| この頃がモーリス・ユトリロの画家としての絶頂期として高く評価されている。 |
| 1909年の春、翌年モーリスの画商となったルイ・リボートが最初の買い手として現れる。 |
| これ以前にもモーリスは売ってくれる者であれば誰にでも絵画を売り渡したが、画商としてではなかった。 |
| リボートはクロヴィス・サゴの画廊を訪れ、ユトリロの作品に目を留め、ヴァラドンに絵画の売買が可能か否か問い合わせた。 |
| この時代はユトリロが初期のパリとランスの大聖堂を描いていた時代であった。 |
| リボートは委託販売をしていたサゴに手数料を払うよりも、シュザンヌと直接取引をしたがった。 |
| 1909年ユトリロはサロン・ドートンヌに2点出品した。 |
| これがユトリロの作品が世に出た初めての展覧会であった。 |
| このうち一つが彼の代表作の一つであるノートルダム橋であった。 |
| 同年ヴァラドン=ムジス夫妻が破局を迎えた。 |
| ユッテルとヴァラドンはムジスのアパルトマンの真向かいに位置するコルトー街12番地のアトリエを独占したが、年内にユトリロとクロー婆さんと共にモンマニーのパンソンの丘の館に移住した。 |
| ムジスはこの頃離婚の手続きを開始し、ヴァラドンの一切を拒絶した。 |
| そのためモンマニーに移り住んだ一家は経済問題に直面することとなる。 |
| ヴァラドンもユトリロもユッテルも収入が全くなかった。 |
| 一時期はユトリロを石膏採掘場に労働に行かせたが、公衆の面前で大暴れし警察沙汰になり終わった。 |
| ユッテルはユトリロの冒した失態の仲裁を務めた。 |
| また時間があったときはユトリロは自身の書いた絵を売ろうとした。 |
| ルイ・リボードはユトリロの才能を理解していた。 |
| モンマルトルの作品倉庫で半ダースほどの作品の購入、転売に成功し利益を得た。 |
| 1911年ヴァラドン側の過失としてポール・ムジスとシュザンヌ・ヴァラドンとの間の離婚がセーヌ県裁判所控訴院で確定したにもかかわらず、ヴァラドンはパンソンの丘の館とコルトー街のアトリエを保持した。 |
| 一方ユトリロはアルコールの影響を受け続け、泥酔した際にそのこと自体と猥褻の罪で起訴され、罰金刑を受けている。 |
| 彼は「カス=クルート」という酒場を開くと同時にマリー・ヴィズィエが経営していた「ベル・ガブリエル」という店を所有していた。 |
| ユトリロはそこに出入りし飲食するだけではなく、二人は彼に店の奥で絵を描くことを許した。 |
| 完成した絵はゲイが自分のカフェのホールに掛け、それが好評を博し、芸術家としてモンマルトル一帯に認知されるようになった。 |
| 1912年にリボードはユトリロの絵画の価値が急上昇したため専属契約を交わし、ささやかな規則的報酬と引き換えにした。 |
| これは一家の経済的安定をもたらしたが、同時にユッテルが自身の道を諦め、ヴァラドンと共にユトリロの絵画に利益を見出そうとする。 |
| リボードはユトリロが利益を彼にもたらしたことで、ユトリロの制作を注文して作らせ制御下におこうとした。 |
| アドルフ・タバランはリボードのもとを訪れ、責任を持って芸術家を病院に入れるように促したが、リボードはそれを拒否した。 |
| サノワのルヴェルテガのもとに受け入れられ、すぐに健康を回復した。 |
| 入院中ユトリロは、精神障害者を一時的に居住者として扱う病院の「オープン=ドア」システムのおかげで病院を出ることが許された。 |
| そこでもユトリロは絵を描いたが、リボードの提案である「1ヶ月に6枚以上描かない」のため、12枚以下の風景および2点の小さなカルトンしか描かなかった。 |
| ヴァラドンは息子の作品のサインを偽造したが、買い手も気づいていたジャン・ファブリス『モーリス・ユトリロ展』平石昌子、濱田真由美、坂井功訳、ISARTINC.2010年、172ページ。 |
| しかし12月に再びユトリロの健康状態が悪化し、サノワの診療所に再入院した。 |
| 一方で、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンにユトリロの作品は出品され、ヴァラドンとユッテルは自分たちも各々で展覧会に参加する一方で、ユトリロの発表の面倒も見た。 |
| 6月15日、ドルーはユトリロの作品をホテル・ドルオに出品するが失敗し、10点もの作品を買い戻すこととなった。 |
| 彼はルヴェルテガ博士の診療所を出た後軍隊に志願したが、8月29日医学的理由で兵役を免除された。 |