもっとも重大な影響力を及ぼすものとなった。 |
| また1930年代に一時的にせよ彼がナチスへ肯定的な発言をしたことも、彼の哲学がたびたび緊迫した論争の主題へ上ることと関わっている。 |
| しかし彼は再び表舞台で発言することになる。 |
| それは彼の哲学が与えた影響の大きさを物語っている。 |
| 晩年は、日本の歎異抄に多大な影響を受けており、若い頃に出会っていたら、日本語を学び、世界に布教していたとも語っている(本人の日記より)。 |
| (編集:これは親鸞会が広めていることで、まったく根拠がない。 |
| http://www.shinrankai.or.jp/koe/090828ronbun.htm 。 |
| 親鸞会の記述によると、中外日報の記事として、ハイデガーが戦後の日記にこう書いてあったとし、自分がもしも<10年前に>歎異抄を知っていたならば、ギリシャ語ラテン語の勉強はせずに、親鸞の教えを広めたであろう、となっているが、戦後といえば少なくとも1945年以降であり、そこから10年前というと1935年であり、ギリシャ語ラテン語を駆使した著作はそれよりずっと以前に20年代初頭に出ている。 |
| 従って、内容それ自身がおかしなことを言っている。 |
| もしこういうことを親鸞会が言い続けるならば、この日記というのを特定しなければならない。 |
| が、そんな日記が公開されていたならば、ハイデガー関連学会でも注意されるところとなったはずである。 |
| 公衆の目が触れるところでこのようなきわめて勝手な、根拠のない記事の受け売りがなされることは残念である。 |
| RVされる方は出典を明記してください。 |
| ハイデッガーの思想は大きく前期と後期に分けられる。 |
生涯
| 1889年にマルティン・ハイデッガーはドイツのバーデン州メスキルヒにて、地元のカトリック教会の樽職人のフリードリッヒとヨハンナの第一子として生まれた。 |
| 敬虔な両親の教育もあり、ハイデッガーは初めは神学を学んだ。 |
| 1903年からコンスタンツで、1906年からフライブルク大学で学び、1909年にギムナジウムを卒業した後にはイエズス修道会に加入する。 |
| 心臓の病気により修道の道を断念した後は、1911年までフライブルク大学の神学部で学んでいた。 |
| この時期にも幾つか論文を執筆しており、それらは今日出版されている。 |
| 1911年に哲学に専攻を変更し、数学、歴史学、自然科学を共に学ぶ。 |
| 当時、フライブルク大学の哲学講座は西南ドイツ学派(新カント派)のリッケルトが有しており、ハイデッガーの最初の哲学的訓練もそれに則したものとなった。 |
| 1913年に学位論文『心理学主義の判断論──論理学への批判的・積極的寄与』を、1915年に教授資格論文『ドゥンス・スコトゥスの範疇論と意義論』を提出した。 |
| 主査は新カント派の西南ドイツ学派のリッケルトであった。 |
| また、リッケルトがハイデルベルク大学に転出した後にフライブルク大学に赴任したエドムント・フッサールに現象学を直接に学ぶが、ハイデッガーはそれ以前にもフッサールの著作に親しんでいた。 |
| 1919年の戦争緊急学期から1923年の夏学期までの時期、ハイデッガーはフッサールの助手として勤めつつ、フライブルク大学の教壇に立つ。 |
| 一般的にこの時期は初期フライブルク期と呼ばれる。 |
| この時期の主要な著述・講義としては、ドイツ留学中の田辺元も聴講した1923年夏学期講義『存在論―事実性の解釈学』や、マールブルク大学のナトルプに提出した1922年の論文『アリストテレスの現象学的解釈──解釈学的状況の提示』(ナトルプ報告)などがある。 |
| 1923年から28年の間、マールブルク大学の教壇に立った。 |
| 1924年にハンナ・アーレントが同大学に入学し、その時から既婚者であったハイデッガーと指導下の学生であった彼女と愛人関係が始まるエルジビェータ・エティンガー『アーレントとハイデガー』に詳しい、(大島かおり訳、みすず書房、1996年)。 |
| 1927年に未完の主著『存在と時間』で存在論的解釈学により伝統的な形而上学の解体を試みた。 |
| 1928年のエドムント・フッサールの引退を受け、ハイデッガーはその後任としてフライブルク大学の教授に就任した。 |
| ハンナ・アーレントと別れ、翌1929年に彼女はギュンター・シュテルンと結婚した。 |
| しかしハンナ・アーレントとの恋愛関係は後に復活し、戦後も長く続くことになった。 |
| エルンスト・ユンガーの『労働者・支配と形態』の深い影響を受け、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に入党し、1933年にフライブルク大学総長就任演説『ドイツ大学の自己主張』(''DieSelbstbehauptungderdeutschenUniversität'')を行う。 |
| ナチス協力期のハイデッガーは西洋文明の巨大化に危機意識を持ち、物質的でない自然観の復権を願ってナチスに接近し、ヒトラーを指導してナチスを自身の考える方向に向かわせることを考えていたが、イデオロギー闘争に敗れた、と木田元は語る朝日新聞2009年4月16日3版、beライフスタイル7面、『人生の贈りもの』(西洋文明の見直しが「反哲学」、木田元、4回目)。 |
| 木田はこれよりも前の著作『ハイデガーの思想』において、思想とナチスを擁護したことを関連付けて思想をも批判されているが、フライブルク大学の学長として同大学を守るがためにナチスに協力をせざるを得なかったとしていた。 |
| 第二次世界大戦後のハイデッガーはナチス協力を問われてしばらく教職を追われるが、1951年にライバルであったカール・ヤスパースなどの協力により復帰した。 |
| 実存主義者サルトルによってハイデッガーの哲学は実存主義であるとされたが、ハイデッガー自身はこれを否定した。 |
| 1976年、ハイデッガーはフライブルクにて没した。 |
その他
| 1920年代から仏教などの東洋哲学と出会い、学び始めた。 |
| 特に道元の『正法眼蔵』の有時(うじ)の巻には、大変驚いている。 |
| 「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」など、存在と時間は分けられないことが説かれ、主著の『存在と時間』(''SeinundZeit'')は直訳すると「有」と「時」だが、『存在と時間』の哲学がすでに遠い昔に明らかにされていることに驚嘆したと言われる。 |
| さらに晩年には、英訳で歎異抄を読み、大変な感銘を受けた。 |
| 晩年の日記に、次のように記している。 |
| 『今日、英訳を通じてはじめて東洋の聖者親鸞の歎異抄を読んだ。 |
| 弥陀の五劫思惟の願を案ずるにひとえに親鸞一人がためなりけりとは、何んと透徹した態度だろう。 |
| もし十年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったら、自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった。 |
| 日本語を学び聖者の話を聞いて、世界中に拡めることを生きがいにしたであろう。 |
| 』(昭和38年8月6日付、『中外日報』)。 |
存在の意味と現象学的方法
| この著作でハイデッガーは、「存在者」(Seiende、ザイエンデ)と「存在一般」(Sein、ザイン)を区別した上で、存在の意味についての問い―存在者が存在するという意味はどういうことなのか?―を明らかにしようとした。 |
| そのためハイデッガーがとったのは現象学的な方法である。 |
| ハイデッガーは、フッサールと同様に志向性の現象を考察することから始めた。 |
| 人間の行為は、何らかの対象や目的を(建築という行為ならば建物を、会話ならば話題を)目指す限りにおいて志向性をもっている。 |
| ハイデッガーは志向性を「関心(Sorge)」と呼ぶが、これは「不安(Angst)」の肯定的側面を反映している。 |
| ここでいう「関心」は志向的存在に関する基本的な概念であり、存在的(ontischen)なあり方(ただ単にあるだけの存在)とは区別された存在論的(ontologisch)なあり方(存在という問題に向き合いながら存在すること)として、存在論的に意味付けられたものである。 |
| 理論的な知識が表現するのは志向的な行為のうちの一種にすぎず、それが基づいているのは周囲の世界との日常的な関わり方(約束事)の基本形態であって、それらの根本的な基礎である存在ではないとハイデッガーは主張する。 |
| 彼は「実存的了解」(実存を実存それ自体に即して了解する)と、「実存論的了解」(何が実存を構成するかについての理論的分析)の二種類に分類した。 |
| これは、「存在的―存在論的」と呼応するものであるが、人間存在に範囲を限定したものである。 |
| ものは、それが日常的な約束事のコンテクスト(これをハイデッガーは「世界」と呼ぶ)の中に「開示される」限りにおいて、そのような存在者である(そのように存在する)のであって、そのコンテクストを離れても客観的に認められる固有性をもっているからではない。 |
| カナヅチがカナヅチであるのは、特定のカナヅチ的性質をもっているからではなく、釘を打つのに使えるからなのである。 |
デカルト批判と現存在
| 現象学的方法は、デカルト的な実体である「われ」―純粋な思惟者としての「われ」―の否認を必要とする。 |
| デカルトが「われ思う」だけは疑いえないものとしたとき、思っている「われ」の存在様式は無規定のまま放置されたとハイデッガーは述べている。 |
| その一方でハイデッガーは、人間の行為に関するいかなる分析も「われわれは世界の中にいる」という事実から(世界を「抽象的に」見る風潮に則らずに)始めなければならない、したがって、人間の実存に関して最も根本的な事柄はわれわれの「世界=内=存在」(In-der-Welt-sein)であると主張した。 |
| 人間もしくは現存在(Da-sein)とは、世界の中で活動する具象的存在なのだということをハイデッガーは強調した。 |
| 彼は、デカルト以来ほとんどすべての哲学者が自明のこととして依拠する「主観―客観」という区別をも拒否し、さらには意識、自我、人間といった語の使用も避けた(ハイデッガーは「人間」の代わりに「現存在(Da-sein)」という)。 |
| これらはいずれもハイデッガーの企図にはそぐわないデカルト的二元論のもとにあるためである。 |
| 存在者がわれわれにとって意味をなすのは、存在者がある特定のコンテクストの中で使用できるためであり、そしてこのコンテクストは社会的規範によって定義される。 |
| 存在者が開示されうる(コンテクストにおいて有意味にであれ、不安の経験において無意味にであれ)という事実は、いずれにせよ存在者は開示されうるという先行する事実に基づいている。 |
| ハイデッガーはそうした存在者の開示を「真実」と呼んだが、これは正しさというよりは「隠れのなさ」と定義される。 |
| これはギリシア語で「アレテイア(αληθεια)」と呼ばれ、アリストテレスやヘラクレイトスからハイデッガーによって引き出された概念である。 |
| ハイデッガーの用語「現存在」とは、おのれの存在を関心事とする存在者であり、また、おのれの存在をそのように開示させる存在者である。 |
| ハイデッガーが存在の意味についての探求を現存在の本質についての探求とともに始めたのはこうしたわけである。 |
| 存在の隠れなさは基本的に現世的かつ歴史的な、非計測的な時のうちでの現象である(本書を『存在と時間』と題したのもこのためである)。 |
解釈学
| これが、『存在と時間』におけるハイデッガーの手法がしばしば解釈学的現象学と呼ばれるゆえんである。 |
| 『存在と時間』は未完に終わったため、全体的な計画に関するハイデッガーの宣言や、現存在とその時間内的な限界についての緊密な分析と解釈をなし遂げてはいるが、そのような解釈学的手法により「存在一般の意味」を解明するまでには至らなかった。 |
| カントは『純粋理性批判』の序文で、外的世界の存在に関する完全な証明がいまだなされていないことを「哲学のスキャンダル」だと嘆いた(自分の著書がそれを与えるのだと自負した)が、ハイデッガーにいわせればそのような証明ばかりが求められることこそ哲学のスキャンダルであった(本書第1篇第6章第43節)。 |
| 同時に彼の企図は非常に野心的であり、生物学、物理学、心理学、歴史学といった存在的なカテゴリーにおいて研究される特定の事物の存在には関心がなく、追求したのは存在一般についての問い、すなわち「なぜ何も無いのではなく、何かが存在するのか」(ライプニッツ)といった存在論的な問いであった。 |
| ハイデッガーはこうした問いに対し、「いかにしてわれわれは世界と具体的かつ非論理的な方法で遭遇するか」「いかにして歴史や伝統がわれわれに影響を与え、われわれによって形成されるか」「事実上いかにしてわれわれはともに生きているか」「そしていかにしてわれわれは言語やその意味を歴史的に形成するか」といったことに注視するという最も具体的な方法をもって取り組んだ。 |
存在の哲学
| 彼にとって理論的な見解というものは人工的なものであり、関わり合いを欠いたまま事物を見ることによってもたらされるものであり、そうした経験は「平板化」(Nivellierung)されたものである。 |
| こうした態度は、ハイデッガーによって「客体的」(vorhanden=すでに手のうちにある)と呼ばれ、相互行為のより根源的なあり方である「用具的」(zuhanden=手の届くところにある)な態度に寄生的な欠如態とされる。 |
| 他者とは、孤立して存在する単一の主体「私」を除いたすべての人びとのことではなく、たいていの場合はひとが自分自身とは区別していない(ともにある)人びとのことである。 |
| 例えば、「私」が作物を踏み潰したり土を踏み固めてしまわないよう注意しながら畑の周りを歩くとき、この畑は「私」にとって道具的なものであるが、同時に「誰か」の所有地として、あるいは「誰か」に手入れされている(他の「誰か」にとっても道具的である)ものとしても現れる。 |
| つまりニュースやゴシップでしばしば見られるように、「世間では~といわれている」というとき、一般化して断定したり、一切のコンテクストを無視してそれをやり過ごそうとしたりする傾向があるということである。 |
| たんに群集のあとを追って他の人々に習うだけでは何の妥当性も保証されないし、社会的・歴史的状況から完全にかけ離れたことが妥当なことだとみなすことなどできないにもかかわらず、「世間」がその平均性のみを妥当なものとして指示するのである(本書第1篇第4章第26-27節)。 |
影響
| 弟子には哲学者のハンス・ゲオルク・ガダマー、哲学者のカール・レーヴィットがいる。 |
| ハイデッガーはサルトルのみならず、フランスのポストモダン、ポスト構造主義思想家フーコー、デリダ、ラクー・ラバルトらに影響を与えた。 |
| 特にハイデッガーの形而上学の解体はデリダの脱構築に深い影響を与えた。 |
| 日本においては、初期、九鬼周造・三木清・和辻哲郎らの哲学者がハイデッガーの思想から影響を受けた。 |
| 戦後、マルクス主義思想の隆盛等によってその影響は退潮したものの、サルトルやモーリス・メルロー=ポンティらに代表される実存主義との関連で読まれることもあった。 |
| さらに、1980年代のいわゆる「ニュー・アカ」ブームにおいて、ニーチェやデリダの著作と共に知られる機会が多くなった。 |
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1889年
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マルティン・ハイデッガーはドイツのバーデン... |
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1909年
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ギムナジウムを卒業した後にはイエズス修道会... |
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マルティン・ハイデッガーさんについてのひとこと紹介
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