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1432年に第6代ムラト2世の子として生まれた。
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幼少時にスーフィー願望のある父が一時的に隠棲した時、短い間だが皇帝に即位した経験がある。
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1451年に父が死ぬと兄弟を殺して即位した。
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二度目の治世が始まると、アナトリア内陸部のカラマン君侯国を破り、1452年、その帰路で立ち寄ったボスポラス海峡にルメリ・ヒサルを建設して東ローマ帝国に圧力をかけた。
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1453年、大宰相チャンダルル・カラ・ハリル・パシャらの反対を押し切って出兵し、コンスタンティノープルを攻略、東ローマ帝国を滅ぼした。
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その後、アナトリアやバルカン半島に残る東ローマ系の諸侯を征服、1461年にアナトリア西北部で200年以上続いたトレビゾンド帝国を滅亡させた。
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バルカン方面ではヴェネツィア共和国などの諸勢力と戦い、ペロポネソス半島やセルビアを征服。
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アナトリア方面ではルーム・セルジューク朝の解体以来各地に割拠する諸君侯国を圧倒して現在のトルコ共和国の国土であるアナトリアのほとんどを統一した。
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1475年にはクリミア半島に割拠するモンゴル帝国の後裔国家クリミア・ハン国を服属させ、黒海をオスマンの海とした。
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30年にわたる二度目の治世において、メフメトはコンスタンティノープルやバルカン半島の諸王国、アナトリアのトルコ人の諸勢力を征服し、オスマン朝の勢力を急速に拡大させた。
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これによりオスマン朝は帝国と呼びうる内実を獲得することになる。
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内政では、首都をそれまでのエディルネから新たに征服されたコンスタンティノープルに移し、新都にトルコ人ムスリム(イスラム教徒)を盛んに呼び集めるとともに東ローマ時代から残留した正教徒や西洋から来たカトリック信徒、アルメニア正教徒やユダヤ教徒を住まわせたり、モスクや商業施設などのインフラ整備を行って、イスタンブルと呼ばれることになるこの町の復興に力を注いだ。
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のちの時代のオスマン帝国の中枢となるトプカプ宮殿や、イスタンブルの観光名所となっているグランドバザールの基礎が築かれたのもメフメトの治世である。
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また、慣習法や法令を集成してカーヌーン・ナーメと呼ばれる法典集を編纂したり、カプクルと呼ばれる子飼いの軍人官僚を宰相や州知事などの高官として用いるなど、オスマン帝国の中央集権的な統治機構を整備した。
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晩年には南イタリアの町オトラントに派兵し、イタリア半島南端の一部を占領したが(オトラントの戦い)、メフメトの死により頓挫した。
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その死は毒殺であるとされており、「ユダヤ人の侍医が含ませた」という説もある。