| 父親のフェリペ・アルーも通算2101安打の成績を残したメジャーリーグの名選手で、サンフランシスコ・ジャイアンツの監督などを務めた。 |
| そしておじのマティとヘススも通算1000安打以上を記録している元メジャーリーガーで、モイゼスは野球エリートに生まれた。 |
| 1986年にピッツバーグ・パイレーツにドラフト指名され、入団。 |
| しかし、入団1年目の1987年-1989年までの3年間はメジャーでの出場機会はなかった。 |
| ようやく、メジャーに昇格したのは1990年のことだった。 |
| その年はパイレーツで試合に出場したが、シーズン中にモントリオール・エクスポズへと移籍する事になった。 |
| そこでは14試合に出場し、3安打をマークした。 |
| しかし、メジャーへの昇格に時間がかかった割に、好成績をマーク出来なかった。 |
| 1992年、父親のフェリペがエクスポズの監督に就任。 |
| その影響もあったのだろうか、その年は115試合に出場し、打率.282、本塁打9、打点56、盗塁16とまずまずの成績を残した。 |
| 翌年は更に出場機会が増え、136試合で18本塁打、17盗塁をマーク。 |
| 打率も少しだけだったが、アップした。 |
| 翌年は107試合の出場に留まったが打率.339、本塁打22、打点78はいずれも自己ベストの数字となった。 |
| 翌年も故障の影響で93試合にしか出場出来なかったが、14本塁打を記録するなど、打撃面でのパワーはしっかりと見せ付けている。 |
| 翌1996年は久々に143試合と、シーズン通してコンスタントに試合に出場。 |
| 自己ベストの96打点を叩き出した。 |
| フロリダ・マーリンズへ移籍した翌年は打点を115に乗せ、リーグ屈指の打者に成長した。 |
| 1998年から2001年まではヒューストン・アストロズでプレー。 |
| 移籍1年目は絶好調で打率312、本塁打38、打点124を記録。 |
| 3割30本100打点をクリアした。 |
| しかし、怪我で1999年を1年通して丸々棒に振ってしまうが、翌2000年は見事に復活し、126試合の出場で30本塁打、114打点を記録。 |
| また、その年に記録した打率.355は1994年の.339を上回る自己ベストの数字であった。 |
| 翌年も本塁打こそ27本に留まったものの、108打点、打率.331を記録した。 |
| 2002年にシカゴ・カブスに移籍。 |
| この頃から衰えが目立つようになってきて、打率.275、15本塁打、61打点と成績が急落してしまった。 |
| 翌2003年は、ワールドシリーズまであと一歩と迫るが、1997年に所属したマーリンズの前に敗れる。 |
| 終盤、アルーがファウルフライをキャッチしようとしていたのを、あろうことか地元リグリーのカブスファンに妨害され(もちろん悪意はなくうっかり手出し)、流れが変わり、チームは念願のワールドシリーズ進出を逃した(ビリー・ゴートの呪い)。 |
| 復調した2004年は155試合に出場。 |
| 打率は.293まで上がり、打点も106打点を記録。 |
| 何より凄かったのは、38歳という年齢で自己ベストの39本塁打を記録した事だった。 |
| オールスターゲームにも選出され、また同年オフには日米野球のメンバーとして来日している。 |
| 2005年はサンフランシスコ・ジャイアンツへ移籍する事になり、再び父親の元でプレーすることになった。 |
| その年は怪我の影響で123試合の出場に留まったが、復活を遂げた打撃は再び衰えるところを知らず、打率.321を記録した。 |
| 2006年は怪我で長期離脱し、出場したのは11年ぶりの100試合以下となる98試合と少なかったが、打率.301・22本塁打・74打点をマーク。 |
| 自己ベストの26本塁打を放ったレイ・ダーラムと共に、2002年オフのジェフ・ケント放出以来、本格的な主砲バリー・ボンズの擁護役として存在感を示した。 |
| そして、この年は通算300本塁打を達成し、9月24日に通算2000本安打、9月27日に通算400二塁打を達成するなど、記録ずくめのシーズンとなった。 |
| ちなみに9月27日には、ダーラムとダブルスチールを試み、ホームスチールを成功させ、自らの記録達成に花を添えている。 |
| 同年オフにFAとなり、ニューヨーク・メッツに移籍。 |
| 2008年シーズン限りで引退したが、2009年の第2回ワールド・ベースボール・クラシックで一時的に現役に復帰し、ドミニカ代表として出場した。 |