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つながりの強いひと
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フセヴォロド3世
ウラジーミル大公。短期的にはキエフ大公位にも就いた。父はユーリー・ドルゴルーキー。祖父はウラジーミル2世モノマフ。子が多く、大巣公と呼ばれた。息子に... |
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レオ9世
ローマ教皇(在位:1049年-1054年)。ヒルデブランド(後の教皇グレゴリウス7世)らの人材を得て教会改革に尽力した教皇。聖別されており、教会慣用名はレオ。 |
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明暹
平安時代中期から後期にかけての興福寺の僧。父は儒学者で大学頭藤原明衡。笛の名手として知られる。三会已講師(さんえのいこうし=宮中における御斎会・興... |
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ヤロスラフ2世
フセヴォロド3世の子、母はチェコ公女マリヤ。キエフ大公としてはヤロスラフ3世と数えられる。ペレヤスラヴリ・ザレスキーで生まれる。ペレヤスラヴリ公、ノ... |
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ムハンマド
アッラーの決めたルールを人間に教えるために、たくさんの預言者が送られてきました。 最初の預言者は「アダム」です。そして、最後の預言者は「ムハンマド ... |
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ヤロスラフ3世
最初トヴェリ公(1247年-1271年)、兄の死後ウラジーミル大公(在位:1263年-1271年)。ヤロスラフ2世の子で、ロシアの英雄と言われるアレクサンドル・ネフ... |
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ムスチスラフ1世
ムスチスラフ1世(МстиславIВладимирович,1076年6月1日-1132年4月14日)はキエフ大公(在位:1125年-1132年)。「偉大なる」ムスチスラフとあだ名される。ウ... |
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イジャスラフ2世
イジャスラフ2世(ИзяславIIМстиславич,1097年-1154年)はキエフ大公(在位:1146年-1149年、1150年、1150年-1154年)。父はムスチスラフ1世、母はスウェーデ... |
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ムスチスラフ2世
ムスチスラフ2世(古ルーシ語:、?-1170年)はキエフ大公(在位:1167年-1169年)。イジャスラフ2世の長男。息子には南西ルーシの雄ロマン大公がいる。 |
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ヤロスラフ1世
ヤロスラフ1世(古東スラヴ語・ロシア語:ЯрославМудрый、古ノルド語:Jarizleifr、ウクライナ語:、978年頃-1054年2月20日)はキエフ・ルーシの大公(在位:101... |
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イジャスラフ3世
イジャスラフ3世(古ルーシ語:、?-1162年)はキエフ大公(在位:1154年-1155年。キエフ大公スヴャトスラフ2世の孫で、ダヴィドの四男にあたる。母はフェオド... |
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ウラジーミル1世
キエフ大公国の大公(在位980年頃-1015年)。「聖公」と呼ばれる。スヴャトスラフ1世と侍女マルーシャの子。子にはヤロスラフ1世やボリスとグレプがいる。キ... |
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イーゴリ1世
キエフ公国の大公(在位:913年/923年-945年)。ルーシの祖というべきリューリクの子。スヴャトスラフ1世の父。オレグ摂政の死後、キエフ大公国の支配者となっ... |
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ヤロポルク2世
スモレンスク公、ペレヤスラヴリ公を経てキエフ大公(在位:1132年-1139年)。ウラジーミル・モノマフの子。母親はアングロ・サクソンのギータ。1132年に兄ム... |
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畑俊六
日本の陸軍軍人。最終階級は元帥陸軍大将。偕行社会長。位階勲等は正三位勲一等功一級。兄・英太郎は陸軍大将・陸軍省軍務局長・関東軍司令官、長男・俊八は... |
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イェレミアス2世
アンヒアロス(ギリシャ語名。ブルガリア語ではポモリエ)に生まれた。1572年に総主教に選立されたが1579年に罷免される。これはオスマン帝国の支配者が総主... |
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アスコルド
キエフの現地の公朝の代表の一人であったとされている。 |
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イジャスラフ1世
キエフ大公(在位:1054年-1068年、1069年-1073年、1076年-1078年)。父はヤロスラフ1世、母はスウェーデン王女。1024年にキエフに生まれる。1054年に父を継... |
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ジュゼッペ・ピアッツィ
ローマ神話の女神ケレスとナポリ王フェルディナンド4世からケレス・フェルディナンデア(CeresFerdinandea)と命名された。その後国王の名は政治的理由により削... |
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フセヴォロド1世
フセヴォロド1世/ヴセヴォロド1世(,1030年-1093年4月13日)はキエフ大公(在位:1076年-1077年、1078年-1093年)。 |
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プロフィール
- ミハイル1世とは
- 略歴
- 「東西教会の相互破門」に至る経緯
- 「東西教会の相互破門」の有効性
- 参考文献
- 関連項目
- 関連サイト
ミハイル1世キルラリオス(,MichaelICerularius,1000年頃-1059年)は、正教会のコンスタンディヌーポリ総主教(在位:1043年-1059年)。「ミハイル」は中世以降変化したギリシャ語・現代ギリシャ語の読みを反映した 転写で、古典ギリシャ語の再建 音風の転写をすれば、 ミカエル1世ケルラリオスもしくはミカエール1世ケールーラリオスとなる。ミカエル・ケルラリオスとも表記される。
略歴
| コンスタンディヌーポリ(コンスタンティノープル)に生まれる。 |
| ミハイル1世キルラリオスはローマ教皇レオ9世と、西方教会(カトリック教会)の東方教会(正教会)と異なる慣習、殊に無発酵パンを聖体礼儀(ミサ)において使用する西方教会の慣習について論争をした事で知られる(正教会では今日に至るまで発酵パンを用いる)。 |
| また、1054年の「東西教会の相互破門(後述)」時のコンスタンディヌーポリ総主教である。 |
| ミハイル1世の時代、東ローマ帝国はコンスタンティノス9世モノマコス(在位:1042年-1055年)による失政やコンスタンティノス9世没後の内乱などにより衰退していた。 |
| このため皇帝イサキオス1世コムネノス(在位:1057年-1059年)は徴税を強化し、皇帝が与えた教会の財産を没収するに至った。 |
| 総主教ミハイル1世はこれに対して反発したが、皇帝により逮捕された。 |
| こうした強硬策は、教会および民衆から、皇帝が反発を買う要因となった。 |
| 帝国が混迷を深める中、ミハイル1世は1059年に永眠した。 |
「東西教会の相互破門」に至る経緯
| 更に細かい分類方法と経緯があり、この図はあくまで概略である。 |
| 1054年に、総主教ミハイル1世が教皇レオ9世に対して宛てた手紙の中で、差出人(ミハイル1世)の称号は「全地総主教(,EcumenicalPatriarch)」と記載され、ミハイル1世が教皇であるレオ9世に対し「父」ではなく「兄弟」と呼びかけていた事が東西両教会間の争点となった。 |
| 「全地総主教」の称号は、ローマ教皇の絶対的な権威と権限を侵しかねないものとして捉えられ、また教皇を「父」ではなく「兄弟」とコンスタンディヌーポリ総主教が呼ぶ事を認める事は、これもまたローマの権威を損ねるものとして捉えられたからであった。 |
| こうした状況下で、ローマ側の使節としてコンスタンディヌーポリを訪れていたのは枢機卿フンベルトであった。 |
| フンベルトはニケア・コンスタンティノポリ信条におけるフィリオクェ問題、すなわち聖神゜が父からのみ発するとする文言を用いる東方教会と、聖霊は父と子から発するとする文言を用いる西方教会との間の論争において、「東方が勝手にフィリオケ(子より)の語を削除した」と強く主張し(実際は西方がフィリオケを後代に付加えた事は、現代の西方教会は認めている)、ミサにおける東方の執行形式を非難し、東方における神品の妻帯カトリック教会の司祭は現在でも妻帯が許されないが、正教会の司祭は輔祭に叙聖される前であれば妻帯が許される(但し再婚は不可)。 |
| そして主教は妻帯は許されない。 |
| 詳しくは神品(正教会の聖職)の項を参照。 |
| を批判し、さらにローマ教皇の絶対的な権威と権限を主張するなど、熱烈なローマ教皇至上主義者であった。 |
| ミハイル1世はフンベルトに会う事を、西方の政治的理由に対する疑義から拒絶し、数ヶ月に亘って会見の機会を与えずにフンベルトを待たせた。 |
| ここに至って、レオ9世が既に3ヶ月前に永眠しており破門を行う事は不可能であったにも関わらず、フンベルトはミハイル1世とその同調者に対する破門状を、1054年6月16日にコンスタンディヌーポリ総主教の座所たるアギア・ソフィア大聖堂の宝座に叩きつけた。 |
| その際、アギア・ソフィア大聖堂の一人の輔祭が大聖堂を出て行ったフンベルトを追いかけて取りすがり、破門状を持ち帰って欲しいと懇願したが聞き入れられなかった。 |
| これに対してミハイル1世は、フンベルトとその一行に対する破門を宣言した。 |
| これはノルマン人への対抗のために東西教会の関係改善を模索していた「関係改善を模索していた」と言う事は、既に溝が広がっていたということである。 |
| 本記事内の「『相互破門』の有効性」の項目にも詳述するように、この時代、東西両教会の距離は既に広がっていた。 |
| 皇帝コンスタンティノス9世モノマコスの意に反するものであったが、結局のところミハイル1世とコンスタンディヌーポリ教会側のローマ教会への対抗措置を皇帝は抑える事は出来ず、フンベルトを中心とするローマ教会側の使節団の説得にも失敗した。 |
「東西教会の相互破門」の有効性
| この「相互破門」が東西教会の分裂を確定したと言われる事が多いが、既に述べたように、この破門は。 |
| 既にローマ教皇レオ9世は永眠しており、ローマ側からの破門はフンベルト枢機卿個人の怒りによる独断の面が強い事。 |
| フンベルト枢機卿の破門状にある破門の対象が、東方の正教徒全てを指すのか明らかでない事。 |
| 総主教ミハイル1世の破門宣告の対象はフンベルト個人とその同行者達だけであった事。 |
| 以上の事由につき、東西教会の分裂がこれで確定したと考えるのは難しく、東西両教会のこの時点での破門は有効だったのかすら疑わしい程度のものである。 |
| ローマ教皇(ローマ司教)の地位(教皇首位権問題)。 |
| 東ローマ帝国の事前承認を経ないローマ教皇によるカール大帝の戴冠。 |
| スラヴ語奉神礼(典礼)の是非。 |
| を巡り、東西両教会の距離は広がっていた。 |
| 従って、1054年の当該事件については、あくまで東西教会の相違を象徴する、分かりやすい事件の一つといった位置づけが妥当であろう。 |
| 東西両教会の分裂が決定的とされるのは1204年の第4回十字軍がコンスタンディヌーポリを攻略・占領した事件においてである。 |
| なおこの相互破門は1965年に東西両教会双方から解消されているが、未だ東西両教会の相互領聖は実現されておらず、このことも相互破門を「東西教会の分裂の決定的事件」と位置付ける事に疑問符をつける根拠となる。 |
参考文献
| 高橋保行『東方の光と影』春秋社(1991-05-30出版)ISBN9784393261033(4393261038)。 |
| ポール・ルメルル(著)、西村六郎(訳)『ビザンツ帝国史』ISBN9784560058701(4560058709)。 |
関連項目
| コンスタンディヌーポリ総主教の一覧。 |
| キリスト教諸教派の一覧。 |
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1054年
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総主教ミハイル1世が教皇レオ9世に対して宛て... |
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1059年
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永眠した |
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