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プロフィール
- マーティン・ブランドルとは
- 1983年以前
- 1984年
- 1985年
- 1986年
- 1987年
- 1988年
- 1989年
- 1990年
- 1991年
- 1992年
- 1993年
- 1994年
- 1995年
- 1996年
- F1引退以降
- 補足
- 名前の類似
- 関連項目
1983年以前
| 1977年にフォーミュラカーに転向、1981年からイギリスF3に参戦。 |
| 1983年にはアイルトン・セナとチャンピオン争いを展開、開幕9連勝などシーズン前半は圧倒的なリードを築いていたセナに対し、ブランドルは後半に猛追、計6勝を挙げ一時は逆転したが、最終戦までもつれ込んだ末再逆転を許しシーズン2位となった。 |
| また同年はセナ、ステファン・ベロフと共にF1テストに呼ばれ、初めてF1マシンをドライブしている。 |
1984年
| 1984年にティレルからF1デビュー、開幕戦ブラジルGPで5位に入りF1初戦で入賞を果たす。 |
| 第8戦アメリカ東GP(デトロイトGP)では予選11位から追い上げ、トップのネルソン・ピケから0.8秒差の2位でフィニッシュ、初表彰台を記録。 |
| この年唯一のNAエンジン搭載チームながら、チームメイトのベロフと共に速さを見せ、新人離れした走りで注目を浴びていた。 |
| しかしこのGPで、チームのシーズンを通した悪質な車両違反が発覚(水タンク事件)、最終的な裁定が下るまで参戦は許されたものの、続く第9戦アメリカGP(ダラスGP)で負傷し離脱。 |
| また、上記の車両違反を受け、ベロフ共々シーズンの全成績を抹消されることとなった。 |
1985年
| ベロフと共にティレルに残留するも、前年の不祥事からチームスポンサーの殆どは撤退しており、苦しいシーズンを送る。 |
| 秋にはベロフが、F1と並行し参戦していたWSPCで事故死してしまった(ブランドルも同選手権には参戦していた)。 |
| チームメイトとの成績でも、ベロフが4位1回・6位1回、ベロフの後任を務めたうちの1人イワン・カペリが5位1回の入賞を記録したのに対し、ブランドルの最高位は3度の7位に留まり、ポイントを獲得できなかった。 |
1986年
| 1986年もティレルから参戦し、開幕戦ブラジルGPで5位入賞。 |
| 初年度となる1984年の成績を抹消されている為、公式記録ではこれがF1初入賞となる。 |
| その後第9戦イギリスGPでも5位、第11戦ハンガリーGPでは6位、最終戦オーストラリアGPでは4位に入り、計4度の入賞となった(シーズン11位)。 |
1987年
| 1987年はザクスピードに移籍するも戦闘力は低く、10度のリタイヤ・2度の周回不足・1度の失格処分を喫した。 |
| しかし完走した3戦のうち、第2戦サンマリノGPでは5位に入賞、結果的にはチームのF1参戦成績における唯一の入賞となった(ブランドルのシーズン成績は18位)。 |
| またWSPCにも3度スポット参戦、1勝をマークしている。 |
| またこの年より、ル・マン24時間レースに参戦するようになる。 |
1988年
| 1988年はWSPCを主として参戦、ジャガー・XJR-9を駆り計5勝を挙げ、年間王者に輝いた。 |
| IMSAにも参戦しており、デイトナ24時間レースで優勝するなど年間5位の成績を収めた。 |
| この年のF1にはレギュラー参戦していなかったが、水疱瘡に感染したナイジェル・マンセルの代役として、第11戦ベルギーGPのみウィリアムズから出走している(7位完走)。 |
1989年
| 1989年はブラバムからF1に出走、2年ぶりのレギュラー参戦となった。 |
| しかしこの年のマシンも戦闘力は低く、5位1回・6位2回の入賞に留まる。 |
| またチームからの給与が未払いとなり、裁判にも発展することとなる。 |
1990年
| 1990年も当初はブラバムからF1に参戦予定だったが、上記の給与未払いの問題から離脱、この年は1度もF1を走ることはなかった。 |
| WSPCでは1勝を記録しシーズン8位となる。 |
| またル・マン24時間レースでは、ジョン・ニールセン、プライス・コブと共にジャガーから参戦し優勝を果たしている。 |
1991年
| 1991年にブラバムでF1に本格復帰、この年もマシンは競争力に欠けており、苦しいシーズンとなったが、第15戦日本GPでは5位に入賞(シーズン15位)。 |
| また、WSPCから規格変更・改称されたSWCにも参戦し1勝をマークした。 |
1992年
| 1992年にはベネトンのシートを獲得し、初めて競争力のあるマシンで参戦する機会を得た。 |
| この年以降、F1キャリアにおける総ポイントの多くを獲得することになる。 |
| 序盤こそトラブルが続き、開幕から4戦連続でリタイヤを喫したが、第5戦サンマリノGPで4位となりシーズン初入賞。 |
| 第8戦フランスGPでは3位に入り、公式リザルト上の初表彰台となった。 |
| 第9戦イギリスGPでは、F3時代のライバルだったセナをスタートで抜き3位を奪取、セナに仕掛けられた場面では抑え切るなど順位をキープしたままゴール、母国で表彰台に上がった。 |
| その後も第12戦イタリアGPで自身最高位となる2位を記録するなど、全16戦中入賞11回、うち表彰台5回の最終成績を収め、ランキング6位を獲得。 |
| 特にフランスGP以降は、最終戦オーストラリアGPまで9戦連続入賞を記録した。 |
| しかし既にチームでは、荒削りながら若手として速さを見せていた同僚・ミハエル・シューマッハが確固たる地位を確立しており、速さで後塵を拝したブランドル(予選ではシューマッハに全敗を喫している)は地味とされることが多かった。 |
| 結局翌1993年にリカルド・パトレーゼがチームに移籍してくることが決定すると、チームを離れることとなった。 |
1993年
| 1993年にはリジェに移籍、第3戦サンマリノGPでの3位表彰台、第8戦フランスGPでの予選3位など速さを見せ、7度の入賞(3位1回・5位3回・6位3回)でランキング7位を獲得。 |
| 1991年にもブラバムでチームメイトだった同胞マーク・ブランデルとともに活躍し、チームをランキング5位に導いた。 |
| しかし、それでも翌年のシートはなかなか決まらず、1年でチームから離脱した。 |
1994年
| 1994年はマクラーレンから参戦、この際はギリギリまでシートが決まらず、開幕直前の2月末で決定したものであった。 |
| マシンの信頼性が低くリタイヤが多かったが、ドライバーの腕が反映されると言われる第4戦モナコGPで2位に入る等、2度の表彰台を含め5度の入賞(2位~6位各1回ずつ)を記録しランキング7位となった。 |
| しかし、1992年時のシューマッハ同様、若手の有力候補だったミカ・ハッキネンに速さで後塵を拝し、予選では1勝15敗・決勝でも入賞すれば全て表彰台だったハッキネンに対し、ポイント獲得数で差をつけられる形となった。 |
| ナイジェル・マンセルのF1復帰もあり、再び1年でチームを離脱した。 |
1995年
| 1995年はオリビエ・パニスのチームメイトとして、2年ぶりにリジェに復帰した。 |
| しかしこれは、既にエンジン供給先の無限との関係で、日本人の鈴木亜久里が先にシートを得ていたものを、ジャガーのスポーツカーレース時代から縁のあるトム・ウォーキンショーが強引にねじ込むという、曰く付きなものだった。 |
| 形式上は亜久里とシェアとなっていたが、結局大半のGPでマシンをドライブ、第7戦フランスGPで4位・第11戦ベルギーGPでは3位表彰台を記録している(ランキング13位)。 |
| この年も1年でのチーム離脱となった。 |
1996年
| 1996年はジョーダンに移籍。 |
| 開幕戦オーストラリアGPでは、スタート直後に宙を舞い、裏返しのままタイヤバリアに激突するという激しいクラッシュを起こす。 |
| しかしすぐにマシンから這い出し、直後の再スタートに参加するというタフな面を見せた。 |
| この年は表彰台に立つことはなかったものの、4位1回・5位1回・6位3回と計5度入賞、ランキングは11位だった。 |
| 翌年もチーム残留を希望したものの、チームは、ジャンカルロ・フィジケラとラルフ・シューマッハの若手コンビを選んだため、この年を最後に長きに渡ったF1でのキャリアに終止符を打った。 |
| この年はプライベーターとしてWRC・RACラリーにも出場したが、リタイアに終わった。 |
F1引退以降
| F1引退以降もル・マン24時間レースには参戦、特に1998年・1999年はトヨタからの参戦であり、TS020を駆った。 |
| 1999年にはWRC・RACラリーに2度目の参戦、TTEからスポット・ドライバーとして出場するもリタイアしている。 |
| ドライバー業以外では、1997年よりイギリスITVにおけるF1中継で解説を長年担当。 |
| しかし2009年、BBCでの解説者へと移籍している。 |
| またかつての同僚であるマーク・ブランデルと共に、2004年にドライバー・マネージメント会社「2MB」を共同設立、ドライバー育成プログラムも運営していた。 |
| 特にデビッド・クルサードのドライビング契約は、11シーズンに渡ってブランドルが交渉していたという。 |
| しかし2009年、クルサードの引退、同年よりF2に参戦する息子・アレックスへの支援に専念すること等を理由に、ブランドルはドライバーの全マネージメントから手を引いた。 |
| その後、2011年シーズンにアメリカのグランダム選手権でF1ブラバム時代以来20年ぶりのマーク・ブランデルとブラブラコンビを組み、2MBの若手ドライバー育成プログラム生であるザク・ブラウン、マーク・パターソンとともにユナイテッドオートスポーツウィズマイケルシャークレーシングからライリー・フォードを駆り開幕戦のデイトナ24時間耐久レースに出場した。 |
| (決勝は4位入賞)。 |
補足
| F1においては、「優勝・ポールポジション(PP)・ファステストラップ(FL)」の全てを記録したことがないドライバーでは、最多出走という記録を持つ。 |
| 1992年モナコGPでは、終盤までFLを保持していたが、ピットインでトップから転落したマンセルが、追走の中ブランドルのベストタイムを4秒上回るラップを記録し幻となった。 |
| 2008年には、第7戦カナダGPにおけるバーニー・エクレストンへのインタビュー中に「ジプシー」を意味するスラングを使用、平等人権委員会から非難を受けた。 |
| しかし、「ユーモアを込めた使用であり、悪意は認められない」とされ、テレビ監視委員会からの処分は無かった。 |
| 2009年に発覚した所謂「クラッシュゲート事件」に関しては、「情報がリークされたことでF1がダメージを負った」「F1という世界で途方もない利益を得てきたにもかかわらず、腹立ちに紛れた行動をした」など、事件の当事者となったネルシーニョとマネージャーを務めるその父・ピケを批判している。 |
名前の類似
| 1991年にマーク・ブランデルとコンビを組んだ際、2人の名前が非常に似ていたことが「ブラバムのブラ・ブラコンビ」として日本で話題となった。 |
| 2年後の1993年には再びチームメイトとなり、1度ならず2度コンビを組んだことで更に注目されることとなる。 |
| 当時実況を担当していた古舘伊知郎から「アナウンサー泣かせ」「F1界の峰竜太と竜雷太」と言われていた他、1993年の開幕前のF1ポールポジションでは、ドライバー紹介の前に、漫才舞台の横に「ぶらんどる&ぶらんでる」とお笑いコンビのように表記された絵を登場させるネタも見られた。 |
| これらはあくまで日本でのことだったが、互いの間でもネタにしていたのか、2004年に2人で共同設立したドライバー・マネージメント会社は、共にイニシャルが同じことから「2MB」だった。 |
| 前述のように、2009年以降はブランデルが単独でオーナーを務めているが、その後も社名は「2MB」のままである。 |
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1959年
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マーティン・ブランドル(Martin Brundle , ... |
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1977年
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フォーミュラカーに転向、1981年からイギリス... |
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