| 父ユゼフ・ゴルトシュミットと母ツェツィリア・グウェンヴィツカとの間に生まれる。 |
| 家は裕福な弁護士一家であった。 |
| ゴルトシュミット家は、ワルシャワではポーランドに同化した家族と見られていた。 |
| 反ユダヤの風潮が高まる中で初めてコルチャックは、自らのユダヤ系の出自を意識することになった。 |
| 学校時代、彼はワルシャワの文系のギムナジウムに通った。 |
| そこで、ラテン語、ドイツ語、フランス語、そしてギリシア語を学んでいる。 |
| 授業は、ワルシャワが18世紀のポーランド分割の結果、ロシア領に入っていたため、ロシア語で行われた。 |
| 1896年父親が亡くなってから、家族の経済基盤は忽ちにして破綻を来たし、若きヘンリクは、家庭教師で家族の生計を支えなくてはならなかった。 |
| 1898年から1904年までワルシャワ大学で医学を学ぶ。 |
| 小児科の専門医として学位を取得したのち、ワルシャワの小児科病院に勤務の職を得た(1904-1911年)。 |
| そこでの彼の活動は、1904・05年、彼が日露戦争に野戦病院の医師として従軍し、その後引き続いて彼が国外で研修(ベルリンで1年、その後パリで半年)を受けたため一時的に中断された。 |
| 医学部での教育期間に平行し、彼は、執筆活動を始めた。 |
| 新人作家としてコンテストに参加する際、彼はそばにあったユゼフ・イグナツィ・クラシェフスの小説『ヤナシュ・コルチャックと美しい女刀鍛冶』(17世紀の貴族を主人公にした歴史物語)の主人公の名前から借用して、ヤヌシュ・コルチャック(''JanaszKorczak'')をペンネームとした。 |
| これが''JanuszKorczak''と取り違えられ、彼はそれをそのまま使用することにした。 |
| 彼の処女作は早くも彼を有名作家にのし上げ、それと共に彼は有名医と持てはやされるようになった。 |
| この副収入は、貧しく親のない子供たちの医療費や支援の基金に充てられた。 |
| 都市の労働社会層の子供たちのため、義捐金で運営される夏の休暇村にも無報酬の児童指導員として何度か同行した。 |
| 1911年、新しく建設されるユダヤ人の孤児のための孤児院の院長のポストを打診された時、彼はその職を受諾し、その地位に就くことを決意した。 |
| この孤児院、ドム・シエロ(DomSierot、「孤児たちの家」の意)に、彼の生涯を捧げた。 |
| ユダヤ人の組織「孤児支援」(HilfefurdieWaisen)により運営されたこの孤児院は、14歳までのユダヤ人の孤児を受け入れていた。 |
| コルチャックは、原則的な子供の権利に立脚した理想を貫き、新たな道を模索し、例えば子ども共和国モデルの移植のようなものであるが、教育的なかかわりの余地を作り出した。 |
| 壁新聞、子ども集会、仲間裁判など、注目すべき教育実践を行った。 |
| コルチャックが、子どもの権利の三つの大きな柱として掲げた「子供の死についての権利」「子供の今日という日についての権利」「子供のあるがままである権利」に込められた、子供も大人も、それぞれその人格が尊重されなくてはならないという見解は、今日なおその真価を失っていない。 |
| 第一次世界大戦が勃発し、彼は再びロシア軍の混成軍団の従軍医として召集され、ドム・シエロでの活動は中断を余儀なくされた。 |
| 孤児院の運営は、この時期彼の同僚、ステファニア・ヴィルティンスカが引き継いだ。 |
| しかし、彼はこの時期も教育学的な活動を続けていた。 |
| ひとつは、『人はいかに子供を愛するのか』という彼の初めての教育学的な著作により、もう一つは、彼がキエフで宿営を構えていた時期、いくつかの孤児院に医師としてかかわり、そこでポーランドの子供たちのための寄宿学校を運営していたマリア・ファルスカと知り合っていた。 |
| その後、再び独立したポーランドの首都として機能し始めたワルシャワに帰還。 |
| そこでの日常的な生活は、コルチャックの仕事が花開いた時期と言っても良いだろう。 |
| ドム・シエロでの仕事と並んで、彼はマリア・ファルスカと共に最初ワルシャワのプリュスコウにいたが、1928年ワルシャワの郊外のビェラヌイに移されたナシュ・ドム(''NaszDom''、「僕らの家」)の指導監督を引き受けた。 |
| これは二年間のみであるが、一種の実験学校であった。 |
| その他、地下の非合法の大学「さまよえる大学」(:en:FlyingUniversity)でも教育学の教鞭を採った。 |
| 1926年からは地域裁判所で教育問題に関する専門家として顧問を務め、1926年から1930年までは、子供新聞「小評論」(MałyPrzegląd)の編集長も引き受けた。 |
| 加えて彼は数多くの本も書いている。 |
| その中には、元々児童書には頻繁に彼と子供たちの身の回りの事件が登場していたのだが、教育論としても書かれるようになり、自身の経験と理想を書き記した。 |
| 最後に、1935・36年にはポーランドのラジオ放送のキャスターにもなり、本名ではなく「老博士」としてマイクから子供たちと共に、子供たちに向けてのおしゃべりを楽しんだ。 |
| 1939年ドイツのポーランド侵攻によりヨーロッパで第二次世界大戦が始まった。 |
| それと共に国家社会主義の反ユダヤ主義を背景に、大規模なユダヤ人に対する差別、迫害が始まり、これはホロコーストという、過去に例を見ない大規模な民族虐殺に向かうことになる。 |
| 1940年10月ユダヤ人の孤児院の子供たちはワルシャワゲットーに移住するようにとの命令を受けて、ドム・シエロの教師と子供たちは、その建物はすぐ目の前の都市部にあるにも係わらずゲットーへの移動を余儀なくされる。 |
| ゲットーの劣悪な環境の中でもコルチャックは、その最後の数ヶ月執筆への意欲を失わなかった。 |
| 彼の『1942年ワルシャワゲットー日記』は、ドム・シエロで彼の助手として働いたポーランド人のイゴール・ネーヴェルリが密かに保管し、1958年初めて刊行されたものであるが、生涯の思い出、ゲットーでの日々の日記的な記述の他に未来への想いと幻想的な白昼夢などが入り交ざった内容となっている。 |
| 彼の生涯の仕事の彼自身による集大成のような文献として貴重なものである。 |
| 1942年8月6日、ナチスのいわゆる「ユダヤ問題最終解決」の名の下、孤児院の200人の子供たちは、孤児院を出て、緑の旗を立てて、集荷場と名付けられたユダヤ人をゲットーから移送するための駅まで行進し、親衛隊によりトレブリンカ強制収容所(正しくは、VernichtungslagerTreblinka、トレブリンカ抹殺キャンプ)に移送された。 |
| コルチャックは、子供たちを見捨てて自分だけが助かることを拒否し、恐らく1942年8月6日、ナチスにより到着のその日に、子供たちと共にガス室で殺害された。 |
| あるいは、遺体を埋めるための大きな穴(現在のトレブリンカの強制収容所の跡地の22番と番号の振られた箇所)の前で、子どもたちと共に銃殺されたという説もある。 |
| トレブリンカの犠牲者の記念碑は、数多くの自然石を配列したもので構成されている。 |
| そのうちの一部には、これらの犠牲者がここに移送されてきた土地の名、都市名や小さな町や村の名が刻まれているが、そのうち唯一例外的に「ヤヌシュ・コルチャックと子どもたち」と刻まれている記念碑がある。 |