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プロフィール
- ミカ・ハッキネンとは
- 生い立ち
- カート
- ジュニア・フォーミュラ
- 1989年
- 1990年
- 1991年
- 1992年
- 1993年
- 1994年
- 1995年
- 1996年
- 1997年
- 1998年
- 1999年
- 2000年
- 2001年
- 2004 - 2005年
- 関連サイト
ミカ・パウリ・ハッキネン(,1968年9月28日-)は、フィンランド出身の元レーシング・ドライバー。1998年と1999年を2年連続でF1ワールドチャンピオンになり、フライング・フィンと形容されていた。その走りと人柄の良さで多くのファンに愛され、『AS+F』の人気投票では1992年からF1を引退する2001年まで、10年連続で1位を獲得したほどの人気があり、“北欧の貴公子”,“白夜の国の王子様”とも呼ばれていた。7度の世界チャンピオンである ミハエル・シューマッハはハッキネンを「最強の敵であり、最高に尊敬できるライバル」と認めている。現在、メルセデス・ベンツと ジョニー・ウォーカーのキャン ...
生い立ち
| フィンランドヘルシンキ市近郊のヴァンター市で、短波無線通信士の父ハリーと秘書である母アイラの長男として生誕。 |
| 家族は他に姉ニーナがいる。 |
| 6歳のとき、父親が勤めるヘルシンキ・ラジオ局に行った際、近くのケイモラ・サーキットを見学したが、そこでカートに乗りたいと言いだし、たちまち夢中になりその才能を磨いていった。 |
| ハッキネンがカートを続けていくレース資金の捻出を、父親がパートタイムのタクシー運転手も勤め、手書きの企画書でスポンサーを探し、母親は毛皮の競売会社で倉庫管理とスーパーのレジを掛け持ちして、行なっていた。 |
カート
| ハッキネンは1981年にF-ミニクラス国内チャンピオンを獲得し、1982年にはロニー・ピーターソンメモリアル選手権のチャンピオンになった。 |
| そして1983年から1986年まで、4年連続でFNクラス国内チャンピオンに輝いた。 |
| 1984年にはフランスのラヴァルで開催されたカート世界選手権でミハエル・シューマッハと初対決した。 |
| ハッキネンが国内のみで走っていたのとは対照的に、シューマッハはヨーロッパの各国で走っていたのでシューマッハのほうが有名であった。 |
| シューマッハはこのレースに優勝したが、ハッキネンはスタートが悪く、燃料系のトラブルを抱えており、3番手を走行中にイタリアのロベルト・コルチアーゴと接触し、スピンした。 |
| このレースにはCARTに参戦したポール・トレーシーも出場していた。 |
| 1986年末、それまでの活躍に注目したケケ・ロズベルグがハッキネンのマネジャーとなり、ハッキネンがF1を引退するまで支援した。 |
| 「F1倶楽部」 双葉社、30号、2000年、20頁。 |
ジュニア・フォーミュラ
| 1987年にフィンランド・スウェーデン・スカンジナビアのフォーミュラ・フォード1600の3シリーズで全てチャンピオンを獲得すると、1988年にはイギリスへ拠点を移し、ドラゴン・モータースポーツに所属してGM・ロータス・シリーズとオペル・ロータス・ユーロシリーズでそれぞれチャンピオンを獲得した。 |
1989年
| ドラゴン・モータースポーツからF3選手権へステップアップし、参戦。 |
| チーム(レイナード・トヨタ)の戦闘力に問題があったため、ハッキネンの1年目は決して順調ではなく、選手権7位であった。 |
| しかし、ウエスト・サリー・レーシング(WSR)でシリーズチャンピオンになったアラン・マクニッシュシリーズ終了後に抗議が提出されてチャンピオンはデビッド・ブラバムになった。 |
| が、チームスポンサーであったマールボロからの褒美と急遽F1参戦が決定したJJ・レートに代わってパシフィック・レーシングから国際F3000の最終戦に参戦する事になったために、WSRのシートに空きが生じた。 |
| ハッキネンは同じマールボロからのサポートを受けていたことから最終戦前にWSRへ移籍、初めてドライブするラルト・無限でいきなり初優勝を飾った。 |
| このレース結果により、ハッキネンは1990年シーズンの契約をWSRと交わすこととなった。 |
| また、1989年のオフシーズンにベネトンのテストでB189を走らせたハッキネンは、ベネトンのドライバーであるアレッサンドロ・ナニーニより速いタイムを叩き出し、注目された 『AS+F-'96年モナコGP号(注釈1)』 三栄書房、1996年、29-31頁。 |
1990年
| 全17戦の選手権は同国人であるミカ・サロとの激しい争いになり、“ミカ・ミカ対決”と呼ばれ、話題となった。 |
| 開幕戦はハッキネンが制し、第2戦をサロと勝ち星を分け合う展開だったが、再びハッキネンが2連勝した直後にサロが3連勝。 |
| 中盤からはハッキネンが5連勝と圧倒的強さで差を広げる。 |
| 最終的にはハッキネンは9勝をあげ、イギリスF3チャンピオンとなった。 |
| ジャッキー・スチュワートはイギリス人が活躍しない同選手権に対して「ハッキネンとサロをイギリスから追い出してしまえ」とぼやいていた今宮純 『F1ドキュメント』 山海堂、2000年、62頁。 |
| イギリスF3を制したハッキネンは、F3の世界王者決定戦ともいえるマカオGPに参戦。 |
| 予選ではアイルトン・セナが7年間保持していたコースレコードの2分22秒02をあっさり破り、2分20秒88でポールポジションを獲得した。 |
| 予選2位にはドイツF3チャンピオンのミハエル・シューマッハが入ったミハエル・シューマッハもアイルトン・セナのタイムを破るが、2分21秒59と0.71秒差があり、予選4番手にエディ・アーバイン、7番手にミカ・サロが入った。 |
| 決勝レースは、第1レグと第2レグの結果を総合して順位が決まる。 |
| 第1レグでは圧倒的なタイム差でハッキネンが優勝し、2位にシューマッハが入賞した。 |
| 続く第2レグでハッキネンは、シューマッハにわずかながら先行される。 |
| レース中に予選より速い2分20秒81というタイムをマークしていたハッキネンは、このレースでシューマッハに次ぐ2位でも、ハッキネンは第1レグのタイム差から総合優勝できるはずであった。 |
| しかし、ハッキネンは最終ラップでトップを走るシューマッハを抜きにかかる。 |
| シューマッハはラインを変えてブロックし、両者は接触した。 |
| ハッキネンはガードレールに激突しリタイアとなったが、シューマッハはリアウィングを失いながらもそのまま走り続け、第2レグを優勝。 |
| 結果、総合優勝はシューマッハが獲得した。 |
| レースの直後、シューマッハがハッキネンのガレージにやってきて「すまなかった。 |
| 君が後ろにいるなんて見えなかったんだ」と謝ったが、ヨーロッパに戻ってからシューマッハはテレビ出演し、接触のことを聞かれると「ミカのことは見えていたよ。 |
| だから、ブロックしたんだ。 |
| あの状況では、僕は勝つために当然のことをしたと思うよ」と答えた。 |
| 『GPX(F1GrandPrixXpress)』 99F1Calendarissue/226、山海堂、1998年、38頁。 |
| シューマッハは翌週に富士スピードウェイで行われた「インターナショナルF3リーグ」でも優勝してマカオGPから連勝を飾る一方、ハッキネンは予選から続くエンジントラブルによるリタイアでF3のレースを終えた。 |
| この年、ハッキネンはシューマッハが参戦していたドイツF3やイタリアF3において、スポット参戦ながらいずれも勝利を収めており、実力的にF3ではほぼ敵なしの状態にあった。 |
1991年
| 1991年は、F1グランプリの現実を知り、大苦戦で過ごしたシーズンであった。 |
| ロータス・ジャッドからデビューを果たす。 |
| 当時、予選は30台エントリーで走り、26台枠に絞り込むルールであったが、ハッキネンはデビュー戦アメリカGPで予選13位に入った。 |
| 決勝では走行中にステアリングが外れるトラブルに見舞われたが、ピットで修復後そのまま走り続け、60周目にオイルユニオンの破損でリタイアとなった。 |
| このシーズンのロータスは、前年までのタイトルスポンサーであるキャメルを失い、代わりのメインスポンサーはみつからず、資金難で運営していた。 |
| 基本設計が2年前から変わっていないマシンにハッキネンは乗っていたが、第3戦サンマリノGPでは予選25位から5位入賞を果たし、初ポイントを獲得した。 |
| しかし、その後はハッキネン自身の力では如何ともし難く、予選落ちも経験し、散々なシーズンを過ごした。 |
| 資金が乏しく、思うように開発が行えないロータスではマシンの戦闘力アップも見込まれないため、それが精一杯の結果であった。 |
| 最終的には選手権15位となり、ティレル・ホンダの中嶋悟とブラバム・ヤマハのマーティン・ブランドルと同点であった。 |
1992年
| 1992年は、前年よりマシンの性能は上がったものの、チーム運営は不安定のままであった。 |
| エンジンがフォード・コスワースに変わり、ジョニー・ハーバートをチームメイトとして迎える。 |
| シーズン序盤はすでに3年落ちになっていた旧車102Dを駆り、第3戦メキシコGPで6位に入賞した。 |
| 第5戦サンマリノGPから、ハーバートのみにニューマシンロータス107が与えられ、ハッキネンは第6戦モナコGPから同マシンを与えられた。 |
| クリス・マーフィーがデザインした107はセミアクティブサスペンションを搭載していた。 |
| 特に第12戦ベルギーGPでは、マシンの戦闘力がトップチームより劣っているにもかかわらず、スタート直後のオー・ルージュからラディオン、ケメルストレートのオープンニングラップでフェラーリのジャン・アレジ、ベネトンのミハエル・シューマッハらと横一線に並び、それぞれのマシンの底から火花が飛ぶサイドバイサイドのバトルを行った。 |
| また、レース終盤にはマクラーレンのアイルトン・セナと5位争いの最中、ケメルストレートでセナを抑えきり、最終的にはマシンの戦闘力の差から、セナに抜かれ6位に終わったが、ハッキネンはこのレースでさらに評価を上げて、世代交代をF1関係者に予感させた。 |
| ロータスの将来に不安を抱いたハッキネンは、シーズン終了後ウィリアムズと契約した。 |
| ところが、フランク・ウィリアムズは1993年シーズンのエントリーを忘れていた為、ウィリアムズが参戦するには他の全チームの承認が必要となった。 |
| 『F1速報7/16号 「フランスGP号」』 第9巻13号、ニューズ出版、1998年、39頁。 |
1994年
| 1994年はセナに代わるエースとして期待されたが、前半戦でプジョーエンジンの性能や信頼性に悩まされたことが、終盤まで響いたシーズンとなった。 |
| エンジンを前年のフォード・コスワースからワークス待遇のプジョーへと乗せ換えたMP4/9はドライバビリティが悪いマシンであった。 |
| ハッキネンはウィリアムズ・ベネトン・フェラーリに対して、苦戦を強いられることとなる。 |
| 特に第5戦スペインGPでは完走していれば優勝の可能性もあったが、トップ走行中にエンジンブローでリタイア。 |
| これまでマクラーレンは、提携エンジンメーカーを1992年にホンダ、1993年にフォード・コスワースと変更し、マシンの戦闘力を上げるのに苦労してきた為、プジョーとも複数年契約を結んでいた。 |
| しかし、そのプジョーとの契約をこのシーズンのみで打ち切り、翌年はイルモアが開発するメルセデス・ベンツへと4回目のエンジン変更をすることが決まった。 |
1995年
| しかし、エンジンとのマッチングに苦労していたMP4/10は、MP4/10B、MP4/10Cとモディファイされるほど、改善に追われたマシンであった。 |
1996年
| 前半戦はMP4/11のハンドリングに悩まされたが、第6戦モナコGPで使用したツイスティなサーキット専用のショートホイールベース仕様のMP4/11Bのハンドリングが良かったことから第10戦イギリスGP以降、MP4/11Bで走り始めた。 |
1997年
| 1997年は、チームがインペリアル・タバコグループのレームツマ社と契約して、ドイツ向けタバコブランドであるウエスト(West)をタイトルスポンサーとして新たな出発をしたが、ハッキネンはMP4-12の信頼性に苦しめられた。 |
| 第13戦イタリアGPでは参戦92戦目で初のファステストラップ(FL)を獲得して、続く第14戦オーストリアGPではフロントローからスタートしてトップを奪ったが、わずか1周でエンジントラブル。 |
1999年
| MP4-14のメカニカルトラブルは、開幕戦オーストラリアGPでスロットルリンケージの異常によるリタイア、第4戦モナコGPではステアリング異常でコースアウトし順位を落とし、第8戦イギリスGPでは左リアホイール脱落と第10戦ドイツGPでは給油リグの故障とタイヤバーストで、共にリタイアと足を引っ張られた。 |
| ハッキネンも第3戦サンマリノGPと第13戦イタリアGPでリタイアしたが、サンマリノGPではトップ走行中の18周目に入る直前、右回りの最終コーナーで、前後の左側タイヤを縁石に乗せた瞬間、アウト側(左側)にスピンし、MP4-14の左前方からコンクリートウォールにクラッシュした。 |
2000年
| ハッキネンのMP4-15は、開幕戦オーストラリアGPはエンジンのニューマチックバルブが壊れ、第2戦ブラジルGPではエンジンの油圧トラブルで連続リタイアに見舞われた。 |
| しかし、ハッキネンは勝ちに行けない時には2位を、それを狙えないピンチに追い込まれれば、第7戦モナコGP6位、第8戦カナダGP4位が証明するようにFLを樹立しながら、1ポイントでも取ろうと疾走を重ね、サンマリノGPから第14戦イタリアGPまで12戦連続入賞して、シューマッハを追い上げた 『F1グランプリ特集』 10月号、ソニー・マガジンズ、2000年、101頁。 |
| 第6戦ヨーロッパGPではチームの戦略とピット作業ミスに足を引っ張られ、グリッドが重要なモナコGPでは予選のアタック全てに黄旗が振られるという不運に見舞われ、5番グリッドからのスタート後、ブレーキやギヤボックスにトラブルを抱えた苦しいレースを耐えて完走した。 |
2001年
| 第3戦ブラジルGPでクラッチ、第6戦オーストリアGPでラウンチコントロール、第10戦フランスGPでギアボックスと、この3つのグランプリは決勝スタート直後に1周も走れずにリタイアした。 |
| ここ4年で最低なシーズンであったが、シューマッハとバトルした第11戦イギリスGPと、フリープラクティス中のペナルティで2位から4位にスタートが繰り下がったがタイヤを労わり他のドライバーよりピットストップを遅くしたワンストップ作戦の第16戦アメリカGPでそれぞれ勝利をあげ、リタイアしたスペインGPも含め、速さを示した。 |
2004 - 2005年
| 2004年は、ジェンソン・バトンが抜けると云われていたB・A・Rとマーク・ウェバーのチームメイトを探していたウィリアムズからオファーがあり、“いよいよF1復帰か?!”とストーブリーグの話題となった。 |
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1968年
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ミカ・パウリ・ハッキネン(, )は、フィンラ... |
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1981年
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F-ミニクラス国内チャンピオンを獲得し、1982... |
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ミカ・ハッキネンさんについてのひとこと紹介
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